8
いつの間に駅に戻ってきたのだろう。ろくに頭も回らず、考えなしにのっそりと歩いていたら広場についた。
空はとっくに夜の気配をまとっている。風が私の髪をさらって、その毛先は夜空に溶けるように黒い。
少し前までここにいた女子高生たちの姿はなく、代わりにサラリーマンが頻繁に現れては街の飲み屋に消えていった。
『俺が稼いだ金をよその男に使う女だぞ! こっちが苦労して働いたっていうのに、それをどうして浮気相手なんかに……』
本当なのかどうか。真実を知るなら、母に直接尋ねるしか術はない。――でももし、本当だったら?
母ならやりかねないな、と思っている自分がいる。父が誇張しているだけだ、と思いたい自分もいる。
何を信じればいい。考えることが多すぎて疲れた。脳みそは随分前から音を上げている。
『あいつからは離れなさい。そうしないと、お前が幸せになれない』
じゃあ私はまた一人になるの? そもそも幸せってなに? 今までずっと放っておいたくせに、最後の最後で私の幸せなんて願わないでよ。
「……分かんない……」
全部投げ出して喚きたい。楽しいこと、嬉しいこと、ラクなことだけして生きていたい。そうしないと今までの私の人生、つりあい取れないじゃんか。
ブレザーの内側でスマホが振動した。確認してみれば、少し前に一度だけ関係を持った男子からの連絡でげんなりする。
『奈々ちゃん。僕、もうどこにも行かないよ』
脳内ではっきりと再生された言葉に、胸が震えた。
指が勝手にその名前を探している。画面が明るくて目はちかちかする。
フリック入力が遅い絢斗は、メッセージのやり取りがあまり得意ではないようだった。だから彼が私の家に来た時、電話番号を教えて欲しいと言われた。
今まで話せなかった分、いつでも話したいから。無邪気な笑顔でそう告げて。
「……奈々ちゃん?」
電話をかけて僅か三秒。コール音はすぐに途切れる。
「奈々ちゃんだよね? 昨日は急に帰っちゃったけど、どうしたの? あのあと電話しようと思ったんだけど――あ、ちょっと待ってね」
口を挟む間もなく一方的に喋り倒し、彼は唐突に黙り込んだ。がさごそと物音が続き、程なくして再び話し出す。
「今ね、コンビニ行ってくるって嘘ついて外に出た。……昨日も奈々ちゃんに電話しようとしたんだけど、家にいたら、何となく気まずくて」
それはきっと、沙織ちゃんの目を気にして、という意味なのだろう。
鈍感な絢斗はどこまで理解しているのだろうか。さすがに親が自分に対して恋情を抱いているとは、想像もしないだろうけれど。
「話せて良かったあ。……奈々ちゃん?」
電話が通じてから一言も話していない私を訝しんでか、絢斗が呼びかけてくる。
「奈々ちゃん。泣いてるの……?」
す、と小さく鼻をすすってしまった。街のざわめきに消えてしまいそうなくらい小さな音だったのに、絢斗は何の迷いもなく「泣いている」と思ったらしい。
遠い電波越しで私の名前を呼んでいる。私のことを何よりも大切にしようとしている。
『先に裏切ったのはあんただよ。許さないから。私を置いてって、一人にして、絶対許さないから!』
裏切られた、なんて、本当は思っていなかった。絢斗がそんなことをできるわけがないのだ。
何年会えなくても、環境が私たちを引き離しても、結局こうして巡り合ってしまった。今更どうやって絢斗を手放せばいいのだろう。
「絢斗」
「うん?」
絢斗。ねえ絢斗。どうしたらいい? 私はどうしたら、絢斗とずっと一緒にいられる?
「会いたい」
声を聞いたら安心してしまう。顔を見たら多分もっと泣いてしまう。でも、それでもいい。
「会いたいよ。もう歩きたくない……絢斗、迎えに来て」
「奈々ちゃん、今どこにいるの?」
「言ったら来てくれる?」
無理でしょう。だってコンビニに行くって言って出てきたんだもんね。絢斗は方向音痴だから一人じゃ知らない場所にも行けないし。
「行くよ」
クリアな声音で、絢斗が即座に断言する。
「奈々ちゃんが呼んでくれたら、僕はいつでも行く。どこでも行くよ」
なんてことないように、さもそれが当然のように宣うから、胸の奥が狭苦しくなる。どうしようもなく嬉しくて、悲しくて痛い。
「……嘘つき」
「今度は絶対だもん。嘘じゃないよ」
「だって、いつでもどこでもとか、無理でしょ」
「無理じゃないよ。奈々ちゃんが地球の裏側にいても、僕絶対に飛んでいくからね」
「ブラジル?」
「ブラジルってどこ?」
「日本の裏側だよ、ばか」
やっぱりばかだ。ばかなんだ、絢斗は。ブラジルの場所すら分かってないのに、簡単に地球の裏側とか言う。
来て欲しいな。ブラジルでも裏側でも、たとえ北極にいたとしても。凍えて死ぬまで待ってるから、来て欲しい。
「……いいよ、大丈夫。冗談だから。早く帰んないと沙織ちゃんに怒られるよ」
さっきから涙腺が壊れてしまっている。こんなぐちゃぐちゃの顔、見せられない。
「奈々ちゃん、僕ね、ばかなんだ」
唐突な宣言に、は、と間抜けな声を出してしまった。やけに真面目なトーンで絢斗が自分を卑下する。
「ばかだから、色んなことを同時にやったり考えたりできない。大事なものも、一つしかつくれない。一つしか守れないんだ。だから僕は、奈々ちゃんしか大切にできないんだよ」
恥ずかしげもなくそう言って、彼は私の名前を呼ぶ。何度も。会えない日々に、私が絢斗の名前を呼んだように。
「奈々ちゃん、好きだよ。大好きなんだ。沙織ちゃんに怒られてもいい。それよりもね、僕は奈々ちゃんを大切にしたいから、奈々ちゃんが泣いてたらすぐに飛んでいくよ」
もう限界だった。
涙がとめどなく溢れてくる。人目も気にせずその場にしゃがみ込み、嗚咽をこらえることしかできない。
「あ、やと、」
「うん」
「きて、くれる?」
うん、と。もう一度頷いた絢斗が自信満々に述べる。
「いつでも呼んで。三分で行くから」
「なんで、さんふん」
「ヒーローっぽいでしょ?」
それ、ウルトラマンだけなんですけど。しかも戦闘時間なんですけど。
面倒くさいから、そうだね、と肯定してあげた。
三分って、もっと早くなんないの。カップラーメンつくれるよ。
インスタント麺ならぬ、インスタントヒーロー。三分でも何でもいいから、早く来て。




