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結局私は絢斗の言葉に頷いてしまった。
沙織ちゃんにはなんて説明するんだ、と問いただせば、絢斗が眉尻を下げる。
「正直に言うしかないよ……奈々ちゃん家に泊まるって、電話する」
「ばかなの? 友達の家に行くとか、適当に嘘つきなよ」
「でも……」
「分かった。とりあえず、先にシャワー浴びてきな。走って汗かいたでしょ」
もごもごと二の句を継ごうとしている彼を浴室へ追いやる。タオルをぶん投げてやれば大人しくなった。
「さて、と」
シャワーの音が聞こえ始めたので、こっそりと脱衣スペースに置いてあった彼の学ランを拝借する。下着が目に入ったけれど、ぶっちゃけ興味はないし、ボクサーパンツは見慣れていた。
ポケットからスマホを抜き取り、制服を元あった場所に戻す。
絢斗もやはりスマホにロックはかけていないようで、スワイプだけで簡単に画面が開いてしまった。そういえば今朝も同じようなことをしたな、と思い出し、ため息をつく。
多量の通知は全て沙織ちゃんからのものだ。
シャワーの音は途切れていない。意を決して、私は彼女への発信ボタンをタップした。
「――絢斗っ!? 今どこにいるの!?」
途端、割れんばかりの声が鼓膜を突いてくる。おののいて僅かに耳からスマホを離し、静かに覚悟を決めた。
「絢斗は私の家ですよ」
「え……」
「今日は泊まっていくそうです。言っておきますけど、一応私は止めましたからね」
相手は黙り込んでいる。意外だ。即座に否定されるものだと思っていた。
「……今そこに、絢斗はいるの?」
「いいえ。お風呂に入ってます」
「そう。……ねえ、奈々ちゃん。ちゃんと考えてくれたかしら」
何をですか、と返そうとしてやめた。自分から掛けたのだ。誤魔化す必要も理由もない。
「私は絢斗と離れるつもりはありません。絢斗自身も、それを望んでいます」
全てを投げ捨ててでも私を選ぶと言ってくれた。だからそれを信じる。絢斗は嘘なんてつけないから、本気で思ってくれているのは分かっていた。
意図せずこの先、彼が沙織ちゃんを選択することになったとしても。それでも、今の絢斗は十割中十割、私のものだ。
「私たちを認めて下さらないのなら、私はたとえあなたでも戦います。あなたの言動は、母親の域を逸脱している」
そっちがそのつもりなら、こっちだって。
「沙織さん。これは宣戦布告です。私は絶対に降伏しません」
「奈々ちゃん、お風呂あがったよ。……奈々ちゃん?」
しばらく無心でテレビを眺めていた。
後ろからやってきた絢斗が、リモコンのボタンを押してテレビの電源を切る。
「奈々ちゃん!」
「うわっ」
耳元で大声を出さないで欲しい。反射的に肩が大きく跳ねる。
慌てて振り返れば、なぜかバスタオルを適当に纏っただけの姿で絢斗が立っていた。
「は!? 何で服着てないの!?」
「えっ、だって着替えないんだもん! これから寝るのに制服着たくないし……」
「だったら出てこないでよ! 向こうから呼べば良かったでしょ」
「呼んでも奈々ちゃん返事してくれなかった……」
ジト目で肩を落とされ、言葉に詰まる。
確かにそれは気付かなかった私が全面的に悪い。視線の行き場に困るので、早急に何か着てもらわなければ。
そういえば前にクラスの男の子が家へ来た時、ティーシャツを置いていったような気がする。
「あ、あった」
クローゼットの中を少し探してみると、目当てのものが見つかった。シンプルな黒いシャツ。伸縮性があるし、これなら大丈夫そうだ。
「絢斗、これ着て」
受け取った絢斗が訝しげに首を傾げる。
「これ、奈々ちゃんの?」
「違うよ。サイズからして絢斗は私の服なんて着れないでしょ」
「じゃあ誰の服?」
「誰って……」
そんなことをどうしていちいち言わなければならないのか。というか、名前も顔もあまり覚えていない。
「多分、クラスの人。前に来たとき忘れてったやつ」
「男の子?」
「うん」
「ふうん……」
せっかく答えたのに、絢斗はますます不服そうに眉根を寄せた。そんな表情は珍しい。怒っている、とも言い難いような、どちらかと言えば、拗ねている子供のような。
「……なんかそれ、やだ」
む、と唇の端を落として、あからさまに不機嫌な口調。若干低まったその声色に戸惑う。
「や、やだって……これしかないんだけど」
「着るよ。着るけど! でも、なんか、やっぱりやだ。奈々ちゃんのばかっ」
「はあ?」
言い返そうと顔を上げた瞬間、絢斗を直視してしまった。
広くてしっかりとした胸板、細い体躯に浮き出た骨のラインまで。肌色に点々と滴る水が妙な雰囲気を演出している。
「……い、いいから早く着て!」
おかしい。心臓が唐突に物凄いスピードでフル稼働し始めた。
男の人の裸、しかも上半身は今まで何度も見てきたし、今更思うことなんて何もないはずだ。
ましてや相手は絢斗で、どう間違っても変な空気になるわけが――
「奈々ちゃん、下は? 何着ればいい?」
「知らない! パンツのまま寝れば!?」
「えええっ……!」
結局、絢斗には私のジャージを着てもらうことになった。さすがに七分丈になってしまっていたけれど、ウエストは問題なかったようだ。
「じゃあ私もシャワー浴びてくる」
「うん! いってら……」
と、その時。
ぐううう、と鳴り響いたのは、絢斗のお腹の音だった。
「……な、奈々ちゃん、お腹空いてたんだねえ」
「だからこっちに押し付けないでくれる?」
「へへ」
つられたわけじゃないけれど、私も夕飯を食べていないことを思い出した。学校が終わってから怒涛の勢いで今現在の状態に辿り着いたのだ、仕方がない。
「……料理する気力ないんだけど」
「ラーメンは? いつも奈々ちゃんが食べてるやつ」
「私はいいけど、絢斗は……」
カップラーメンは添加物がたくさん入っているから駄目。沙織ちゃんに、昔そう言われていた。今だってきっとそうだろう。
言い淀んだ私に、絢斗が「いいよ」と苦笑する。
「いいんだよ。だって、僕もう沙織ちゃんの言いつけ破っちゃったもん」
小学生の時のことを指しているのかとも思ったけれど、そんな単純なことではない。今まさに私と二人で一緒にいる、そのこと自体がルール違反だから。
――”もういいんだ”。
それの意味するところは、彼がこの先、沙織ちゃんではなくて私を選び続けていくと決めた覚悟だ。
「……分かった。じゃあシャワー浴びてくるから、ちょっと待ってて」
「うん!」
元気な返事を背に、浴室へ向かう。
今までの何も知らないで悲劇を嘆いているだけの私だったら、絢斗のそんな声さえ鬱陶しく思っていたに違いない。能天気でいいね、という皮肉付きで。
絢斗は泣き虫で気弱そうで――そんなの、最初から私の勝手な願望だったのかもしれない。
絢斗は強い。泣いたから弱いとか、一度転んだらそこでもう終わりとか、そういう次元の話ではないのだ。
泣いても転んでもいい。ただそこで諦めなければそれでいい。何度でも立ち上がって、繰り返し笑う強さが絢斗にはある。
体の汚れを洗い流したら、曇っていた気持ちも少しだけましになった。
「奈々ちゃん、僕が髪乾かしてあげよっか?」
リビングに戻ると、絢斗がそう提案してくる。
「うん。やって」
素直にドライヤーを受け渡し、彼の目の前に腰を下ろした。
私が落ち込んでいる時、泣いている時、上手な慰め方を知らなくて困っていた絢斗は、当時何でも聞いてきた。
あれはどう? こうしたい? それの方がいい?
その問いに全て「一緒にいてくれればいい」としか私が答えなかったから、更に困らせてしまったと思う。
でも絢斗は文字通り一緒にいてくれたし、極端に甘やかしてもくれた。彼曰く、いつもは私にしてもらってばっかりだから、私がダメな時は自分が何かしなきゃと思うらしい。
「奈々ちゃん、髪真っ直ぐでいいなあ。僕、毎日ぼさぼさで直すの大変なんだよ」
「動きがあっていいじゃん」
「あ!」
「なに?」
「沙織ちゃんに連絡してない……」
つけておいたテレビから豪快な笑い声が上がる。それでも私たちは笑わないし、笑えなかった。




