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絢斗は不思議な男の子だった。
家が近いからという理由で、一緒に登下校したり遊んだりしていたことは覚えている。多分、絢斗が勝手に私についてきていたような気がするけれど。
いつも私の後ろを追いかけてきて、へらへら笑っていた。
へらへら、ふわふわ、と掴みどころのない彼は、私と一緒に女の子の輪の中にいることも多く、「女みたいだ」と揶揄われていた。
どことなく中性的な部分があるのは確かで、クラスの男子が絢斗をいじめ始めたのだ。
絢斗は思ったことがすぐ顔に出る。それに、結構泣き虫だ。だから女の子みたいと言われるし、いじめられる。
学校からの帰り道。絢斗をいじめる男の子たちが、私と絢斗を取り囲んだ。
「おとこおんなー! きもーい!」
「また泣くのかー? だっせー!」
隣で青いランドセルを背負っている絢斗が、ぎゅ、と唇を噛む。泣きそうな顔。
関係ない私まで巻き込まれているのが面倒だったのと、くだらないなあと呆れたのと。その時は、あんまり深く考えていなかったのだと思う。
「きもくないしださくない。そーやっていじめてるほうが、かっこわるいじゃん」
つるりと本音が口から零れて、目の前の男の子たちが怒り出した。
そのまま大声で文句やら悪口やら言われたけれど、そいつらが騒いでくれたおかげで近所の人が出てきて、事は収まった。
「あやちゃんは、ずっと私のそばにいたらいいよ。そうしたら、なんにも怖くないもん」
深い意味なんてない。ただ近くで騒がれるのが嫌だっただけで、特別助けたいとか、そんなことを考えていたわけじゃなかった。だからあっさりと言えた。
私の言葉に、絢斗は嬉しそうに笑って、でもちょっとだけ泣いていた。
「うん、そうする。ずっと一緒にいるよ。ななちゃん」
私たちが文字通りずっと一緒だったのは、その時からだ。
公園の砂場で作ったお城、蛇口が固くて二人で捻らないといけなかった水飲み場、高いところが苦手な絢斗が嫌がった滑り台。
私が家に帰りたくない、と駄々をこねた日は、絢斗が一緒に遅くまで遊んでくれた。公園まで絢斗のお母さんが迎えに来て、二人でよく怒られていた。
私たちは、ずっと一緒だったのだ。
小学四年生の冬、絢斗が知らない町に引っ越してしまうまでは。
***
ばたん、と荒々しくドアの開く音がした。
ゆっくり瞼を上げれば、見慣れた殺風景な部屋が映る。
玄関の方から足音が聞こえて、数日ぶりの母の帰宅を知らせた。
「なに、まだいたの? 学校は?」
第一声から、彼女の機嫌がよろしくないのだということを察する。
まだ眠い目を擦り、今の時刻を確認した。もうすぐ七時になるところだ。
仕方なく起き上がって、とりあえず制服に着替える。
「奈々。あんた、こないだ男入れたでしょ」
「何で」
「嗅いだことない匂いするもん」
げえ、と大袈裟に顔を歪めた母が肩をすくめた。
そんな顔をしたいのは私の方だ。彼女がここに入ってきた途端、きつい香水や煙草の匂いで空気が汚れていく。気分が悪い。
洗面所で顔を洗って歯を磨いて、髪を整える。朝食は食べる時間がないし、食べる気も起きなかった。
お気に入りの香水を軽く首元につける。けれどもそれだけじゃ母の連れ帰ってきた匂いが抜けきらず、結局いつも多めにつける羽目になるのだ。同じ「くさい」でも、こっちの方が断然マシだった。
「あ、そうだ。先月末だっけ? そこに越してきた人さー、あんたがちっちゃい時に遊んでた子だよ。覚えてる?」
覚えてるも何も。引っ越してきた当日に、とんでもない挨拶を食らった。
また来るね、と言っていたくせに、彼はあれから姿を見せない。
春休みを言い訳にして、外にはなるべく出ないようにしていた。うっかり彼と出くわしたら大変だからだ。
さすがに今日から始まる学校をそんなくだらない理由で欠席するわけにもいかず、こうして準備をしているけれど。
「……私、もう行くから」
母の質問には答えずに、鞄を持って玄関へ向かう。気怠さを感じながらも、ローファーに爪先を入れようとした時だった。
「奈々ちゃん! おはよー!」
無駄に元気なトーン。驚かざるを得ない声量でドア越しに叫んでいるのは、――間違いない。彼だ。
「うわ、びっくりした。なに、誰?」
これから寝るんだから勘弁してよ、と母がぼやく。
最悪だ。このタイミングで来るとは思わなかった。
絶対に開けたくない。でも開けないと学校には行けない。私が逡巡している間にも、彼は叫び続けている。
「ねえ、うるさいんだけど。早く出てよ」
後ろから母の怒りがじりじりと高まっているのを感じる。
ずっと会っていなかった幼馴染と、厄介な母。私が制御できるのは、恐らく前者だ。
そう判断して、渋々ドアを開けた。
「あっ、奈々ちゃん! おはよう!」
遮蔽物なしに直接耳に届いた声は、より明るくてよりうるさい。気配に圧されて思わず仰け反る。
私をゆうに超した背丈で、絢斗がにっこりと口角を上げた。広くなった肩幅と、袖口から覗く骨ばった手の甲が、時の流れを嫌でも感じさせる。
それでも、柔らかそうな猫っ毛は相変わらずだし、大きくて垂れ下がった目は記憶の通りだった。
ただの優しくて人当たりのよさそうな男子高校生。彼に対して抱ける印象は、それくらいのものだ。
「……何?」
私の顔をじろじろと見てくる彼に、遠慮なく刺々しい視線をぶつける。
「奈々ちゃん、美人さんになったなあと思って」
「は?」
「いや、もともと可愛かったけど! あんまり綺麗だったから、びっくりしちゃった」
へへ、と鼻の下を伸ばした絢斗が、なぜか照れたように頬を赤らめた。
反射的に身を引き、私は「気持ち悪い」と吐き捨てる。
「ひどい! 久しぶりに会えたのにそれはないよ!」
「それは、」
そっちのせいだ。勝手にいなくなって、勝手に帰ってきたんだ。ひどいのは全部そっちで、私は何も悪くない。
「……うん、そうだね。僕が悪かったんだ。奈々ちゃんを、一人にしたから」
ゆっくり目を伏せた彼は、だらしなく緩めていた表情をしまって、寂しそうに微笑む。
「ごめんね。久しぶり、奈々ちゃん」
今更、聞きたくない。謝罪もいらない。謝られたら許さなきゃいけなくなる。
私の名前を呼ばないで欲しい。会いに来ないで欲しい。だって、私は会いたくなかった。
あの時、行かないでと言ったのにいなくなった。いま、来ないでと思っていたのに現れた。
全部、ずっと、勝手なのだ。この男は、この人は、優しい顔をして全然優しくなんてない。
「……そこどいて。学校行くから」
軽く彼の体を押し退けようとして、びくともしないことに気が付く。
歴然とした力の違いを実感し、同時にその空白の時間を思い知った。もう目の前にいる人は別人なのだ。私がそうなったように、彼もきっとそう。
絢斗が自ら後ろに下がる。それが悔しくて、地面を見つめたまま彼の横を過ぎた。
「ねえ、奈々ちゃん。駅まで一緒に行こうよ。学校違うけど、そこまでは一緒にいられるよね?」
背後から追い縋る声が飛んでくる。また私の後ろをついてくる気だ。
無視して歩くスピードを上げても、絢斗はすんなりと私の横に並んでしまった。
腹が立つ。気に食わない。この男の何もかもが。
私がバスに乗り込む直前、いってらっしゃい、と手を振る彼から目を背け、耳にイヤホンを差し込んだ。