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その日、学校が終わって、最寄り駅から電車に乗って街へ出た。
特に意味はない。このまま帰り道を辿って絢斗に出くわしたくなかったし、母とも何となく顔を合わせづらいと思ったからだ。
全てにおいて中途半端なまま、私は身動きを取れずにいる。
駅前の広場で待ち合わせをしている同年代の女の子たち。タピオカだとかチーズハットグだとか、そんな単語が時折聞こえてくる。あまりにも楽しそうに笑っているから、なぜだかため息をつきたくなってしまった。
広場の隅っこでスマホの画面を睨み、もう何分経ったのだろう。
勝手に登録したばかりの父の番号が表示されている。発信ボタンをタップしようとしては指先が震えて、何回も躊躇してしまう。
何のためにこの番号を手に入れたの。どうして私がこんなに息苦しい思いをしなくちゃいけないの。――私を置いていったのは、向こうなのに。
恐怖心を無理やり怒りで押し殺し、指先に力を込める。
画面が切り替わり、コール音が鳴り始めた。
規則正しいその機械音が途切れる度に、心拍数が上がっていく。
出ないかもしれない。もう出てくれなくていい。緊張で涙が溢れそうだ。
「はい。横井です」
あまりにも呆気なく、あっさりと、通話口の向こうで相手が名乗る。
音の始まりが少し上擦る喋り方。横井。ああ、間違いない。
「……お父、」
「どちら様ですか?」
ドチラサマデスカ。
事務的な響きの問いは、何の温度も含んでいなかった。特別冷たいわけでも、興味を持っているわけでもなく、ただ産み落とされた文字の羅列のように。
好きの反対は嫌いじゃない、無関心だ。よくそう言われるけれど、ここまでニュートラルな声色を差し向けられるとは思わず、言葉に詰まる。
沈黙の最中、街の雑踏が聞こえた。
パトカーがサイレンを鳴らしながら通り過ぎていく。――電話越しで、全く同じサイレンが鳴っている。
「あの、いたずら電話なら切りますけど」
少し苛立った様子で急かされ、口を開きかけた時だった。
「あ……」
十メートルほど先、電話をしながら早足で広場を突っ切っていく影が一つ。
「お父さ、」
そこで通話は切れた。
お父さん、ともう一度声を出さずに呟く。相手には聞こえなくて良かったのかもしれない。
不通音に落ち込んでいる暇なんてなかった。通り過ぎていった背中を反射的に追いかける。
絶対に、行くべきではない。引き返せ、と自分の中の理性が暴れている。
理解しているのとそれを実行に移せるのとは、別の話だ。
信号を三つ越えただろうか。
前を行くスーツ姿の彼が角を曲がる度、街灯の間隔が広くなり、少しずつ道が暗くなっていく。
更に角をもう一度曲がったところで、突然父が歩みを止めた。
咄嗟に反応できず、慌ててこちらも立ち止まった拍子に、思い切り足音を立ててしまう。
「誰だ」
前を向いたまま、父は端的に、鋭く問うてきた。
胸の奥がずっと苦しい。広場でその姿を見つけてから、自分がちゃんと息を吸えているのかも分からない。
はくはくと、金魚のように拙く唇を動かす。
「お父さん……」
言えた。やっと呼べた。安堵と悲しさで押し潰されそうになる。
こっちを向いて欲しい。どんな感情でもいいから、私を見て気持ちの針を振れさせて欲しい。
「お前、」
私の願いが通じたのか、父が振り返った。息を呑んだ気配がする。
「……もしかして、奈々か」
ぎこちなく頷けば、相手は黙り込んだ。
約十年ぶりの再会は、突拍子もなく、雰囲気の欠片もない路地にて。私たちにはぴったりだと思う。日の当たる明るい場所で会う勇気など、きっと微塵もなかった。
「後つけたりしてごめんなさい。電話も、急にかけて――」
「金なら渡す気ないからな」
私の言葉を遮った無慈悲な口調に、思考が止まる。
「朝イチであいつから電話がきたかと思えば、お前もか……どうせあいつに言われて俺の後をつけたんだろう」
あいつ、という単語が母を指しているのは明白だった。
十割中十割、嫌悪。相手の表情には再会を懐かしむ色など一切滲んでいないことに気が付く。
「そういうんじゃない……ただ、会いたかっただけで、」
「あいつに言っといてくれ。俺はお前のためにこれ以上、一円も出すつもりはないってな。もう連絡もしないで欲しい」
ゆっくりと、けれども確実に心臓が冷えていく。底なしの沼に沈んでいくようだ。
踵を返した父がそのまま目の前の一軒家に入ろうとするので、必死に声を上げた。
「待って……ちょっと待ってよ!」
辺りは暗いのに、赤く燃えさかっている気すらする。怒りのキャパシティーが限界を超えてしまったからだろうか。
腕を伸ばして彼の裾を引く。力強く引っ張る。
「それが娘に対する態度!? 十年ぶりに会ったんだよ? そっちが出て行ったせいでお母さんも私も大変だった! お母さんはずっと一人で私を育てて、働いて……」
「ふざけるな!」
怒声と共に手を振り払われた。その勢いで半歩あとずさった私に、父は目尻をつり上げる。
「俺が稼いだ金をよその男に使う女だぞ! こっちが苦労して働いたっていうのに、それをどうして浮気相手なんかに……」
「浮気……?」
不穏な響きに胸がざわつく。――母が、浮気をしていた?
「中学も高校も、誰のおかげで通えたと思ってる! もうこれで終わりにしてくれ!」
「お父さん……」
母が泣いているのを見た。ぼろぼろになって帰ってくるのを見て、私のために一生懸命働いてくれているのだと思った。
父が悪い。私たちを勝手に置いていって見捨てた父が全部悪い。今までそう思っていたから、何の遠慮もなく彼を責めることができた。
「悪いな。もうお前を娘だとは思いたくないんだ。……成長していく度にあいつに似ていく。やっぱり、顔もそっくりになるもんだ」
手からはとっくに力が抜けていた。未だに縋ろうという気にはなれなかった。
恐ろしくて、得体のしれないものに怯えて、ただ奥歯が震えている。
「あなた、どうしたの? 大きな声出して……」
横井の表札がかかったドアから、女性が顔を出した。その後ろに小さい女の子を見つけて、絶句する。
「ああ……すまない。大丈夫だよ」
父がその二人に近付き、優しいトーンで宥める。
まさか――いや、どう考えても父の新しい家族だ。ものすごく美人というわけではなけれど、優しそうな人。そして純朴な少女。
温かくて和やかな空気。私たちにはなかった空気。これが正しい家族の在り方なのだと見せつけられているような。
もう心臓の耐久度はゼロに等しかった。ヒビが入って割れて壊れて、上から何度も踏みつけられて粉々になっている。
父が少女の頭をそっと撫でる。慈しみ、大切な宝物に触れる時の仕草。
やめて。それは私が欲しかったものだ。ずっと願って祈って、サンタさんにまで頼んでも、手に入らなかったものだ。
苦しい。今すぐ逃げ出したいのに、足が竦んで言うことを聞いてくれない。もう見たくない。辛い。悲しい、のに。
「――奈々」
妻と子を家の中に戻し、ドアを閉める間際で彼が呼んだ。
「あいつからは離れなさい。そうしないと、お前が幸せになれない」
それが、父が父として私に残した最後の忠告であり、餞別であった。




