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勢いよく開いたドア。真っ先に顔を出したのは絢斗で、その後ろに大家さんがいる。
なるほど、大家さんに頼んで合鍵で開けてもらったわけだ。絢斗にしては賢明な判断である。
「どっ、どうしたの此花さん……!? その恰好、」
「お騒がせしてすみません。大丈夫です」
まあ、とでも聞こえてきそうな仕草で口元を押さえた大家さんに、努めて淡々と述べる。素早くワイシャツのボタンを留め直した。
「この人、彼氏なんです。びっくりしただけだったんですけど、その声をなんか勘違いされたみたいで。なので、本当に、大丈夫です」
私の上から退いて俯いていた日比野くんが、こちらを見やる。
何とか大家さんに退却してもらい、深く息を吐いた。
「奈々ちゃん!」
途端、絢斗が耐えかねたように私のそばに膝をつく。そのまま両肩を掴まれ、ひどく真っ直ぐな瞳に射抜かれた。
「何されたの!? ケガしてない? どっか痛いところない?」
「絢斗、痛い」
「どこ!?」
「絢斗の手、痛いから離して」
「あっ、ごめん!」
降参をするかのように両手を挙げ、それでも彼は心配そうに私をじっと見つめている。大丈夫だから、と投げやりに答えても、その視線は不満げだ。
本当は打ちつけた背中がじんじんとしているけれど、それ以上に色んな感情が渦巻いていて、体を気にしている場合ではなかった。
「奈々ちゃん、また嘘ついた」
「は?」
「手首赤いよ。目も。やっぱり酷いことされたんだ」
手首はまだしも、目が赤いのはさっき絢斗と言い合った時に泣いたからであって、あんたのせいなんだけど。
そう返そうとして息を呑んだ。絢斗がいつになく目尻をつり上げて、明らかに憤怒の表情を浮かべていたからだ。
「絢斗?」
私から視線を外したかと思えば、立ち上がって拳を握る。そしてあろうことか、日比野くんの胸倉を躊躇なく掴んだ。
「――しずかくん、ごめん。一発殴らないと気が済まない」
ごめん、とは一ミリも思っていないような低い声が合図だった。
日比野くんの右頬にその拳が入った瞬間、反射的に顔を逸らしてしまう。
重い音は、日比野くんがよろけて床になだれ込んだ拍子に鳴ったようだった。
「絢斗、……なに、して」
仁王立ちの背中に、恐る恐る口を開く。と、
「痛ったぁ~……」
へろへろと座り込み、今しがた日比野くんを打った自身の拳をもう片方の手でさすりながら、絢斗が情けなく嘆いた。
何だこいつ、という感想が浮かんでしまう。
「初めて殴ったけど、すっごい痛いね……しずかくん、大丈夫?」
自分で痛めつけておきながら心配するだなんて、サイコパスの所業だ。しかし絢斗は至って真面目に問うている。
「……何なの、お前」
日比野くんも戸惑っている。これだけ情緒不安定な絢斗は私ですら見たことがないので、若干恐ろしい。
「いや、その……奈々ちゃんのこと傷つけたのはムカつくけど、僕も、しずかくんに謝らなきゃいけないことがあって」
絢斗の手をさする音が、不格好に鳴り続いている。
「さっきの話聞いて思い出したんだ。……ううん、本当は、ずっと覚えてた。さすがに日比野くん? が、しずかくんだとは思わなかったけど……だって、すごいかっこよくなってたから」
まどろっこしいけれど、何の偽りもまじりけもない口調。
絢斗の方が私よりも先に「しずかくん」に気が付いていた。その種明かしを、これからするようだ。
「しずかくんが僕を助けてくれた時のこと、よく覚えてるよ。その後のことも……。あの時、しずかくんも一緒に行こうって、奈々ちゃんに言おうとしたんだ。でも言わなかった。奈々ちゃんが手を繋いでくれたのが嬉しくて、奈々ちゃんを、僕がひとりじめしたかったから」
さすっていた動きを止めて、絢斗がその手をきつく握りしめる。
『ななちゃん、あのね』
『なに?』
『……ううん、なんでもないよ』
絢斗はちゃんと、しずかくんを見ていたのだ。私と違い、彼のことを気にかけていた。
しずかくんを見向きもしなかった私と、分かっていた上で立ち止まらなかった絢斗。やっぱり、つくづく私たちは二人で完結してしまっているのだな、とあの日に思いを馳せながら目を伏せる。
「悪いのは僕なんだ。奈々ちゃんは僕がケガしてたから慌ててただけで、僕があの時ちゃんと言えば良かった。しずかくんの手を引っ張って、連れてっちゃえば良かった」
「……別に、俺は手繋ぎたかったわけじゃないけど」
気の抜けたような、乾いた笑いが、日比野くんの唇から漏れた。それにつられるようにして、絢斗が困り顔のまま少しだけ笑う。
「お前が――絢斗が、そこまでちゃんと覚えてるとは思ってなかった」
「忘れないよ。僕、記憶力はいい方だから」
再び顔の筋肉を引き締めた絢斗に、日比野くんは「いい」と緩く首を振る。
「謝んな。俺も殴られたし、全部チャラだよ。……覚えてたんなら、それでもういい」
そこまで聞いて、絢斗が安堵した様子で小さく息を吐いた。と思いきや、あ、と声を上げる。
「でも、……き、キスはないと思うよ! あんな僕の目の前でする必要ないじゃん!」
「それより際どいもん見といて何言ってんの?」
顔を赤らめて主張する絢斗に、純粋な呆れを伴った日比野くんの問いが投げかけられた。
そこに関しては私も同感だ。私の下着を見ても一切恥ずかしがったり照れたりしなかったのに、なぜキスでそうなる。
「だ、だって、前のはフリだって分かってたし……でもさっきのキス、は、ほんとにいきなりで……しずかくんが、奈々ちゃんのこと好きだからしたのかなって、思ったから」
「はあ?」
お腹の底から出したような声で、日比野くんが顔をしかめる。
「まじで何なのお前。どこまでいっても“ななちゃん”かよ」
やってらんないわ、と肩をすくめた彼はゆっくり立ち上がった。つと私に視線を寄越し、ふてくされたように呟く。
「俺、帰るけど」
「あ、うん、……えっと、ごめん」
「俺のこと、警察に突き出さなくていいの?」
警察という単語に頭が冴え返る。
確かに彼のしようとしていたことは、普通ならそれぐらいの重罪だ。しかし未遂に終わったし、ドアが開かなかったとしても、日比野くんは遂行せずに手を引いたのではないだろうか。
誰よりも傷つけられる痛みを知っている彼なら、きっとそうだ。
「まあ、セクシーな奈々ちゃんはこんなの日常茶飯事だから」
小首を傾げてみせれば、相手が苦笑する。
「悪かったよ」
彼の静かな瞳に激情はもういない。
ドアの外は晴れていて、日比野くんの背中はその光に紛れてやがて見えなくなった。




