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ハロー、愛しのインスタントヒーロー  作者: 月山 未来
あと2分が待ち遠しい
17/33

5

 


 苗字が横井(よこい)から此花に変わったのは、父が出て行ってすぐのことだった。

 学校の学習プリントを配られる度、「よこいなな」と記入してしまい、小さかった消しゴムがすぐになくなった。


 母の様子が明らかに変化したのもこの時期だ。

 それまでは父と喧嘩こそするけれど、私に対して怒鳴ることはなかったし、むしろ笑って話を聞いてくれることだって少なくなかった。


 あのクリスマスを迎えてから、母はよく家を空けるようになった。

 それが私を養うため、生活をしていくためだとは分かっている。だから文句なんて言えなかった。否、文句は実際言ってしまった。



「いかないで! お母さん、いかないでよ!」



 父を失って打ちのめされている母に。仕事で疲れ切っている母に。

 腕に抱きついて泣き叫んでいると、母はとうとう私を振り払って大声を上げた。



「ぴーぴー泣かないでよ! こっちは寝不足と二日酔いで頭痛いんだから!」



 初めて母に本気で怒鳴られた。躾でも注意でも何でもない、ただの感情をぶつけられた。

 赤い唇に濃く長い睫毛、母が「女の人」に見えた瞬間。今でもはっきり思い出せるほど脳に刻み込まれている。







「奈々ちゃんのお母さん、まだお仕事なの?」



 暮町家で夕ご飯をご馳走になっていた時だった。

 家に一人でいることが多かった私を、沙織ちゃんが心配してくれたのだ。



「うん。いっつも六時くらいに帰ってくるよ」


「六時って……まさか、朝の?」


「そうだよ。お母さんが帰ってきたらね、わたしすぐに分かる! めざましどけいの代わり!」



 母に怒鳴られてから、私は必死に「いい子」でいようと努めていた。

 あのとき怒られたのは、わがままを言ったから。だからきっと、大人しく母の帰りを待っていれば大丈夫。


 朝起きて母が帰ってきたところを見てから学校へ行って、学校から帰ってきたら絢斗と遊んで沙織ちゃんのご飯を食べて、母のことを想いながら眠りにつく。母の仕事が休みの日はなるべく早く家に帰って、母と一緒にカップラーメンを食べた。


 その頃はインスタントもレトルトも割と好きで、なぜなら一つひとつに母との思い出が詰まっていたからだ。

 沙織ちゃんがご飯もおやつも手作りにこだわる人だったからか、絢斗は私の家に上がると、そういった即席の食品にとても興味を示した。そして二人で夕飯前にこっそり食べたこともあった。



「ごちそうさまー」



 そんな日は普段より幾分も早く手を合わせることになるし、沙織ちゃんが黙って見過ごすわけがない。



「もういいの? 全然食べてないけど……」



 ぎくり、と分かりやすく絢斗が固まる。



「う、うん、お腹いっぱいだから」


「具合悪いの? 熱は?」


「だ、だいじょうぶだよ」



 嘘がつけない絢斗はあからさまに目を泳がせ、助けを乞うように私を見やった。

 その視線に気が付いた沙織ちゃんが、「分かった」と腕を組む。



「二人とも、ご飯の前に何か食べたでしょう。何を食べたの? ちゃんと言いなさい」



 怒った沙織ちゃんは結構怖い。先に折れたのは絢斗だった。



「ら、……らーめん」


「ラーメン? お店に行ったの?」


「ううん。ななちゃんのお家にあったやつだよ」



 首を傾げたままの沙織ちゃんに、私は「かっぷらーめん」と口を開く。



「お湯だけでつくれるらーめんだよ。あやちゃんが食べたことないっていうから……」


「カップラーメンなんてだめ!」



 唐突に大きな声で叱られ、肩が跳ねた。

 絢斗もびっくりした様子で目を見開いている。



「あんなの、添加物たくさん入ってて健康に悪いんだから! いい? 絢斗、もう食べちゃだめだからね」



 健康に悪い。食べちゃだめ。

 そのフレーズが脳内でこだまする。強めの口調で絢斗に何かを言い諭している沙織ちゃんを眺めながら、私は少なからずショックを受けていた。


 母との思い出が詰まっている食べ物だし、それを絢斗と食べたことも、私の中では既に一つの思い出になっている。

 三分という短い時間をわくわくしながら待つ空気感。湯気と一緒に吸い込むしょっぱい香り。あんなに簡単に作れて美味しいのに、何がだめなのだろう。


 カップラーメンだけではなくて、ポテトチップスなども沙織ちゃんからすると「だめ」らしい。

 それ以降、絢斗が私の家に来ることはなくなってしまった。私が家にこもって泣いている時は、内緒で絢斗が来てくれたこともあったけれど。


 でも、沙織ちゃんにはバレていたんじゃないかと思う。絢斗が嘘をつけない性格だというのは大前提として、沙織ちゃんの目は、いつも私たちの間にあるものを見透かすように光っていた。


 私の家には行かない。インスタント食品は食べない。

 そう言われていても、絢斗は結局私には甘いから、クリスマスの日は私のそばから離れなかったし、沙織ちゃんの言いつけを破ったことは他にもいっぱいあったはずだ。


 絢斗は絶対に私を優先する。他の何より、誰より。







「ねえ、引っ越しましょうよ。その方がいいわ」



 小学四年生の夏休み、絢斗の家で宿題をして、二人揃って寝てしまった時があった。

 先に目が覚めた私はトイレに行こうと思い、一階に下りたのだ。リビングには沙織ちゃんと絢斗のお父さんがいて、話し声が聞こえてきていた。



「絢斗が中学に上がるタイミングでもいいんじゃないのか? 職場は確かにちょっと遠くなるけど、通えない距離じゃないし……」


「どうせ引っ越すなら早い方がいいわよ。ね、そうしましょう」



 断片的に会話を拾っただけということもあって、その時は内容をよく理解できていなかった。起き抜けで頭が回っていなかったというのもあるかもしれない。


 でも、沙織ちゃんの神妙な声色はとても印象深かった。



「私、聞いたのよ。奈々ちゃんのお母さん、いつも朝方に帰ってくるって。ゴミ出しに行った時に、男の人と歩いてるところも見かけて……それってつまり、そういうお仕事をしてるってことでしょう?」



 心臓がずっとざわついている。耳を塞いでしまいたいのに、腕が上がらない。



「正直、もう関わりすぎない方がいいと思うの。絢斗にも何か影響を与えちゃうんじゃないかって――」



 その先は聞く勇気がなかった。急いでトイレにこもって、頭を振る。


 本当はずっと分かっていたんじゃないの? 沙織ちゃんが私のことを好きじゃないって。向けられる視線に居心地の悪さを感じていたって。


 でも、私にとっては絢斗が一番大切だ。ずっと一緒にいたのに、今更離れることなんてできない。絢斗だってそのはず。


 そうだよね?



「ななちゃん。僕、引っ越さなきゃいけない」



 なのに、絢斗は突然そう言った。別れる時、泣きもしなかった。



「ごめんね、ななちゃん」



 分からないよ。絢斗は私のことが大事じゃないの? 私より、沙織ちゃんの言いつけの方が大事?

 どうして? 今までずっと、ルールを破っても私の隣にいてくれたのに。



「ばいばい。あやちゃん」



 遠ざかっていく背中に、必死に涙を拭いながら手を振った。


 冬が嫌いだった。父が出て行った日を思い出すから。

 その日、ただでさえ嫌いだった冬が、絢斗のせいで、絢斗がいなくなったせいで、大嫌いになった。


 冷たいのも、寒いのも苦手だ。温もりが恋しい。なるべく手軽なものが良い。

 大事にしすぎると手放す時に苦しいし、そういうものに限って私を大事にはしてくれない。


 インスタントな関係は、そんな私に好都合だった。



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