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今の今まで、全く気付かなかった。
程よく清潔に切り揃えられた黒髪、華奢だけれどしっかり伸びた背、眼鏡を取っ払った冷たい瞳。いや、冷たく見えるのは、彼が私に向けた感情のせいだろうか。
日比野くんは――しずかくんは、あの頃と比べて随分変わった。
小学生の時は、両目が隠れるくらい長い前髪が野暮ったくて、しかも眼鏡をかけているから、彼の顔を、表情をしっかり見たことなんて一度もなかった。
何も喋らなくて静かだから、しずかくん、とみんな呼んでいて、彼を苗字で呼ぶ人は皆無だった。
いま再び出会った彼は私の中で生徒会長の「日比野くん」でしかなく、イコールで結びつけることは至難の業だったと言ってもいい。
「……ごめん、全然分からなくて。あんまり変わってたから……」
でも、と続ける。
「こんなことしなくても、言ってくれれば良かったのに……」
私がそう伝えた刹那、日比野くんが目を見開いた。
「は? 何、あんた、まさか忘れたなんて言わないだろうな」
「……何を、」
「ふざけんなよ!」
怒声と共に、拳が床に打ちつけられる。彼の怒りは固い音がした。
「小二の時だ。絢斗がいじめられるようになって、俺はしばらく標的から外れた。でもずっと見てるだけなのが胸糞悪くて、止めに入ったんだ」
思い出せ。思い出さなければ。しずかくんの記憶を。
絢斗がいじめられていたのは鮮明に覚えている。それがきっかけで絢斗といつも一緒にいるようになったから。
でも、しずかくんは? 思い出せない。絢斗としずかくんが一緒にいたことなんて、あっただろうか。
「絢斗がいじめられてたら、必ずあんたが割り込んでくる。だから、あいつらは絢斗じゃなくて俺に戻った。あの日だって、あんたがちゃんとやって来たんだ」
「あ……」
いたかもしれない。確かに、あれは校庭で絢斗がいじめられていた時だった。
トイレに行ってくるね、と言ったきり帰ってこない絢斗を探して、私は昼休みに校庭まで出て行った。
花壇の近くを通りかかった時、その声は聞こえたのだ。
『あ、あやとくんをいじめないで……!』
物陰からこっそり様子を窺うと、そこには絢斗を背に庇って、必死にいじめっ子に立ち向かっているしずかくんがいた。
『しずかがしゃべったー』
『いじめないでぇ、だって』
『なんでおまえが泣いてんだよ、かっこわる~』
絢斗もしずかくんも泣いていた。
私は咄嗟に駆け寄って、「何してるの」といじめている男子たちを威嚇した。
『げっ、あやとの姉ちゃんがきたー』
だから、私は姉ちゃんじゃないってば。そう訂正しようと口を開いたけれど、目に入ったもののせいで、実際に発したセリフは変わってしまった。
『あやちゃん、けがしてる! はやく先生にみてもらおう?』
転んだのか転ばされたのか。絢斗の膝からは血が出ていて痛々しかった。
すっかり地面に座り込んでしまっている絢斗の両腕を引っ張り、半ば強引に立ち上がらせる。
そのまま手を引いて走り出した私に、絢斗は泣きながら言った。
『ななちゃん、ひざ痛いから、ゆっくりあるいて』
『もー! また泣いてる! 泣かないの!』
『ななちゃん、あのね』
『なに?』
ちらりと後ろを振り返った絢斗が、迷ったようにまた私を見る。
『……ううん、なんでもないよ』
私たちはその後、保健室に行った。――じゃあ、あの後、しずかくんは?
思い出せないのではない。知らないのだ。
そもそも私は、私たちは、しずかくんを置いて立ち去ってしまったから。
「確かに止めに入ったよ。絢斗をいじめるなって、あいつらに言ったことは今でも間違ってないと思ってる。でもな」
目の前にいる日比野くんに、焦点が合った。
「あの時、俺には目もくれず絢斗だけを連れ去ったあんたを、それを許した絢斗を――お前ら二人を、俺はずっと許せなかった」
彼の瞳に揺れるのは、怒りだけではない。悲しみに似た嘆き。なぜ、どうして、と終わりの見えない暗闇に問い続ける無力感。
皮肉にも、その時初めて、日比野くんの中に「しずかくん」を見たような気がした。
「いじめてた奴らと大差ない。いや、むしろお前らの方がタチ悪い。無視して、見て見ぬふりして……俺を知ったのが一年前? ふざけんなよ。全部、全部なかったことにしやがって!」
「しずかく、」
「黙れよ! その名前で俺を呼ぶな! 久しぶりに会ったら相変わらず二人一緒、まじでふざけんなよ、お前らだけでお幸せに、とか許せるわけねえだろうが」
俺を見捨てて、忘れたくせに。
わなないた彼の唇が、そう告げた。
『許さないから。私を置いてって、一人にして、絶対許さないから!』
私が絢斗にぶつけた怒りと、全く同じ種類のもの。
手に取るように分かる。知っている。悲しいのに、それを怒りに変換しないと消化できなくて、その奥にある感情に蓋をしてしまう感覚。
そうさせてしまった私が、分かるよ、なんて、言えるわけがないけれど。
「お前らだけは、傷ついて、ずたずたに引き裂かれればいいんだ」
日比野くんが手を伸ばしてくる。その指先が震えていて、弱々しくて、でも抵抗しなかったのは、そのせいじゃない。
「お前ら、なんか……」
頬にぬるい雫が落ちてくる。下から真っ直ぐ見上げた彼の瞳に、確かな温度を見つける。
――ああ、しずかくん、そんなところにいたんだね。
十年経って、やっと君のことを思い出した。それは私のせいだ。私が悪い。
私はいつだって、絢斗のことばかりだった。後ろをついてくる絢斗。鈍くさい絢斗。でもみんなの人気者で、常に可愛がられていた絢斗。
周りからしたら、きっと呆れるくらい私は絢斗のことばっかりで、絢斗は私のことばっかりだった。ずっと一緒、二人ならなんにもこわくない。
だから、私も絢斗も、周りをおざなりにしてしまっていたのだと思う。
絢斗がいればそれで良かったから。絢斗のことが大切で、優先順位はもちろん絢斗が一番上だったから。絢斗にとって私も、恐らくそういう存在だったから。
一体、いくつの記憶を投げ捨ててしまったのだろう。悪気なく、けれども確実に見て見ぬふりをした無慈悲の数々。日比野くんのことだけじゃない。きっと、他にもたくさんあるはずだ。
大切にするということは、それと同時に、大切ではないものを忘れるということなのか。私は器用な人間じゃないから、絢斗のことしか大切にできなかった。
「日比野くん」
私の上に乗ったまま唇を噛み締めて項垂れる彼に、先ほどまでの勢いは見受けられない。もう忘れないように、見逃さないように、彼の顔をしっかりと見つめる。
日比野くんが私のワイシャツを、くしゃりと握った。
「だってあんたは、どこまでも絢斗のことだけだった……俺のことを覚えてないくせに、それでも俺を利用した、絢斗のために……」
そうだね、その通りだ。
どうにも抗えないのかもしれない。心の中にはまだ幼いままの私が住んでいて、絢斗を大切にしていた頃の自分が体育座りで絢斗の帰りを待っていて、今も多分、待ち続けている。
「……羨ましかったんだ」
思わず、といった具合に零れた彼の言葉。寂しさの色が浮かんでいる。
「あんたと絢斗みたいに、自分のことを誰よりも優先してくれる、絶対的な存在がいるってことが」
「日比野くん――」
刹那、外側からの開錠音が聞こえた。光が射しこむのと同時、既に解放されていた両腕で胸元を隠す。
「奈々ちゃん、大丈夫!?」




