12
「保冷剤……あった」
冷凍庫の中を掻き分け、目当てのものを取り出す。それをハンカチで包んでからリビングへ戻ると、絢斗が顔を上げた。
「あ、奈々ちゃん、ありがとう」
「ちゃんと冷やしな」
「うん」
喧嘩など生まれてこのかた一度もしたことがないであろう幼馴染が、そこそこ思い切り人様を殴って無傷なわけがなく。
日比野くんとの一騒動が終わった後、絢斗は「やっぱり痛い」と涙目で訴えだした。もちろん、日比野くんの頬を打った拳のことだ。
仕方なく部屋に上げ、手当てをしてやることにした。大家さんを呼んで鍵を開けてくれたのは一応絢斗の頑張りなので、そこは認めてあげるとしよう。
「あっ、そうだ! 奈々ちゃんも冷やした方がいいんじゃない? 手首とか……」
「こんなのすぐに治るよ。いいから自分の心配だけしてなって」
「でも、痕残ったら大変だよ!」
「残んないから」
「そんなの分かんないよ、ちゃんと冷やそう?」
やっぱり、しつこくて頑固な部分は健在なようだ。
ため息をついて、はいはい、とキッチンへUターンする。再び冷凍庫を開けたところで、「ハイは一回だよー!」と何とも幼稚な注意が飛んできた。
「はーい」
「はーい、じゃなくて、はいっ、だよ! 歯切れよく言うのが大事!」
何だこの小学生。ああいや、高校生だった。しかもあと一年で卒業する立派な青年。
あるイミ絶滅危惧種だな、とげんなりしつつ立ち上がる。絢斗は昔からふわふわぽわぽわしていたから、中身そのまま、体だけ大きくなったような感覚だ。
真向かいに座るのも何となく気まずくて、少しずれたところに腰を下ろす。
テレビで沈黙を誤魔化そうか、とリモコンに手を伸ばしかけた時、絢斗が口を開いた。
「……奈々ちゃん、あのさ」
「何?」
返事をしてもなかなか次の言葉がやってこないので、つと彼の方に視線を移す。
すると、絢斗は私と目が合うなり嬉しそうに頬を緩めた。
「へへ、やっとこっち見てくれた」
「は?」
「だって、奈々ちゃんずっと、全然僕の方見てくれないんだもん。やっとね、ちゃんと話せるなあって思って」
そういえば、再会してから絢斗は何度か「話したいことがある」と言っていた。ただのお喋りに付き合って欲しいというわけではなさそうだ。
「久しぶり、奈々ちゃん。ずっと会いたかったよ。会えて嬉しい」
一か月ほど前にも聞いたセリフを、彼がより真っ直ぐな心情を添えて伝えてくる。
いま改めてそう言うのは、私がもう絢斗を無闇に突き放すことはしないと確信を得ているからだろう。
「散々追い返されて嘘つかれて、それでも私に会えて嬉しいって言うの?」
絢斗は全然変わらないね。でも、私はきっと、随分変わったよ。絢斗が会いたいと言っている私は、“ななちゃん”は、もうどこにもいない。
残念だったね、と内心苦笑する。
「……確かに、ちょっと寂しかったかな。奈々ちゃん、いつの間にかすっごい綺麗になってて、かっこいい人と並んでても何にもおかしくないくらい大人っぽくて、僕のこともう忘れちゃったのかなって、一瞬不安になったよ」
いつの間にか、知らないうちに。絢斗もそう感じていたことに、少しだけ驚いた。
彼からの手紙を読んでいた時、次第に寂しいとか辛いとか、そういう感情の割合が増えていった。
絢斗はもう私のことなんて、そこまで重要じゃなくなったんだ。新しくできた友達と楽しく過ごして、私のことなんか忘れてしまったんだ。そう思っていたから。
――あんなに何年も手紙を寄越す彼が、私を忘れているわけがないのに。
「ねえ、奈々ちゃん。どうしていきなり返事してくれなくなったの?」
絢斗は決して私を責めてはいなかった。ただ純粋に寂しい、悲しい、そして気になる、といったところだろうか。
近くの引き出しを開ける。そこには溢れんばかりの封筒が入っていて、全て彼からのものだ。
上から適当に一掴み分の手紙を持ってテーブルの上にぶちまける。
「これって……僕の?」
小学四年生の冬から今に至るまで。そのうち五年分は未開封だ。だから私の中で、絢斗は永遠に小学六年生のまま。そして絢斗もまた、そこからの五年間の私を知らないだろう。
「とっといてくれてたんだね」
彼が噛み締めるように呟く。
頼まれたって捨てないよ。
そう言いたかったけれど、本当は、何度も捨てようとした。ゴミ箱に一度投げ入れたこともあった。その度に拾い上げて皴を伸ばして、涙が出て。
私は捨てられなかった。大切じゃないふりをして、代わる温もりを他に求めたとしても、絢斗だけは、どうしても代用品を見つけられなかった。
それを早々に悟ってしまったから、全部引き出しに閉じ込めて見ないことにしたのだ。
毎月一度、引き出しを開ける度にちりついた胸の痛みが、その証拠だ。
「……絢斗は昔から、みんなに好かれてたよね」
気を抜くと拗ねたような口調になってしまう。でも彼には簡単に嘘を見破られてしまうのだから、もう隠したって無駄なのかもしれない。
『奈々ちゃんを、僕がひとりじめしたかったから』
違うよ。ひとりじめしたかったのは私だ。みんなの人気者だった絢斗をひとりじめできるのが、私の特権だったんだ。
走っても転んでも私の後ろをついてきて、ななちゃんって笑う。鈍くさくてしつこい絢斗は、私しか知らなかった。
それが、幼馴染の特権だったのに。
『今日は運動会でした。徒競走で転んじゃってビリになったけど、みんなが励ましてくれました』
『こないだの修学旅行で肝試しをした時、泣いてしまいました。怖くて我慢できなかった。友達に笑われました』
『卒業アルバムのクラスページに、ドジな人といえば僕、と書いてあってちょっと悲しい。気を付けてるつもりなんだけどな』
新しい学校でも、絢斗は人気者になってしまった。容量が良くて穏やかでいい子、ではない。ドジで間抜けで情けないけれど憎めないやつ、といった感じで。
それは私しか知らない絢斗だったのに。私がそばにいるから、絢斗は大きなドジもしないで済んでいて、「いい子」だったのだ。
失敗しても泣いても情けなくてもみんなに受け入れられてしまう絢斗なんて、私がそばにいなくても大丈夫だと毎度証明されているようだった。
私から絢斗を取らないで。私だけの絢斗を、みんなのものにしないで。
そんなの、無理な話だって分かっている。叶わないから私はもう絢斗を諦めたかった。
「手紙の内容、いっつも自慢ばっか。自分はこんなにみんなに愛されてるって、当てつけみたいに書いてこられてさ。読むのだるかったんだよね」
息を吐くように嘘が出てくる。
読むのがだるいだなんて、よく言えたものだ。毎日郵便受けを確認して、届いたらすぐに封を切って、隅から隅まで読んでいたくせに。どんなに読むのが辛くても、結局最後まで読んでしまっていたくせに。
「あんただって、途中からめんどくさくなってたんでしょ? やめるにやめられなくて、送ってきてたんでしょ? だから適当に近況報告しか寄越さなかったんだ」
「違う、違うよ……」
「じゃあ何で私の質問には一回も答えてくれなかったのよ!?」
抑えきれずに爆発してしまった。最後の問いかけは嘘でも冗談でもなく、本気で本音だ。
お腹の底から怒鳴ってしまい、私の声量に絢斗が体をびくつかせる。
「会いたいって言ったのに、いつ会える? って聞いたのに、はぐらかされた。住所も教えてくれなかった」
彼からの手紙には彼自身の郵便番号も住所も記載がなく、ただ彼の名前だけが記載されていた。
会いに行くこともできず、ただ悶々と月に一度の手紙を待つだけだった日々。その時は深く考える余裕がなかったけれど、今ならよく分かる。
絢斗は私に会いたいだなんて思っていなかった。むしろ逆だ。
会いたくないから、頑なに情報を渡さなかった。手紙を送ることで私を満足させていたのだ。
「それなのに、今更勝手に帰ってきて『会いたかった』なんて、ふざけないでよ……その言葉は、何年も前に私が欲しかったの!」
一昨日来やがれ、と思う。本当に、一昨日でも、何年前でも、あの時の私にその言葉を言ってやって欲しかった。
まだ素直に絢斗の言葉を受け止められる自分で、それを聞きたかった。当時の私が喉から手が出るほど欲しかった言葉なのに、今は悲しさが付随していて虚しいだけだ。
怒りなのか悲しみなのか、はたまた憎さなのか。自分の中で一番ウェイトを占めている感情がどれなのかすら、綺麗に説明できやしない。
「会いたかったとか、そんなの……そんなのね、私の方がずっと思ってたんだよ」
何で会えないのって怒鳴るのも、もう何年も会ってないねって涙を流すのも、多分、行きつく先はおんなじだ。
寂しいって、私は絢斗がいなくて寂しかったんだって。割り切れない気持ちを表すのに、そんな便利な単語がある。
「奈々ちゃん……ごめん、ごめんね」
保冷剤を握り締めて冷え切っていた手に、突然温もりが伝う。
縋るために握るのではなくて、包み込むように重ねられた手。いつも体温が高くて、深爪気味で、しっとりしている絢斗の手。
遅いよ。遅いんだよ。もっと早くこうして欲しかったのに。
「僕もずっと会いたかったんだ。本当だよ。……でもね、」
私の手の上に重なる絢斗の手が、少しだけ怯えている。
「会いに行けなかったんだ。行っちゃダメだって言われて……」
思わず彼の顔を見やった。絢斗は目を伏せていて、その表情には珍しく煮え切らない陰りが潜んでいる。
胸が、心臓がざわついていた。
「誰に?」
私の好奇心が猫を殺す。どこかで野良猫が死んでいるかもしれない。
「――沙織ちゃん」




