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聞こえた名前も、彼の唇の動きも、それが事実だと言っていた。
ゆっくりと頭の中で咀嚼してから当たり障りのない相槌を打とうとして、声が出ないことに気が付く。
「もともとは、ただの引っ越しの予定だったんだ。そこまで遠いところに行くはずじゃなかった。奈々ちゃんにもすぐ会えると思ってて……いっつも僕ばっかり泣いててかっこ悪いから、引っ越しの時、あの時だけは泣かないぞって、奈々ちゃんにかっこいいところ見せようって」
別れの際、妙にあっさりとしていた彼。確かに考えてみればおかしい。
絢斗は私と離れることになっても寂しくも悲しくもないんだ、と当時は思っていたし、離れた事実よりもそのことの方が精神的にくるものがあった。
「だから、引っ越しが終わったらすぐに奈々ちゃんに会いに行って、驚かせようと思ったんだ。本当に、また、すぐに会いに行くつもりだったんだよ」
彼が言葉を区切る度、ぎゅ、と手に力がこもる。
「でも、新しい家が結構遠くて……ここにしようねって言ってた家じゃなかったんだ。そこを通り過ぎて、どんどん進んでいって、着いたのが初めて見る家だった。ここにしようって言ってた家と似てるからいいでしょって沙織ちゃんは言ったけど、造りとか、見た目とか、そんなのどうでもいいんだよ。だって、僕は奈々ちゃんから近ければ近いほどいいって思ってたから……。どれがいい? って聞かれて、この町から一番近い、奈々ちゃんに一番近い家を選んだのに」
「絢斗、」
「嫌だったんだ。何回も嫌だって言った。お父さんにお願いして、車で奈々ちゃんのとこまで会いに行きたいって言ったのに」
絢斗が私の手を一層強く握る。痛いくらいに強く、震えながら。
「……私に会うなって、言われたんだね。沙織ちゃんに」
とうとう、彼の目から雫が一滴零れ落ちる。それは、再会してから初めて見る絢斗の涙だった。
「ごめんね……約束、したのに……ずっと一緒にいるって、毎年、僕がそばにいるよって、言ったのに……」
「うん。でも、それはしょうがないよ」
「だって、奈々ちゃん、ずっと一人で……!」
握られているのとは反対の手で、絢斗の肩を掴む。とんとん、と軽くたたき、腕にかけて優しく撫でる。
昔、絢斗が泣いた時、よくこうして落ち着かせていた。今それを咄嗟にしてしまっている自分にも少し驚いている。
知らなかった。いや、知るわけがなかった。絢斗がそこまで私に会いたいと切望していたことも、悩み苦しんでいたことも。
私だけじゃなかった。それが分かったから、彼には悪いかもしれないけれど、やっぱりどこか嬉しいと思ってしまう。
私が絢斗の想いを知らなかったように、絢斗だって私の想いを知らない。当たり前だ、何年もの空白があったのだから。
「……絢斗、ごめん」
「奈々ちゃんは悪くないよ……」
「うん、そしたら、絢斗も悪くない」
ぐすぐすと鼻を鳴らした彼が、私の言葉に頷く。
「僕、帰ってきたよ。奈々ちゃんに会いたくて、帰ってきたんだ」
もう突っぱねることなんてできなかった。反論も言い訳もない。それでも絢斗のことを突き放すことができるのなら、その方法があるのなら、教えて欲しいくらいだ。
私たちは戻れるだろうか。大切なものを、当たり前にきちんと大切にできるだろうか。
「うん。……おかえり、絢斗」
おかえり、なんて、言ったのはいつぶりだろう。
随分と懐かしい響きに誘われて、自然と口角が上がる。
「ただいま。奈々ちゃん」
泣いているのか笑っているのか、どっちつかずな顔のまま、絢斗がそう答えた。
おかえり、が久しぶりなら、ただいま、も久しぶりだった。
つられてうっかり涙が出そうになって、唇を噛む。もう泣く必要はない。長い夜も、寒い夜も終わった。泣くのは一人の時だけにする。きっと絢斗も私の知らないところでたくさん泣いた。
いま私の目の前には絢斗がいる。それだけなのに、たったそれだけが奇跡みたいに、涙が出るほど嬉しいのは、この世界で私しか知らなくていい。
「……絢斗、聞かせて」
「え?」
「会ってなかった間の話。手紙じゃなくて、直接聞きたい」
私の顔を見て、私だけを見て、絢斗の声で喋って欲しいんだ。だって、昔はそれが私たちの普通だったから。
絢斗が嬉々として話し出す。私は黙って聞く。私の話も聞きたいと言うから、絢斗に言えないアレコレはちょっとだけ伏せて、なるべく正直に話す。自分のことを大事にしないとダメだ、と絢斗に叱られる。そうやって七年間の空白を埋めていく。
絢斗の拳はまだ赤い。私の手首もまだ赤い。きっと、背中も赤いだろう。
けれども、いま私たちに必要なのは、外傷の手当てより心の充足だった。
***
予兆、なんてどころではない。兆候、予感、どれもなまぬるい。
父と母の間には歪みがあったのだと思う。それも、取り返しのつかないほど大きな歪みが。
気が付いた時には既にそうだったから、何が原因なのか、どうすれば改善されるのかはよく分からなかった。そもそもそれが当たり前だったし、正そうとも思わなかった。
母は十六歳で私を産んだ。高校には行っていない。行くことができなかった、と表現した方が正確だ。
私を身籠った時、堕ろしなさい、と周囲に強く促されたけれど、反対を振り切って出産したのだと言う。その際に母の方は親と縁を切り、父と二人で暮らし始めたらしい。
全部後になって聞いたことだから、小さい頃は事の重大さを理解していなかった。
ただ漠然と、両親はいつも大声で言い合っているな、とか、母は怒ったり泣いたり忙しいな、とか、そんな程度だ。
父と母の関係が悪化していた頃、ちょうど絢斗とよく遊ぶようになった。
家に帰ると二人の喧嘩が待っている。帰りたくない、と言う私に、絢斗が「じゃあ僕と遊んで」と手を引いてくれることが常だった。
「絢斗! 何してるの!」
夕方の六時過ぎ。公園で遊んでいると一人の女性がやってきた。
沙織ちゃんと会ったのはそれが初めてで、絢斗が彼女のことを「お母さん」と呼ぶまで、絢斗の母親なんだということが分からなかった。それくらい、絢斗と沙織ちゃんには類似点が見いだせなかったのだ。
そう、絢斗はまだこの時、沙織ちゃんのことを「お母さん」と呼んでいた。いつからだろう、沙織ちゃん、なんて呼ぶようになったのは。
小学生の帰宅時間はとうに過ぎており、なかなか帰ってこない絢斗を心配し、彼女はここまでやってきたのだろう。
「ななちゃんと遊んでた!」
絢斗の言葉を受けて、沙織ちゃんが私へ視線を向ける。それからすぐに「ああ」と表情を和らげた。
「ななちゃんね。いつも絢斗と仲良くしてくれてありがとう」
家で絢斗が私のことばかり話すから、彼女も知っていたらしい。
優しく笑った沙織ちゃんだったけれど、急に怖い顔をして腰に手を当てた。
「でもね、もう六時だよ。暗くなってきたでしょ。危ないから、時間はちゃんと守らないとダメ。ななちゃんのお母さんとお父さんも心配してるよ」
「……心配なんてしてないもん」
拗ねていたわけではなく、本当のこと。
絢斗と一緒にこの時間までいたのは初めてだった。でも、これまでに何度か、もっと遅い時間に帰ったことがある。叱られたことはない。怒られるのは好きじゃないのに、なぜだか物凄く寂しかった。
「帰りたくない。……わたし、帰らない」
スカートをぎゅっと握る。
思うところがあったのか、沙織ちゃんはそれ以上怒らなかった。代わりに、私の親へ挨拶をした後、うちに行こう、と言ってくれた。
「すみません、向かいの暮町ですが……」
インターホンを押す沙織ちゃんを見ながら、誰も出ませんように、とお願いした。けれども、結局母が出てきた。
「奈々? どうしたの」
私、沙織ちゃん、絢斗、と順番に見て戸惑う母に、沙織ちゃんがおずおずと告げる。
「あの、ななちゃんがこの時間まで公園で遊んでいたんです。学校からも帰宅時刻は五時半と言われてますし、その……」
「うちは六時でも七時でも構いませんし、娘にもそのつもりで遊ばせてますけど」
「え、いや……でも、危ないですし」
「とにかく」
母が沙織ちゃんの言葉を遮り、私の腕を引く。
「これはうちの問題なのでお気になさらず。わざわざ送っていただきありがとうございます。では」
淡々と述べた母は、ドアを閉めて二人を追い返してしまった。そのまま私から手を離し、何を言うわけでもなく部屋の奥へ向かっていく。
ほら、やっぱり。お母さんは怒らない。私が何時に帰ってこようと、そんなのはどうだっていいのだ。




