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ぴ、と電子音が鳴った。冷蔵庫にマグネットで張り付いているタイマーを三分にセットして、スタートボタンを押す。
カウントダウンが始まった数字をしばらく眺めていたら、あっという間に三十秒経ってしまった。
お湯を注いだカップ麺。蓋の隙間から漏れ出る湯気を無感動に目で追って、消えゆくまでを見届ける。
――奈々は、俺のために死ねる?
ついさっき問われた言葉が、脳内をぐるぐると回っていた。
私にその質問を投げたのは、もう二度と会えない、会わない人だ。
『お前は、俺のこと、好きじゃない。俺を好きなんじゃなくて、支えが――寄り添える人間が、欲しかっただけ』
彼の言ったことは、きっと間違っていないと思う。好きだ、愛してる、と体を重ねながら何度も伝えたことはあったけれど、それで空っぽな気持ちが全て満たされるかといえば、決してそんなことはなかったのだ。
何だかもう、ずっとそんなことを繰り返している。
さっき別れを告げた彼が唯一、私の内側まで覗き込んでくれたような気がした。彼となら大丈夫かもしれないと思った。でも、結局駄目だ。
ぴぴぴ、と殺風景な部屋にタイマーの音が響き渡った。
「……うるさいよ」
自分で設定したのに、腹が立って泣けてくる。今日は朝から泣いてしかいない。
私はやっぱりまた一人だ、と実感したのは、大嫌いなクリスマスの夜だった。
***
目を覚ますと、部屋の中は既にほんのりと明るかった。カーテン越しに外の光が入ってきている。
起き上がろうとしたところで、肌寒さを感じてベットに潜り込んだ。三月とはいっても、さすがに下着だけでは耐え難い。
「んー、起きたの?」
もぞもぞと動いている私につられて目が覚めたらしい。隣で寝ていた相手が、あくび交じりに問うてきた。
そのまま伸びをした男が、さむ、とすぐに腕を引っ込める。上半身裸なのだから、それはそうだろう。
「私、シャワー浴びてくる」
「俺も一緒に入ろうかな」
「馬鹿じゃないの? 変態」
「つれないな~、昨日はあんなに愛し合ったのに」
男の言葉を無視して浴室へ向かう。シャワーのレバーを思い切り引いた。
勢い良く出てきた水を頭から被って、ぼんやりとしていた思考ごと冷やす。
昨日はあんなに愛し合ったのに、か。――笑えてくる。
どうせ好きでも何でもないくせに。欲の発散に都合のいい女、くらいにしか思ってないくせに。
でも、私だって同罪だ。
一人は寂しい。冷たい部屋にいると悲しくなる。そういう時、人の肌が何よりも温かく感じるのだ。
年頃の男の子は大体、誘えば乗ってきてくれる。欲に忠実だ。そして、私は温もりを得る。
別に誰にも迷惑をかけていない。利害の一致、ただそれだけ。
軽く体を洗い流してからリビングに戻れば、男は未だにベットの中だった。スマホを弄りながら視線だけこちらに寄越してくる。
「腹減んない? もう昼だって」
時計を見ると、時刻は確かに正午を回るところだ。しかし、起きてすぐということもあってか、あまり何かを食べたいとは思わなかった。
「そこにカップ麺あるから、食べたかったら適当にどうぞ」
「えー、奈々は?」
「私はいらない」
端的に言い捨て、ドライヤーを手に取る。
インスタントもレトルトも食べ飽きた。冷凍食品、コンビニ弁当、どれもこれも同じ味がする。私の味覚がおかしいのだろうか。
それでも、わざわざキッチンに立って料理をする気にはなれなかった。一体誰のためにそんな手間をかけて、時間もかけて作る必要があるのか、全く分からない。
「てかさー、ほんとに冷蔵庫空っぽなんだけど。普段何食べてんの」
この男にモラルというものは備わっていないらしい。人の家の冷蔵庫の中身を勝手に物色し、文句を垂れている。
昨晩、肌を重ねている間はどうということもなかったけれど、今この瞬間、自分の日常生活に入り込んでくる感覚がどうにも気持ち悪くて、顔をしかめた。
「どうでもいいじゃん。てか、なるべく早く帰ってよね」
もしかすると、母が帰ってくるかもしれない。こんなところを見られたら、三日間は機嫌が悪くなって私に当たってくるだろう。
自分だって男を連れ込んだり、男のところへ行って帰ってこなかったりするくせに、そのことを棚に上げるのは勘弁して欲しいものだ。
「はいはい分かったって。冷たいよなー、お前は。やることやったらサヨナラですか」
「そっちだって同じようなもんでしょ」
「あは、バレてる」
あは、じゃねえよ、気持ち悪い。
今日が土曜日じゃなきゃ良かったのに。平日だったら、学校に行くから、という理由であっさりと別れることができたはずだ。それくらいがちょうどいい。
今後は休日にずれ込まないように時間帯を考えよう、と反省した。
行為が終わった後のまどろむ空気とか、ピロートークとか、全部全部気持ち悪い。吐き気がする。
どうせそこに愛はないのだ。余韻に浸っているだけ。独りよがりの自己満足。
今もそうだ。一緒にシャワー浴びる? ご飯食べる? なんて、そんな恋人ごっこは虫唾が走って仕方がない。
だって、最後にはみんな簡単に私を置いていく。自分の欲を満たせればそれでいいという話だ。
結局、男はカップ麺を食べてからも一時間ほど居座った。この時間は面白いテレビ番組もやっていない、だの、寝すぎて一日の半分を損した気分だ、だの、文句ばかり言っていた。
いい加減に帰って欲しくて催促すると、ようやく靴を履いてくれたので、嬉々として玄関まで見送ってやる。
「じゃ、またな」
また、は絶対にないけれど、曖昧に濁して手を振った。
男がいなくなってから一分待って、玄関のドアを開ける。誰の姿も見当たらない。ほっとした。
初春の風は少し冷たいけれど、長い冬が終わったのだと思うと安心する。外に出て新鮮な空気を肺に取り込めば、むかむかしたものが落ち着いた。
簡素なアパートの二階。周りの景色を別段意味もなく見下ろす。
そろそろ中に入ろう、と思った矢先、すぐ近くの道路沿いに引っ越しのトラックが停まっているのを見つけた。
このアパートに新しい人がやってくるのだろうか。
しばらくそのトラックに視線を固定していると、業者は向かいの一軒家に荷物を運んでいく。恐らく家主であろう男性が出てきて、それに続いて出てきたのが、妻であろう女性。
――その女性を見た瞬間、まさか、と息を呑んだ。
見覚えがある。記憶に残っている顔と、大して変わっていない。
そして仲睦まじい夫婦の後ろから、決定的な人物が姿を現した。
私と同じくらいの――否、きっと同い年の少年。分かる。分かってしまう。
目を逸らしたい、逸らさなければ。焦りが充満していくばかりで、実際には全くよそ見なんてできなかった。
あまりにも見つめすぎていたからだろうか。ふとこちらに目を向けた彼が、元々大きい瞳を、更に大きく見開く。
――“ななちゃん”。
彼の口元は、確かにそう動いた。
瞬間、金縛りが解けたように踵を返す。中に入り、急いで鍵を閉め、そのまま玄関ドアに背をつけてずるずると座り込んだ。
「……うそ、」
まさか、本当に彼なのか。あり得ない。どうして今更、ここに帰ってきたんだ。
心臓が早鐘を打つ。息を上手く吸えない。視界が滲んでくる。
その時、静寂を破ってインターホンが鳴った。
「奈々ちゃん、いますか?」
後ろから突かれたような衝撃だ。胸が痛い。
ドア越しの声はすっかり低くなっていて、それでも音の震え方と、私の名前をなぞる柔らかい響きは、耳に馴染みのあるものだった。
「奈々ちゃん、僕です。暮町絢斗です」
知っている。きっと、わざわざ丁寧に自己紹介をされなくとも分かっていた。彼を見た瞬間に確信した。
改めて聞いてみると随分綺麗な名前だ。昔は漢字がよく分かっていなかったから、音の響きだけで彼らしい名前だと思っていた。
暮町絢斗。フルネームの漢字を知ったのは、彼がいなくなってから。手紙の文字で、だった。
「奈々ちゃん、いるんだよね?」
彼が切々と訴えかけてくる。
「開けてよ。話したいこと、いっぱいあるんだよ」
知らない。そんなの、あんたの勝手な都合だ。私はあんたと話すことなんて何もない。
だから、頼むから、もう私の名前を呼ばないで欲しい。
ドアノブを捻ろうとしているのか、かちゃかちゃと金属音がする。それが無理だと分かると、今度は直接ドアを叩いてきた。
「ねえ、奈々ちゃん! 開けてよ!」
苦しい。心臓をずっとノックされているみたいで、ひたすらに苦しい。
唇を噛んで沈黙を貫く。
相手はかなりしつこかったけれど、一切返事を寄越さない私に痺れを切らしたようだ。また来るね、と言い残し、騒音が止む。
「……何なのよ、ほんと……」
またな、とか、また来るね、とか。どいつもこいつも、今日は最悪だ。
――七年前、いなくなった幼馴染が、この町に帰ってきた。