0.4
沙織ちゃんは僕のお母さんではない。
「おかーさん、あれほしい!」
「だめ。おもちゃはこないだお父さんに買ってもらったばっかりでしょ?」
「ほしいのー!」
僕が三歳の時にお母さんはお空に行ったんだ、とお父さんが言っていた。ふうんって、それしか思わなかった。だって、お母さんのことはあんまり覚えていないから。
代わりに僕のお母さんをしてくれたのが沙織ちゃんだった。
「絢斗!? 何でここに落書きしたの!?」
沙織ちゃんはお父さんのことが大好きで、お父さんが帰ってくるとすごく嬉しそうな顔をする。僕といる時は怒ってばっかり。ため息ばっかり。
きっと僕がいなくなっても、ふうん、としか思わないんだろうな。僕も、お母さんがいないって知った時、ふうん、だったけど。
「また野菜残して! ちゃんと食べなきゃだめでしょ!?」
「きらい! たべたくない!」
「絢斗!」
お父さんも、学校の先生もみんな優しい。がみがみ怖いのは沙織ちゃんだけだ。
でも小学二年生の時に、奈々ちゃんに出会った。
「にんじん、きらいなの?」
教室の班が同じになっただけ。給食の時間に机を向かい合わせにする時、たまたま目の前になっただけ。
真っ直ぐな黒い髪が綺麗で、大きい目に吸い込まれそうになった。
「うん。やさい、おいしくないから」
「そうかな?」
「そうだよ」
奈々ちゃんは不思議そうに首を傾げて、カレーに入っていたにんじんを食べた。そしてやっぱりもう一度、こてんと首を傾げる。
「おいしいけどなあ……」
あまりにも普通に言うから、何だか美味しいのかもしれないと思った。
自分の器のにんじんを一つスプーンですくって、口に入れてみる。
「……カレーのあじがする……」
にんじんの味がしない。おかしいな、沙織ちゃんのカレーを食べた時はにんじんの味がしたのに。
「ふふっ」
何でだろう、とカレーをじっくり見ていたら、目の前から小さい笑い声が聞こえた。ちょっとびっくりして顔を上げる。
奈々ちゃんが肩を揺らして笑っていた。
「ね、にんじん、おいしいよね」
それが奈々ちゃんと初めて話した時のこと。
家に帰ってにんじんを食べてみたら、沙織ちゃんがものすごく驚いていた。
次の日、学校に行く途中で奈々ちゃんと会った。家が近いんだって。
それから学校の行き帰りは奈々ちゃんと一緒に歩くようになった。奈々ちゃんには「なんでついてくるの?」って言われたけど、僕が遅れた時は待っててくれる。優しいんだなって思った。
奈々ちゃんは不思議な女の子だった。
僕が沙織ちゃんから怒られたようなことをしても、奈々ちゃんは怒ったり叱ったりしない。毎回必ず「なんで?」と聞いてくる。野菜を残した時も、学校の机に落書きをした時も。
だから僕は毎回困ってしまう。
野菜が好きじゃないから残す。退屈だから落書きをする。声に出してみると理由は全然大したものじゃなくて、じゃあ僕はどうしてそんなことをしていたんだろう、と考える。
僕は、沙織ちゃんに知って欲しかった。僕が何を好きで何を嫌いなのか。今どんな気持ちでどんなことを考えているのか。
ただ、もう少しだけでいいから僕の方を向いて欲しかった。
だって、沙織ちゃんは僕のことなんてきっと好きじゃない。お父さんと話している時の沙織ちゃんが本当に楽しそうで嬉しそうで、それがずっと悲しかった。
奈々ちゃんに「なんで?」と聞かれ続けて、僕は自分がとても悲しいことに気が付いた。気が付いて、気が付いた時には涙が止まらなかった。
「あやちゃん、だいじょうぶ?」
奈々ちゃんは僕のことを「あやちゃん」と呼ぶ。
最初は僕のことを女の子だと思っていたらしい。呼び方はそのままでいいよ、と僕が言った。
あやちゃん、と呼ぶ時の奈々ちゃんの柔らかい声が好きだった。
学校で泣いてしまったからか、からかわれることが増えた。
奈々ちゃんと一緒にいると男の子よりも女の子と遊ぶことが多かったから、それも原因だったのだと思う。
「おとこおんなー! きもーい!」
「また泣くのかー? だっせー!」
帰り道にクラスの男の子に取り囲まれて、一斉にそんな声を浴びせられた。
言い返せなくて唇を噛んでいると、隣にいた奈々ちゃんが口を開く。
「きもくないしださくない。そーやっていじめてるほうが、かっこわるいじゃん」
――ヒーローみたいだ。
咄嗟に浮かんだのは、かっこいい、という感想だった。奈々ちゃんはとびきり可愛く笑うのに、怒った時はこんなに真面目な顔をするんだ。
「あやちゃんは、ずっと私のそばにいたらいいよ。そうしたら、なんにも怖くないもん」
嬉しくて嬉しくて仕方なかった。今までは僕が勝手に奈々ちゃんについて回っていただけだったけれど、奈々ちゃんの方からそう言ってくれたから。
「うん、そうする。ずっと一緒にいるよ。ななちゃん」
ちょっとだけ泣いてしまった。嬉しくて涙が出たのは初めてだった。
奈々ちゃんといると僕は泣き虫になってしまう。でも、不思議と心は軽い。
奈々ちゃんに「なんで?」と聞かれてもいいように、理由を説明できないことはしないことにした。沙織ちゃんに褒められるようになった。
僕を助けてくれた奈々ちゃんを、いつか僕が助けられるようになりたい。
泣き虫なヒーローは、嫌われちゃうかな。
***
「それでねっ、ななちゃんが……」
「はい、お話はご飯食べてからね。いただきますして」
「いただきます!」
「ほんと、いっつも“ななちゃん”の話ばっかりなんだから」
家で話すのは、大体が奈々ちゃんのことだった。
沙織ちゃんと奈々ちゃんが初めて会ったのは近所の公園で、最近は奈々ちゃんが家に帰りたくないと言うから、放課後によく遊んでいる。
「絢斗がご飯残さず食べられるようになったのも、ななちゃんのおかげだっけね。ちゃんと『ありがとう』って言うのよ」
「うん!」
沙織ちゃんは奈々ちゃんのことが好きみたいだった。それは僕も嬉しい。
「ねえ、絢斗」
「なにー?」
「……私のこと、無理して『お母さん』って呼ばなくてもいいんだからね」
どうして急にそんなことを言われたのか分からなかったけれど、僕が「お母さん」と言う度に奈々ちゃんが寂しそうな、羨ましそうな顔をするから、もしかしたらそれがきっかけかもしれない。
「じゃあ、さおりちゃん?」
「ふふ、そんなに可愛い呼び方してくれるの?」
笑った沙織ちゃんが、開いたお皿を片手に立ち上がる。
「ななちゃんのお家も大変ね……心配だわ」
「え?」
聞き返した僕に、「何でもない」と眉尻を下げて、今度ななちゃんをうちに連れておいで、と沙織ちゃんは話を終わらせてしまった。
***
突然、奈々ちゃんと会えなくなった。
冬休みにたくさん遊ぼうって約束していたのに、奈々ちゃんの家に行っても出てきてくれない。
やっと冬休みが明けた日の学校にも、奈々ちゃんは来なかった。
自分から先生に「プリントを届けます」と言って、その日の放課後に奈々ちゃんの家に行った。
「ななちゃん、プリントもってきたよ」
背伸びしてインターホンを押す。二回、三回。やっぱり奈々ちゃんは出てこない。
「ぐあいわるいのー?」
ちょっとだけ声を大きくして聞いてみる。それでも返事はない。
思い切って息をいっぱい吸って、叫んでみた。
「ななちゃーん、いないのー!?」
「……あや、ちゃん?」
ドアの向こうから、小さく僕を呼ぶ声がした。びっくりして息を止める。
「あやちゃん、きてくれたの……?」
「そうだよ! ななちゃん、げんき?」
「……うん。げんき、だよ」
「ぼくね、プリントもってきた! だから、ドアあけて?」
十秒待ってもドアは開かない。変だな、と思って、もう一度声を掛けようとした時、ゆっくりとドアが開いた。
「ななちゃん……?」




