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「あ、奈々ちゃん!」
学校は違えど、家が近いとよく出くわす。
職員室への呼び出しを食らった後、気怠さを感じながら帰路についていたら、バスを降りたタイミングで絢斗に会った。
彼の声が大きいのは慣れているし昔からなのでいいとして、これでもかというほどぶんぶんと手を振るのをやめて欲しい。周りからの視線がかなり痛い。
一直線に私へ向かって駆け寄ってきた絢斗は、屈託のない笑みで「おかえり」と言い放った。
「おかえりって……まだ帰ってないけど」
「うーん、でもここまで来たら帰ってきたような感じかなと思って!」
「だとしても絢斗のセリフじゃなくない?」
「こないだは『ただいま』しか言わなかったから、『おかえり』も言いたくなっちゃったのかも」
謎理論で片付けた彼が、へへ、と嬉しそうに目を細める。
追及するのもアホくさくなってしまい、無理やり納得しておくことにした。
肩を並べて、ほぼ同じ帰宅ルートを辿り始める。
喋るのは九割絢斗だ。残りの一割は私の相槌。適度に質問を挟まないと「聞いてる?」と言われてしまうから、なかなか油断できない。
「奈々ちゃん、今日元気ないね」
いつもと変わらない調子で聞いていたつもりだったのに、突然顔を覗き込まれたので驚いた。思わず足を止め、伏せていた目を上げる。
「何かあったの?」
そう問われて、答えに詰まった。私自身もそこまで気分が沈んでいた自覚はなく、ただ母に話さなければならないことがあるというのが億劫だった。
どこかいたたまれなくて、また目を伏せてしまう。
「……何もない。大丈夫」
「あ、嘘ダメだよー。奈々ちゃん分かりやすいんだもん、すぐバレちゃう」
絢斗にだけは言われたくない。若干眉根を寄せたものの、彼が私の嘘に敏感なのはこちらも理解していた。
反駁する代わりに、割り切れない頷きを返そうとした時。
「絢斗?」
その声は前方から確かに聞こえた。刹那、全身の筋肉が硬直してしまったかのように緊張が走る。
恐る恐る顔を上げた私に、相手が目を見開いた。
素朴さの滲む綺麗なダークブラウンの瞳と、私とは対照的な緩くウェーブのかかった髪の毛。
彼女は一瞬表情を強張らせた後、すぐに穏やかな笑顔を浮かべる。
「あら、久しぶりね。奈々ちゃん」
爽やかな挨拶だった。
センターで分けられた前髪が年月の経過を感じさせる。それでも相変わらず、優しそうで綺麗な人という印象は健在だ。
「……お久しぶり、です」
喉が妙に乾いていた。
絢斗が引っ越してきた日、見かけた顔と全く同じそれが、いま目の前で佇んでいる。
「沙織ちゃん、どこ行ってたの? 買い物?」
「そこのスーパーに行ってきたの」
言いつつ持っている袋を掲げた彼女は、絢斗の学ランの裾に手を伸ばした。一番下のボタンが外れていたのが気になったらしい。やけに懇ろに留め直し、だらしないでしょう、と柔らかい口調で窘める。
「二人は学校帰りよね。これからどこか行くの?」
「行かないよ。どうして?」
「だって、一緒に歩いてたから。待ち合わせして出掛けるのかと思った」
「駅で偶然会ったんだよ。ね、奈々ちゃん」
親子の会話に聞き入っていたところで、唐突に話を振られた。
頷いて見せれば、沙織ちゃんがなぜか少しほっとしたように頬を緩める。
「そうだったの。……もし良かったら、奈々ちゃん、この後うちに来ない?」
「え、」
想定外の誘いに、なすすべもなく動揺した。絢斗ならまだしも、沙織ちゃんがそんなことを言うだなんて、まさかとしか表現のしようがない。
もちろん、絢斗がその提案に乗らないわけがなく。
「賛成! 奈々ちゃん、久しぶりにうちでご飯食べよ!」
結果として、暮町家に訪問することになった。
久しぶりといっても前とは違う家だ。懐かしさを感じるかと問われると、答えはノー。
玄関に入って早々、置かれた雑貨やインテリアからは、確かに以前のような雰囲気が見て取れる。
「奈々ちゃん、早く! 僕の部屋こっち!」
「こら、まずは手洗いうがいでしょー」
平常運転で和やかなムードに、虚を突かれてしまう。
ここに来るまでの道中も別段変わった様子はなかった。元気にしていたか、今はどこの高校に通っているのか――世間話も滞りなく、かえって申し訳なくなるほど。
『会いに行けなかったんだ。行っちゃダメだって言われて……』
だけれど、絢斗の言葉はこの耳で間違いなく聞いた。その時の衝撃と確信は絶対に忘れない。
漠然とした不安を抱えながらも、やはり誘いを断るなんて、私には到底できなかったのだと思う。
昔のように絢斗と無邪気に笑えたら、何も知らずにいた頃に戻れたら。どうしても希望が捨てきれない。なんのしがらみもなく私たちは幼馴染に戻れると、そんな淡い願いが叶うことはこの先あり得ないのに。
「ええっと、ごめん、ちょっと散らかってるんだけど……」
二階に上がり、先導していた絢斗が遠慮がちにドアを開ける。彼の部屋だ。
絢斗の場合、散らかっているというのは謙遜でも卑下でもなく、ただの事実である。
漫画、野球のグローブ、ゲーム機。床には物が散乱していた。いかにも男子高校生らしいラインナップだ。
なんとはなしに部屋の中を観察していると、教科書が乱雑に積まれた机の上に、一つだけ写真立てを見つける。
「……これ、」
思わず手に取った。掴んだ指先に力が入って白んでいく。
「懐かしいよね。二年生の時の遠足の写真。奈々ちゃんと二人で写ってるの、それしかなかったんだ」
絢斗の言うように、写真立てに飾られていたのは私と彼のツーショットだ。背景が緑一色なので、恐らく木の生い茂った公園で撮ったものだろう。細かいところは正直よく覚えていない。
「あの時、奈々ちゃん遠足用のおやつを家に忘れて来ちゃって、朝からずっと不機嫌だったなあ。僕のおやつを分けてあげたんだよ」
「そう、だっけ?」
「そうだよ。奈々ちゃんがほとんど食べちゃったから、それでちょっとだけ喧嘩したんだ。覚えてない?」
昨日のことのようにすらすらと思い出を振り返る絢斗に、黙るほかなかった。
彼の瞳が少しだけ不安定に揺れる。
「……覚えてない、よね。もうずっと前のことだもん」
私に気を遣っての言い回しだということは、容易に分かった。
ずっと前。でも、絢斗はちゃんと覚えている。それが全てだ。
私は昔のことを、絢斗と過ごした時間を大切に思っていたはずなのに、詳しく語れと言われてもそれができない。
明確に思い出せるのは悲しみが付随した記憶ばかりで、いつの間にか脳内で絢斗を責めてばかりだった。どうして、なんで、私にこんな思いをさせるの。会いに来てくれないの、と。
絢斗が私のことを忘れた? どこの馬鹿がそんなことを言ったのだろう。
手紙を寄越し続けて、会いたい、会おうとし続けて、今も変わらず昔の記憶を抱き締め続けている。
彼は私よりもっとずっと、私たちのことを大事にしていた。大切にする、ということを、私より上手にできるし、口だけではなくきちんと実行できる人だった。
返事をしようにも適切な言葉が見つからず、教科書の表紙を撫でる。
ふと、机についている本棚に収納された冊子に目がいった。教科書などは散らかったままなのに、そこだけきちんと整理されていたからだ。
『みんなのしょうらいのゆめ』




