0.8
大きな黒い目は気まずそうに下を向いていた。瞼もその周りも赤くなっていて、泣き腫らしたのが分かる。
何より、奈々ちゃんの雰囲気がいつもと全然違った。ものすごく落ち込んでいるみたいだ。
「どうしたの? やっぱり、げんきじゃないよ」
「うん……」
奈々ちゃんの手が震えている。寒いのかな、と思って、中に入ってドアを閉めた。それでもずっと震えている。
と、奈々ちゃんが急にぽろぽろと泣き始めてしまった。
驚いて、どうしたらいいか分からなくて、僕はとにかく慌てた。
「な、ななちゃん……どっかいたい? けがしたの? えっと、えーっと」
何を聞いても首を横に振られるだけだったから、奈々ちゃんが泣き止むまでそばにいることしかできなかった。
それからしばらく、僕は奈々ちゃんの家に行って、ただ泣いている奈々ちゃんの隣で黙って待つことが続いた。何かした方がいいのかな、と最初は迷ったけれど、奈々ちゃんは僕がここにいるだけでいいみたい。
少しずつ奈々ちゃんの気持ちが落ち着いてきたら、公園に誘ってみた。学校にもまた来られるようになって、その頃には桜が咲いていた。
「さおりちゃん、しょうがやき、作って!」
奈々ちゃんの喜ぶことは、できるだけしたいと思う。
前に、沙織ちゃんのご飯で一番好きなのは生姜焼きだと奈々ちゃんが言っていた。
「また? この間も食べたでしょ?」
「いいからー! あ、あとね、新しいゲームのソフト欲しい!」
「ゲーム?」
「うん! ななちゃんとやりたいの! ななちゃんが好きなキャラクター出てるんだって!」
「……絢斗。ななちゃんと仲良くするのはいいけど、うちはうち、よそはよそなんだから……」
「遊びに行ってくる!」
「絢斗!」
僕が奈々ちゃんのそばにいなきゃ。泣いたら隣にいてあげなきゃ。
僕がたくさん泣いても奈々ちゃんは助けてくれたから、今度は僕が助けてあげるんだ。
クリスマスは嫌い、と奈々ちゃんが言った。すごく寂しくて辛かったって。
だから決めたんだ。寂しくて辛いクリスマスにならないように、クリスマスは楽しくて嬉しいって奈々ちゃんが思えるように、僕は毎年奈々ちゃんのそばにいよう。
「ななちゃん、僕がいるよ。ずっと一緒にいる。毎年、ぜったいに、そばにいるから」
なのに、僕はその約束を守れなかった。
心の準備も、きちんと話もできないまま、僕は奈々ちゃんを一人置いて、この町を去ることになった。
***
「ななちゃんに会いたい」
荷解きが終わって二日後に、自然と口から零れた。
キッチンからすぐに沙織ちゃんの答えが返ってくる。
「絢斗。もうななちゃんとは会っちゃだめ」
振り返っても沙織ちゃんとは目が合わない。
「どうして?」
「どうしても。ななちゃんだって、絢斗がいつまでもついて回ってたら大変でしょう」
「でも、ななちゃんと約束したよ。ずっと一緒にいるって。僕、約束やぶっちゃうよ……」
別れ際、奈々ちゃんは泣いていた。今まで奈々ちゃんが泣いているのを何度か見たけれど、あの時が一番苦しくて辛かった。僕のせいで泣いているのが分かったから。
また泣いてないかな。一人で我慢してないかな。もしそうだったら、今すぐ飛んでいきたいのに。
「……だめ。いい? これは絢斗のためなの。ななちゃんからは卒業しなさい」
どうして、何で、といくら聞いても答えは変わらなかった。
納得はできなかったから、お父さんにこっそり頼んで奈々ちゃんの町まで車に乗って行こうとしたこともあった。でも沙織ちゃんにばれて、ものすごく怒られた。
「私はね、絢斗のためを想って言ってるの。絢斗が好きだから怒るのよ」
沙織ちゃんの目を見ればそんなのは嘘だって分かる。僕のことなんてこれっぽっちも好きじゃない。僕のことが好き、僕が好き、自分に言い聞かせるように繰り返すだけで、本当は違うんだって知ってる。
だけれど、高校生になってから沙織ちゃんの「好き」が少しずつ本当になっていくのを感じた。嬉しかった。嬉しいはずだった。
「絢斗、好きよ」
最初に覚えた違和感が膨らんでいく。日ごとに増して、僕は沙織ちゃんの「好き」が怖くなった。
それと同時に、ずっと心の中に閉じ込めていた“ななちゃん”に無性に会いたくて会いたくてたまらなくなった。
沙織ちゃんの言うことを守らないといけないと思っていた。僕のことを好きになって欲しかった。ちゃんといい子でいなきゃと思った。
でも沙織ちゃんの「好き」を手に入れてしまったら、僕が欲しかったのはこれじゃないと思った。どうして今まで黙って言いつけを守っていたんだろうと思ってしまった。
「僕、奈々ちゃんに会いに行くよ」
ようやくそう言えたのは、高校一年生の冬だった。寒い日に一人で膝を抱える奈々ちゃんを思い出して、僕はいてもたってもいられなくなった。
「……私のこと見捨てるの?」
そう問うてきた沙織ちゃんの瞳の暗さを、僕は一生忘れないと思う。
喉に何かが詰まったように黙り込んでしまって、やっとの思いで言えたのは「どうして」の四文字だけだった。
「私、ずっと言ってたじゃない……奈々ちゃんには会いに行かないでって」
悲しげに呟く沙織ちゃんを見ていると、罪悪感に苛まれた。今にも泣きだしそうな沙織ちゃんを落ち着かせるために「そうだね」と頷いて、背中をさする。
でも、ここでも思ってしまった。僕が慰めたいのは、今もどこかで泣いているかもしれない奈々ちゃんなんだって。
奈々ちゃんに会いたい。でも奈々ちゃんに会いに行ったら沙織ちゃんが悲しむ。
好きだと言われるたびに怖くて沙織ちゃんを嫌いになってしまいそうだ。嫌いにはなりたくない。
毎晩考えるようになった。僕はどうしたらいいんだろう。
「――いや、絢斗はまず八方美人なとこ直した方がいいんじゃね?」
細かいことをぼやかして友達に相談してみると、呆気なく指摘された。
「はっぽう、びじん」
「おー。え、まさかお前、八方美人の意味知らないとかないよな」
「知ってるよ」
それなら良かった、と啓介が苦笑する。
テスト期間の放課後、ファミレスで教科書とノートを広げながら、勉強という本来の目的そっちのけで話が続く。
「両方に好かれようとするから苦しいんだよ。てか、絢斗のくせに二股とか調子乗りやがって」
「ううん、そういうんじゃないんだけど」
「冗談だっつの。真顔で返事すんな」
両方に好かれようとするから、苦しい。
すとんと身に入ってきた言葉だった。腑に落ちてしまって、でもそれを認めると今度は選択に迫られるから、僕は必死に逃げ道を探したかった。
「どっちにも好かれるのは、だめかな?」
「だめっていうか……それができたら悩んでないんじゃね? まあ普通はどっちか一つだけだろ、多分」
「啓介も一つだけ?」
「うーん、そうだな。大切な子は一人だけで十分っしょ」
言い終わってから、啓介が照れ臭そうに仰け反る。
「あ~~~、まあ俺は馬鹿だから! 駆け引きとか絶対無理なんだわ! だから両方にいい顔するとか器用なことできねえな」
「啓介は馬鹿じゃないよ」
「うん……お前はいい奴だって知ってる、ありがとうな……」
成績はいつも上位の啓介が馬鹿なんだったら、僕は大馬鹿だ。
そうか。僕は選ぶ他ない。そして、大切にできるものはたった一つだけなんだ。
***
「奈々ちゃんに会いに行ってくるから」
高校二年生の夏だった。一方的に告げた僕に、沙織ちゃんは当然反論してきた。
「……何言ってるの? ずっと言ってるじゃない、だめだって……」
「だめなの?」
「だめに決まってるでしょ!」
「分かった」
頷いてみせると、沙織ちゃんがほっとしたように息をつく。少しだけ心苦しくなりながら、それでも僕はようやく「切り捨てる」ことを覚えた。
「じゃあ、家出する」
僕はもう泣いているだけだった小学生じゃない。自分の足で奈々ちゃんの町まで行くことはきっと簡単だった。
でも、それじゃだめなんだ。沙織ちゃんを傷つけると分かっているけれど、それ以上に僕の中で大切なものがあると伝えなければならないと思った。
沙織ちゃんという檻の中で、いい子で体育座りしていた自分を、壊さなきゃ前に進めない。
「え……?」
「修学旅行の時に使ったカバンってどこにしまったっけ……えっと、電車の時間……」
家出という単語が一番不良っぽくていいかなと思って使ってみたけれど、本当は何にも考えていなかった。
けれど、僕がそんなことを言い出したのが相当ショックだったらしく、沙織ちゃんは呆然としていた。
引っ越しの話が出たのはそのすぐ後のことだった。
沙織ちゃんはどこか諦めたような、それでいて希望を見出したような目をしていて、アンバランスな表情に一抹の不安を覚えた。
沙織ちゃんがどうして急に奈々ちゃんと会うことを許してくれたのかは、正直よく分からない。分からないことをずっと考えるよりも、希望が叶ったことを喜ぼうと思った。
七年ぶりに戻ってきた町は、すっかり変わっていた、とも、全然変わっていない、とも言えなかったけれど、奈々ちゃんとよく遊んだ公園を見つけた時は写真を撮ってしまうくらい嬉しかった。
見覚えのある簡素なアパート。感慨深く見上げて、ふと二階からこちらを見下ろしている一人の女の子を視界に入れた瞬間、本気で心臓が止まったかと錯覚した。
――“ななちゃん”。
僕には分かった。真っ直ぐなびく黒髪も、大きくて綺麗な瞳も、間違いない。ずっとずっと会いたくて願い続けてきた奈々ちゃんだ。
「奈々ちゃん、僕です。暮町絢斗です」
固く閉ざされたドアに何度も名前を呼んだ。それでも開かないドアに、経過してしまった月日に、僕は大事な人を深く傷つけてしまったことを知った。




