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沙織ちゃんは本当に優しい人だった。
私の両親が私に無関心なのを知って、おかずを持って訪ねてきてくれたり、家に呼んで料理を振る舞ってくれたり、まさに理想のお母さん像で。そんな沙織ちゃんに愛されている絢斗が心底羨ましくて、時々無性に寂しくなった。
小学二年生の冬、父と母が最大の喧嘩をした。最大といっても、要するに今までため込んできた不満が爆発した類いのものだと思っている。
いつにも増して言い合いは激しく、とうとう父はその勢いで家を出て行った。数日後にふらっと帰ってきたかと思えば、母に鉢合わせて口論をして、また出て行く。その繰り返し。
その日は確か、終業式で学校が早く終わった。家族でクリスマスパーティーをするんだと楽しそうに話す絢斗に、私はそこで今日がクリスマスであると気が付いた。
何年前か忘れたけれど、両親と一緒にケーキを食べた記憶がある。すごく嬉しかったから覚えている。
「わたし、今日は帰る!」
きっとお母さんが料理を作って待ってくれている。お父さんがケーキを買って帰ってきてくれる。
なぜかそう思っていた。どうしてだろう。
母はその日仕事で遅くまで帰ってこないし、父だって家にいる保証などないのに。
案の定、玄関には母の靴がなかった。その代わり、父の靴があった。
「お父さん!?」
慌てて家の中へ入ると、部屋は少し荒れていた。急いで物を探していたような、そんな荒れ方。
「……奈々、お前、何で」
父がスーツケースを広げている。もうその中はぎっしりで、ほんの数日分なんかじゃない。じゃあ何日分だというのか。どうして、荷物の整理のようなことを、今ここでしているのか。
「お父さん、なにしてるの?」
「……学校はどうしたんだ」
「明日から冬休みだよ。今日ね、しゅうぎょうしきだったから……」
ぱんぱんに詰め込まれたスーツケースを手に、父が立ち上がる。そういえばそうか、失敗した。そんなことを呟きながら。
「ねえ、どこ行くの?」
私の質問には答えず、父がテーブルに一枚の紙を置いた。はっきりと見た。――離婚届、の文字を。
「お父さん……?」
あまりにも呆気ない別れだった。玄関で靴を履く父の背中を眺めることしかできず、その姿が消えてからもしばらく動けなかった。
部屋が冷たいな。いつから暖房ついていなかったんだろう?
壁際に座って、膝を抱え込む。
寒い。寒くて痛い。苦しい。悲しい。
窓の外がどんどん暗くなっていく。何も見えなくなっていく。
ちょうど向かいの家の明かりがついて、絢斗の言葉を思い出す。
「……くりすます」
みんなの家にはサンタクロースがやってくるらしい。夜に来て、プレゼントを枕元に置いておいてくれるんだって。会ったことも見たこともないし、私の家には来ないからよく分からない。
プレゼントなんていらないの。ケーキも食べられなくていいの。
ただ私は、お母さんとお父さんが一緒に笑ってご飯を食べていてくれたら、それでいいのに。
「サンタさん、こないかなあ……」
プレゼントって、モノじゃなくてもいいのかな。お母さんとお父さんが仲良くしてくれますようにって、お願いしたら叶えてくれないのかな。
でも私、いい子じゃないから、今年も来てくれないかもしれない。
寒くて毛布にくるまっていたら、そのまま眠ってしまった。
目が覚めた時には部屋の中が明るくて、すっかり朝になっていた。
テーブルの前で呆然と立ち尽くす母に気が付いて、一気に眠気が飛ぶ。
いつ帰ってきたんだろう。どれくらいの間、そうしていたのだろう。
お母さん、と呼びたかったけれど、声が出なかった。お腹が空いていたから。喉が渇いていたから。
ううん、それよりも多分、怖かったから。その時の母の目が、何の光も宿していなくて、恐ろしかった。
母はその日を境に変わってしまった。私に大声で怒鳴るようになったし、次の瞬間には泣き崩れる。
夕方に出掛けて朝まで帰ってこないことも増えた。仕事の種類が変わったんだと理解したのは、かなり経ってからだ。母が香水臭くなったのもこの時からだったと思う。
父がいなくなってからの母は明らかにぼろぼろで、そんな母を一人にしておけなかった。私がそばにいたところで当たり散らされるだけだけれど、小学生の私に何ができるのか分からないけれど、それでも。
急に学校を休み始めた私を、当然と言うべきか絢斗は心配してくれた。家に一人で籠っていたところへ遊びに来てくれたり、外へ連れ出してくれたり。
クリスマスが近付くと、寒くて痛くて苦しい記憶を思い出してしまう。
部屋で一人縮こまる私の背中を、絢斗はいつも優しくさすってくれた。
「ななちゃん、僕がいるよ。ずっと一緒にいる。毎年、ぜったいに、そばにいるから」
***
「此花。お前、就職を希望してるんだったな」
放課後に職員室へ来い、とのことだった。呼び出しに応じた私への担任の一言目がこれである。
佐々木先生はファイルから一枚プリントを取り出し、こちらへ差し出した。
「就職に関するプリントだ。ちゃんと目を通すように」
三年生になってから最初の進路希望調査は、先月終わったところだった。
私は去年の時点で、進学か就職かの二択で迷わず後者を選んでいる。もちろん、こないだの調査でも変わらず就職を希望した。
大学には特別行きたいわけではない。というかそもそも、うちにそんなお金はないはずだ。
周りは大抵が進学の道を選ぶ。就職希望は圧倒的に少数派で、特にうちのクラスの中では私くらいしかいないのではないだろうか。
「七月以降、求人票が校内に貼り出されるだろうから、それも確認しておけ」
高校経由での就職活動、受けられるのは一人一社まで、内定の辞退は不可――プリントにはそんな注意事項が連なっていた。
先生の話をぼんやり聞きながら適当に頷いておく。自分のこと、加えて重要なことであるのにも関わらず、いまいち実感がわかない。
「此花」
努めてくっきりと発音するように呼びかけられ、ふらふらと揺蕩っていた意識を戻す。
「今月末から三者面談が始まるが……親御さんとは進路のこと話してるのか」
眼鏡の奥、探るような目つき。
去年の担任から、私の親のことは粗方聞いているのだろう。そうでなければこの言葉は出てこない。
それにしたって、日常会話すらままならない母と娘が進路の話などできると本気で思っているのか。
「あの、三者面談ってこの時間にやるんですよね。多分うちの親、来れないと思います」
仕事があるので、と先手を打ってから口を噤んだ私に、佐々木先生が何とも言えない顔で黙り込む。
「……ご都合があるのも分かるが、大事な話だ。お前が話さないなら、先生から電話をかけて話すことになる」
「うわ」
思わず声を漏らしてしまい、口を押さえた。
今の私の反応で、母に進路の話を何もしていないことがバレたらしい。相手が苦笑気味に肩を揺らす。
「お前自身が本当に望んでいるなら、構わないんだけどな」
私が持っているプリントに視線を投げ、先生は浅く息を吐いた。
今の言い方はつまり、私がやむなく進学を諦めた、とでも思っていそうだ。とんでもない。どちらかと言えば、早く自立したかった。




