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一つ抜き取った冊子には、そんなタイトルがつけられている。軽くぱらぱらとめくってみたところ、クラスのみんなが将来の夢について書き記している文集のようなものだった。
きっと私も書いたはず。あの頃、私は将来何になりたかったのだろう。
お花屋さん、ケーキ屋さん、アイドル。どれもそうだったような気がするし、そうじゃなかったような気もする。
でも、今の私が求めている「何にも脅かされない安定した生活」というのは、さすがに当時、望んでいなかった。
そんな曖昧で明確な基準がない未来なんて、「夢」とは呼べない代物だから。
「な、奈々ちゃん、それは……!」
絢斗の当時の夢は何だったのだろう、と興味本位でページをめくっていたら、彼が慌てた様子で声を上げた。
急に大声を出されて少々驚いたのと同時、部屋のドアがノックされる。
「絢斗? ちょっといい?」
ドアが開き、沙織ちゃんが顔を出す。
「ペットボトルの蓋が固くて開かないの。ちょっと来てくれない?」
「え? あ、うん、分かった」
私の方を振り返った絢斗が、「それ、中身ぜったいに見ちゃだめだよ!」と忠告を入れて部屋を出る。
フリだろうか、と思わなくもないけれど、絢斗のことだからそんなつもりで言ったわけではないのだろう。
仕方なく冊子を閉じ、――未だそこに立っている彼女に視線を寄越した。
「最初から、私に話したいことがあったんですか?」
沙織ちゃんは絢斗が階段を下りきるのを待っていたかのように、数秒経ってから口を開いた。
「奈々ちゃん。綺麗になったわね」
本心なのかお世辞なのか分からない。絢斗にも最初、同じようなことを言われた気がする。
「絢斗がね、どうしてもあなたに会いたいって言うの。だから久しぶりにこっちに戻ってきたのよ。会えないなら家出するって、そこまで言うから……」
「会えない、じゃなくて、会わせてもらえない、の間違いじゃないですか?」
あくまでも穏便に済ませようとしている相手の意図が読み取れた。けれども、私はこのまま愛想笑いで終わらせるつもりはない。
端から言いたいことがあったから、七年間頑なに絢斗と会わせなかった私を家へ呼んだのだろう。
「……絢斗から、聞いたの?」
彼女の目つきが変わる。
「はい。あなたが『私に会うな』と絢斗に言ってたって。だからずっと会いに来れなかったんだって、言ってました」
オブラートには包まない。彼女からは、絢斗のため、というよりも、私への疎ましさの方が濃く感じられた。悪意には、下手に怯んではいけないのだ。
そう、と気落ちした相槌が耳朶を打つ。
「色々考えたんです。七年も私へ会わないように言っていたのに、どうして今更引っ越してきたんだろうって。こっちへ来たら、必然的に私と絢斗が接触することになる」
現にそうなっているのだ。絢斗が私に会いたがっているのは、彼女が一番分かっているはず。
けれども絢斗の希望を通してこの町に戻ってきた。それは、多分。
「見張るためだったんじゃないですか? 自分の目に届く範囲に私を置いておきたかった。そうすれば、自分が介入することができるから」
今のこの状況がまさしく。ついさっき、二人で出掛けるのかと尋ねてきたのもその延長線上だったのではないだろうか。絢斗が否定したら、彼女は安堵したように表情を和らげていた。
家出、だなんて口走る絢斗のことだ。いつか突然不満が爆発して、勝手に私のもとへ行くかもしれない。
そうなる前に私と引き合わせた。再会という、響きの綺麗で穏便な形で。
多少の接触は許容しながら、間違っても一線を越えることのないよう、彼女はしかと見張っている。
「……そこまで理解してるのなら、私の言いたいことは分かるでしょう?」
諦めの滲む微笑で、沙織ちゃんが促してくる。
「絢斗ともう会うなって言いたいんですか」
「現実的に無理でしょうね、本当はそうしたいけれど。それに、今すぐ会うなって言っても、絢斗には意味ないだろうから」
じゃあ一体、私にどうしろと。
そう思ったのが伝わったのか、彼女は僅かに眉尻を吊り上げて告げた。
「この一年で絢斗との関係を終わらせて欲しいの。もうこの先、二度と会いたいだなんて思わないように」
手から力が抜けて、冊子がぱたりと床に落ちる。拾う気力はない。
「皮肉だけれど……それができるのはあなたしかいないわ。あなたが直接、絢斗に言ってくれないと終わらない」
「……そのために、私と絢斗を会わせたんですか」
終わらせるために始めた。そんなの、金輪際会うなときっぱり言われた方がましだ。
もう一度、作り直せるかもしれないと少し期待していた。絢斗から沙織ちゃんの名前が出た時、沙織ちゃんと会った時、この家に呼ばれた時、もう既に分かっていたのに。
――きっとこの先、私たちがずっと一緒にいられる未来なんてないということ。
「沙織ちゃーん! ジュース零しちゃったー!」
一階から絢斗の呑気な声が聞こえてくる。
「今行くからちょっと待って」
踵を返そうとした彼女に、私は問いかけた。
「沙織さん。あなたが絢斗から私を遠ざけようとする理由は何ですか?」
向けられた背中からは返答がない。それが答えだと思う。
「私が片親だからですか? 私の母が夜職だからですか? 違いますよね」
沙織ちゃんの態度が変わったのは、確かにそれも関係しているとは思うけれど、もっと言うと、もともとはそうだったのかもしれないけれど。
少なくとも今は、そうじゃないはずだ。
「あなたは、絢斗を愛している」
「……当たり前でしょう。母親だもの」
「いいえ。当たり前なんかじゃないです」
だって、それは母親としてじゃない。
執拗に私との接触を嫌がるのも、甲斐甲斐しく絢斗を世話するのも、全部。
「――女性として、絢斗を愛している。違いますか」
弾かれたように振り返った彼女が、その瞳に明確な嫌悪の色を宿す。コーラルピンクの唇が噛み締められて、歪んだまま言い放った。
「だとしたら、どうするの?」
本性を現したな、この野郎。
胸中でそう毒づく。今の彼女は完全にオンナの顔をしていた。
「気持ち悪いと、軽蔑しますよ。もちろん」
母親の皮を被って、自分の利益のために子供を好き勝手している。どんな理由や感情が背景にあったって、彼女がしたのはそういうことだ。
私を睨めつける彼女の横をすり抜けて、階段を下る。
キッチンにいた絢斗が何か言っていたけれど、無視して玄関のドアを開けた。




