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絢斗の家から逃げ帰るようにしてアパートの玄関ドアを開けると、珍しく母の靴があった。今日は仕事が休みだったようだ。
どうせ寝ているんだろう。起こすと機嫌が悪くなるので、物音を立てないように気を付けながらリビングに足を踏み入れる。
「奈々」
「うわっ」
途端、母が待ち構えていたかのように顔を出した。
冗談抜きで心臓が飛び出そうになり、後ろへ仰け反る。
「何、その反応。やましいことでもあるわけ?」
「いや……急に出てきたらびっくりするでしょ」
至極真っ当な理由で反論した私に、母が黙ってクッションの上に腰を下ろす。そのまま煙草を一本取り出しライターに指をかけたところで、彼女は思いとどまった。
不自然な沈黙に耐え切れず、今度は私から話を投げかける。
「起きてるの珍しくない? いつもなら寝てるのに」
「……電話で起きた。さっき、あんたの担任から」
「は、」
佐々木先生からの電話。そんなの、用件は今日話していた進路のことしか考えられない。
行動が早すぎる。何日か待ってくれたって良かったのに。これでは強制的に母と話さざるを得ないではないか。
「あんた、卒業したら働くつもりなの?」
案の定、と言って然るべき質問だった。
母とまともに話すのは久しぶりだ。上手く言葉を繰り出せないでいると、更に問いを重ねられる。
「大学は?」
「……行かないよ」
その口から大学という単語を聞くことになるとは思わなかった。
私の頭の中に進学の選択肢がなかったのと同様、母の脳内も就職一択だと疑っていなかったからだ。
「行かない、ね」
吸う気が失せたらしい。ライターをしまって母が目を伏せる。
「行きたくないとは言わないんだ」
彼女が指しているのは恐らく、私が中学生の時のことだろう。
ちょうど三年前、やはり進路のこと。高校には行きたくない、と主張した私の頬を、母は打った。
『あんたみたいな小娘が簡単に金稼げるほどこの世界は優しくないんだよ。いいから高校には行きな。行かないならここから追い出す』
あの時、行きたくない、と言ったのは半分嘘だった。行きたくないというよりも、行かない方がいい、と思っていた。
早く仕事に就いてお金を稼いで、自立したかったから。――その方が、母に負担をかけないと思ったから。
「……別に、行きたいとも思わないし」
母が強引にでも私を高校へ行かせた理由を、本当は知っている。
『学歴は持っておきな。……私みたいになりたくなかったら』
打たれた頬を押さえて床にうずくまっていた時、僅かな声量だけれど聞き逃さなかった。聞かせるために言ったわけではないのかもしれない。それでも。
きつい口調で怒鳴られて殴られても、私はあの時、なぜだか一番嬉しかった。嬉しくて泣きそうになった。
母が思わず零した独り言を隠し通すように、私もその気持ちは絶対言ってやらない。
自分にとって何のメリットもないのに私を進学させた。それが母の最大の温情だったし、私に与えられた最後の猶予だった。
この二年、散々好き勝手させてもらったけれど、それもあと一年もしないうちに終わる。
私は結局、やりたいことなんて見つけられなかった。将来の夢とか、未来とか、目標とか、不確定なもののために自分の身を削って努力する才能はない。
だから、これでいい。働いて、お金を稼いで、もしかしたら誰かと結婚して、子供を産む。果たして自分にそれができるかは分からないけれど、私が望むのは、普通の幸せであり、それが一番不確実で難しいものかもしれないけれど。
『この一年で絢斗との関係を終わらせて欲しいの。もうこの先、二度と会いたいだなんて思わないように』
その日の夜、布団の中で目を閉じようとして、沙織ちゃんの言葉が思い浮かぶ。鮮明に、残酷なまでにはっきりと、言われた瞬間の空気の匂いまで脳裏にこびりついている。
私が絢斗のそばにいることで絢斗に何か不利益が生じるのなら、彼女に促されるまでもなく離れる――とでも言うと思ったか。
残念ながら、沙織ちゃんの言うことを素直に「はいそうですか」と受け入れるわけにはいかなかった。
だって、私は絢斗にそばにいて欲しい。絢斗も私にずっと会いたいと言っていた。
たとえそれで絢斗に悪い影響があったとしても、今更私は彼を手放せる気がしない。
沙織ちゃんが母親としてああ言ったのなら、まだ私も悩むことができた。でも違う。
彼女は母親として心配したのではなく、私への嫉妬で発言していた。それなら、彼女の言うことを聞く義理はないはず。
ないはず、なのに。
「……絢斗のばか」
どんなことを言われてもされても、絢斗のお母さんは沙織ちゃんだ。
絢斗にとって大事な存在であることに変わりはなくて、だから困っている。
私と沙織ちゃん、どっちが大事なの。
そんな馬鹿げた質問を絢斗に投げかけるわけにはいかない。どっちも大切で、どっちも手放せない。彼はそう答えるに決まっている。
でもね、絢斗。どっちも大切にするなんて、そんなことできないんだよ。もうそんなところは通り過ぎてしまった。
絢斗が沙織ちゃんと離れない限り、私と絢斗が一緒にいることはできない。でも沙織ちゃんは絢斗のお母さんだから、一生離れることなんてできない。
家族という繋がりはそれほど強固なものだし、強固であって欲しいと思っている。
『うん、そうする。ずっと一緒にいるよ。ななちゃん』
無理だよ。無理だったよ、絢斗。
ずっと一緒、なんて、まやかしでしかないのかもしれない。
家族じゃなきゃ、恋人じゃなきゃいけないんだろうか。ただ隣にいて欲しいとか、一緒にいると安心するとか、それだけじゃだめなのかな。
カテゴリーに分けて、ここからこっちは好き、あっちは嫌い、なんて、簡単に割り切れればもっと楽だった。
でも、私と絢斗は家族じゃない。いつか終わりが来てしまうような、自ら終わりを約束するような、恋人という間柄にもなる気はない。
それなら私は、やっぱり絢斗という「大切」を、手放すしかないんだろうか。
「いきなりって何よ、ずっと前から言ってるでしょ。いい加減にして」
はっきりしない意識の外で、母の声が聞こえた。
瞼を持ち上げればそこは見慣れた天井、壁。昨日は考え事をしているうちに、いつの間にか眠っていたようだ。
朝にしてはカーテンの隙間から漏れる光が暗い。一体何時だろう、と体を起こしかけた時、再び母の声が飛んでくる。
「使い道って……そんなの、奈々の学費に決まってるじゃない」
心臓が大きく脈を打った。
いま聞こえたのは私の名前だ。お金の話をしているらしい。険悪な空気と口調からして、交渉――かどうかは知らないけれど――が上手くいっていないことは明らかだった。
お世辞にもいい雰囲気とは言えない会話がしばらく続き、電話が切れる。反射的に目を閉じて寝たふりを装った。
――母が電話をしていた相手、それは父で間違いない。静まり返る部屋の中、そんな一つの確信を得る。
僅かに漏れ聞こえていたのは男の人の声で、母が仕事関係の人間に私の名前を出して話をするとは思えなかった。
しばらくして、浴室からシャワーの音がし始める。
起き上がり、テーブルの上に置きっぱなしにされている母のスマホを見やった。
面倒くさがってロックをかけていないおかげで、スワイプしただけでホーム画面がお目見えする。我が母ながら、そのズボラさにため息をついた。
発信履歴を確認し、一番上の携帯番号を自分のスマホに登録する。
「……ねっむ」
あくびを零しつつ作業を終え、母がシャワーから帰還する前にもう一度布団へ潜った。
多分、母は私を大学に行かせたいのだと思う。彼女の言葉を借りるなら、学歴とかそういう類いのメリットのために。
でも、私だって何も考えず働くと決めたわけじゃない。夢はない分、現実をきちんと見つめているつもりだ。
どれだけ母が稼げたとしても、大学へ行くには相当な金額が必要になる。決して無理な金額ではないだろう。いまどき奨学金も借りられるし、どうにかはなるのだ。
問題は、そこまでして大学へ通う意味があるのかということ。今から勉強をして仮に合格して、私は何のためにお金と時間を費やすのか。
それに、さっきの母の言い方から察するに、父からお金を借りようとしていた。そんなお金で行く大学なんて、ますます御免だ。
父にはあの日以来会っていない。いつか、一度でいいから会いたいと思っていた。
このチャンスを逃すわけにはいかない。




