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「したよ」
「え?」
「さっき、私がしておいた。絢斗はこっちに泊まりますって」
彼の希望通り、嘘は何一つついていない。絢斗の気持ちも、私の気持ちも、間違っていないし正直に伝えたつもりだ。
「……ごめん。もしかしたら、明日からもう一緒にいられなくなるかもしれない」
宣戦布告です、なんて、かっこつけたけれど。本当は明日がたまらなく怖い。明日の朝、起きたら世界が変わってしまっているのかと思うと目覚めたくないし、なんなら今日眠りにつきたくない。
私は絢斗みたいに強くないから。何もかもを捨ててしまえる勇気なんて、持ち合わせていないから。
「何で……奈々ちゃんが謝るの?」
「だって、」
「悪いのは全部僕だよ。奈々ちゃんは悪くない。沙織ちゃんに何か言われても、僕のせいにすればいいよ」
そんなことできない。絢斗に悪いから、とか偽善者ぶった言い訳じゃなくて。
沙織ちゃんは絶対に絢斗の味方をするに決まっている。たとえ絢斗が犯罪を犯しても怒らない。彼女が怒るのは、絢斗が自分から離れていきそうな時、自分の思い通りにならない時だ。恋という自分勝手な感情そのものだ。
「……無理だよ」
「何で諦めちゃうの? 奈々ちゃんは僕と一緒にいたくないの?」
愚問だ。愚問すぎる。一緒にいたいか、いたくないかなんて、そんなの。
「いたいよ……私だって、絢斗と一緒にいたいよ!」
叫んだ拍子に声がひっくり返る。泣きそうになって、情けないから顔を伏せた。
「でも無理じゃん、絢斗は沙織ちゃんから絶対に離れられないじゃん! それともほんとに家出でもするの? 無理でしょ、できないでしょ?」
こんなの八つ当たりだ。分かっている。
だけれど、本当のことだった。絢斗がどんなに私を望んでも、私を大切にしたいと言っても、それが本気でも。親に雁字搦めに縛られるほど私たちは子供じゃないし、親から完全に離れられるほど大人じゃない。
「それでも、僕はずっと、奈々ちゃんといるよ」
私の手を優しく握った絢斗の言葉に、ゆっくりと顔を上げる。そのまま振り返った途端、絢斗が私の背中に腕を回した。ぎゅう、と両腕が私の体を引き寄せている。
「大好きって言った。ずっと一緒にいるって言った。嘘じゃないよ。もう、嘘はつきたくないんだ」
今の状況が俄かに信じ難く、しばらく放心してしまった。
すごく驚いている。理解するより先に絢斗の腕が震えていることに気がついて、その震えが怖さと愛しさの狭間で揺れて、私の心臓を弱々しく叩く。
「絢斗の好きは、こういう好き……?」
私が余計なことを言ったからかな。キスとかハグとか、エビとか。
絢斗の頭が動く。うん、とくぐもった音が聞こえる。
「分かんないけど、でも、多分そうだよ。今ね、奈々ちゃんを守りたいって、思ったよ」
「……そっか」
絢斗、それはね、いつか終わりが来てしまう感情なんだよ。
ずっと一緒にいたいと望むことはできるけれど、ずっと好きでいることはできない。好きになってしまったら、相手にもそれを望んでしまう。どんどん欲張りになって、溢れて零れて、最後は何もなくなってしまう。
残酷に、穏やかに、終わりを待つ始まりだ。
「私は、絢斗のことを、好きにはなれないよ」
大切にしたい。そばにいたい、いて欲しい。優しくして欲しい。怖い。
全部自分勝手だ。恋をするともっと自分勝手になるだろう。それがたまらなく怖くて恐ろしい。
「……ハグはやだ?」
「急にそんなことされても、びっくりするよ」
「じゃあ、一日三分、僕とハグしよう」
名案だ、とでも言いたげなトーンで絢斗が体を僅かに離す。
「慣れたらびっくりしないよ。そうでしょ?」
「……ヒーローだから三分?」
「うん!」
無邪気に笑う絢斗は知らない。恋なんてそんなに単純で明快なものじゃないってこと。
『この一年で絢斗との関係を終わらせて欲しいの。もうこの先、二度と会いたいだなんて思わないように』
意図せず彼女の望みが叶ってしまうかもしれない。
私が手を下さなくたって、絢斗が歩き始めた道はそういうものだ。緩やかに、私たちが終わりへと向かっていく道。
カップラーメンは、お湯を入れてから五分待ちのものしかうちに在庫がなかった。
風邪引いちゃうね、とぎこちなく私から腕を離した絢斗は、ドライヤーを手に取った。抱擁を解かれた私も、大人しく髪を乾かしてもらった。
「奈々ちゃん、いま何分?」
「三分経った」
あと二分が待ち遠しい。三分に慣れてしまった弊害だ。
やらなければならないことも考えることもたくさんあるのに、湯気のいい匂いを嗅いだら、お腹空いた、しか頭に浮かばなくなる。
一か月前、絢斗がうちに来てカップラーメンを食べた時のことをふと思い出した。
「……絢斗、前に生姜焼き持ってきたよね」
結局あの日は絢斗を帰した後、一人で生姜焼きを食べた。沙織ちゃんのご飯は小学生の頃に何度か食べたことがあったから、ほんの少し懐かしくて、なぜか苦しくなった。
「うん。また持ってくる?」
「そうじゃなくて……」
次の言葉を迷っていると、絢斗が不思議そうに首を傾げる。
「沙織ちゃんは私のこと嫌いなのに、どうしてわざわざ持って行けって言ったのかなって」
絢斗から沙織ちゃんのことを聞いて、沙織ちゃんと実際に会って、ますます分からなくなった。何か策があったんだろうか。考えても彼女の意図を捕まえられない。
「沙織ちゃんは、奈々ちゃんのこと嫌いなんかじゃないよ」
絢斗がやけにはっきりと言い切るから、思わず眉をひそめてしまう。
そんな私に、彼は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
「奈々ちゃんがちゃんとご飯食べてるのかなって、心配してたよ。……沙織ちゃんが嫌いなのは、むしろ僕の方だと思う」
全く、清々しいほど理解できなかった。
あんなに敵意をむき出しにしていたというのに、心配? 嫌いじゃない? どういうことだろう。建前上、絢斗に対しては私のことを大切にしている風に見せかけたかっただけだろうか?
それにしても、彼女が絢斗のことを嫌いだなんて、おかしな話だ。どこからどう見ても沙織ちゃんは絢斗のことを好いている。
私が黙って考え込んでしまったので、絢斗も口を噤んでいた。
「あ、ピピピって鳴った!」
しばらく続いた沈黙を破ったのはタイマーで、無機質な電子音が空気を変える。
考えても分かりそうもないことは放っておき、食欲に従って二人で手を合わせることにした。
「いただきます!」
「ん。いただきます」
蓋を開けた瞬間にスープの匂いが鼻腔をくすぐる。絢斗が醤油で、私が味噌だ。
「あつっ」
「ちゃんと冷ましなよ、猫舌なんだから……」
べえ、と舌を出して涙目の絢斗に、意図せず頬が緩んでしまう。緩んで、笑えてきて、そうしたら心のどこかにあったリミッターが外れてしまった。
「な、奈々ちゃん……?」
絢斗がびっくりしたように目を見開く。その顔すら滲んで歪んで、すぐにぼやけていく。
焦った。不意打ちで流れ始めた涙はとどまるところを知らない。拭っても拭っても溢れてくる。
喉の奥が締まって変な声が出る。誤魔化すように箸を握って、必死に麺をすする。むせ返りそうになっても嗚咽を胃に戻し込む。
絢斗は何度か声を掛けてきたけれど、それが無駄だと分かると、自分も食事に集中していた。
「奈々ちゃん」
「ごちそうさま」
「奈々ちゃん!」
立ち上がろうとした私の腕を掴んで、絢斗が語気を強める。
「だめ、座って。ちゃんと僕の顔見てよ」
「……痛いから離して」
「絶対やだ!」
駄々をこねるのとは違う。明確な意思を感じて彼の方を見やると、真剣な瞳が私を貫いていた。自分の要求を通すまで退かない、一本芯の通った男の人の目。
そんな顔をするの。わがままじゃなくてエゴみたいな「やだ」を、初めて聞いた。
「隠さないでよ。辛いのも苦しいのも、僕の前で我慢しないでよ。何のために二人でいるの……?」
力強く掴まれた腕が痛くて、もうこの人はきちんと私を傷つけることができるんだと今更ながらに思う。
痛くても何でもいいから、このまま攫って欲しい。もしそう伝えたら、絢斗はなんて言うだろう。
観念して腰を下ろした私に、絢斗の指先から力が抜ける。
「何か、あったんだよね。だから僕に電話してくれたんだよね」
咄嗟に縋ろうとした。何の見返りもなく助けてくれると思った。安易に手を伸ばして引き寄せては、また離し難くなっている。
「……お父さんに、会ってきた」




