旅を、始めよう
目覚めると、依然として雪が降っていた。
少女の形をした機械──ルリは、身体を起こして辺りを見回した。
彼女が眠っていたところは、無人の町にある、とうに破壊され、人など誰も住んでいないものの辛うじて雨風は凌げる程度の朽ちた家屋。その中でルリは身を縮こませて眠っていた。
寝起きの頭だからか、ぼうっと座り込んだままじっとする。起動後すぐは回路に情報を展開している最中なのか、思考がうまく働かない。
機械の身でも、睡眠は必要不可欠だ。人において睡眠を体力回復などだけでなく、記憶を整理することにも使うように、機械でも一定期間に外界から得た情報を整理して、必要であれば削除する必要もある。同じ容積において、機械の脳はヒトの脳ほど多くの情報を蓄積しておけない。人よりもはるかに発達した機械の知能であれど、複雑怪奇で膨大な情報を要する人の脳は未だ全解明には至っていない。何億年とかけて進化してきた生物の情報蓄積方法にはまだ勝てない所もあるのだ。さらに言うならば、蓄積された情報の検索、引き出し、それらの並行処理も、少なくともルリレベルの機械では人間にかなわない。また、人のように有機物等からエネルギーを取り込むために代謝するわけでもなく、機械は定期的に内蔵バッテリーに充電しておく必要もある。非常時に備えて、太陽光や有機物の燃焼など様々な方法でエネルギーを得る手段を持っているが、それらも安定して得られるとは限らない。必要でないときは静養しておくのがベストであろう。
ボケっとしていた彼女は、なぜ目覚めたのかを思い出した。
「近くに、人が」
赤外線や音波、僅かな地面の振動を感知して、目には見えない誰かの存在を感じ取る。暗殺が主目的で作られた以上、他の何者かの存在感知には他機種よりも幾分優れている。流石に敵の接近などを察知することが目的のレーダーのような機械たちには敵わないが、彼女にはこれで充分である。
体を起こすと同時に、両手が鈍く輝く金属装甲に覆われる。いや、その表現は正確ではなかった。両手が元の手よりもはるかに大きな金属の手に成り代わったのだ。表面を覆っていた合成樹脂は最奥に収められ、代わりに武器代わりの硬い金属腕がその位置に陣取る。金属の腕はただの大きな金属の手であるが、人を殺すには十分な力を秘めている。また、必要であれば多少の変形も可能だ。潰す、切る、突き刺すなど多様な用途に使い分けることができる、密かにルリ自慢の金属腕である。因みに射撃の機能もあるが、弾がないのでしばらく使われないままその機能は腐っている。
その腕を眺め、何回か握ったり開いたりして様子を確かめる。異音などもなく、関節はスムーズに駆動し、その握力も問題はなさそうだ。己の身体を点検すると、特に問題ないと判断して、ルリは家屋を出た。
降り積もった雪の上を、ルリは音もなく進む。雪は足跡が残るので、できるだけ痕跡を残さないように露出した地面を歩くようにする。足を覆っているのはただのブーツだが、少し工夫すれば音もなく歩くのは難しくない。未だ雪は降り続けているので、できるだけ屋根があるところを進むが、無理そうなら平気で雪の降る下を走っていく。
群青色の瞳に映る先には、目標の存在が視えている。この調子ならば時間はそうかからない。雪を避けようとして多少遠回りしているものの、あまり時間は変わらなさそうだ。
相手からはこちらの存在を認識されていないだろうが、念のため不意を突くように後ろ側に回って接近していく。見る影のなくなったボロボロの民家を越えると、彼らの姿が目視できる位置まで来た。
物陰に潜み、様子を窺う。
そこにいたのは、五人の若い男たち。銃器を手に持ち、警戒しながら何かを探しているようだ。大方食料とか、そういう類の生活に必要な物資であろう。そのような輩はよくこういう町中にやって来る。森などで食料を取ることはできなくもないが、今の時期のような寒い時に、ロクな食料は手に入らないだろう。それでも物資が必要な者たちは、廃れた町において物色していく。ただ、このような“人がいた”町は、いまだ殺戮を命じられたまま放逐されている機械どもが存在する可能性がある。
ルリのような。
男たちの装備を確認し終えたルリは、与えられた命令を果たそうと手を握りしめる。もう一度自分の体を点検、問題なし。
ザッ──!
抑え気味ではあるが、確かに雪を踏みしめる音が響く。しかし、微かに鳴ったその音は男たちの耳には届かず、届いたとしても認識する前に──。
ガッ──グシャリ。
悲鳴など上げる暇もない。殿を務めていた男の頭を迷いなく掴むと、一瞬で握りつぶした。
紅い華が咲いた。
肉が潰れ、骨が擦れひしゃげ、金属の腕と曲がった骨が奏でる歯の浮くような音に、悲鳴は聞こえずとも前方にいた男たちもその異常に気付く。一斉にこちらを振り向く。まるでプログラミングされたかのように同時に振り向く彼らの行動を見て、ルリは機械もヒトも大して変わらないな、なんて感想を場違いに抱く。
そんな彼らの視線の先にいたのはもちろん、頭の潰された仲間とその血に塗れたルリの姿。
状況を認識した男たちは一様に怯えのような感情を目に浮かべ、一瞬思考が停止する。けれど、その中でもある程度場慣れしていたのか、それとも順応が単に速かっただけか、一人が慌てた様子で手に持った銃器の口をこちらに向け、引き金を引いた。
しかし、それでも遅すぎた。
「じゃあね」
その時にはすでに、ルリは彼のすぐ目の前に立ち、その銃身を曲げて突き飛ばした。それでも発砲しようとした彼の行動は止まらず、銃身の中で銃弾が暴発し、彼の腕は吹き飛ぶ。胴体も焼け、彼は悲鳴を上げた。それですでに戦闘不能になったとみるや、ルリは流れるように次のターゲットに向かう。
その時にはほかの者たちも流石に現状を呑み込んで、先ほどの男よりはある程度落ち着いた様子で、けれども少し震えながら、銃器を構えていた。
「残り、三人」
たった三人。けれども、銃器を持った三人は脅威になり得る。男たちの持つ前時代的な銃程度の威力では、ルリの身体は傷つかないだろう。しかし、着ている服や表面を覆う樹脂は傷つく。機械を蝕む雪の中でそれは致命的だ。今は大丈夫でも確実に寿命は縮まる。
「まあ、問題ないけど」
ルリの視界に映る三つの銃口。その方向と、彼らの手の震えから、弾道を算出する。彼らが引き金を引いた瞬間に体を伏せ、地面すれすれを走っていく。銃弾は彼女のすぐ上を通過していき、発砲音が彼女の耳に届く前に、一番手近な男の腹に手を当て、突き破った。筋肉を破り、腹に収められていた小腸などの内臓が飛散してびちゃびちゃと地面に落ち、背骨が折れる音が響く。
未だ連続的に鳴り響く銃声のなか、腹に腕を貫通させたままその死体を振り回し、銃弾を受け止める。男に銃弾が当たっているとみるや、残った二人の男はすぐに発砲を止めた。もうすでに死んでいるから、今更止めても意味なんてないのに。
落ち着いてきたら腹から腕を引き抜き、その死骸を男たちの方へ放る。その内部から折れた背骨の一部を引きずり出しながら。投げられた死体を男たちは反射的に躱すと、片方の男はついに恐怖に耐え切れなくなったのか、踵を返してルリから逃げ出し始めた。それも予想通りである。むしろ逃げ出さなかった男に対して驚いた。
ルリは落ち着いて、手に握った、先ほどの男から引きずり出した背骨の一部を振り上げると、逃げた男に対して投げた。
骨を容易に握りつぶし、大の男を平気で片手で振り回すほどの腕力。それで思いきり為された折れた背骨の投擲は、男の身体をたやすく貫通し、その命を驚くほどあっさりと奪った。
そして最後。すでに戦意を喪失し、銃を構えることも忘れて呆然としている男が一人。しかし、それでもルリは油断しない。追い詰められた人間がこちらの予想を超えてくることはよくある。一瞬で距離を詰めると、男の頭を正面から掴み、そのまま握りつぶした。
ガッ──グシャリ。
この殺戮劇の初めにも聞いた、骨が擦れ、肉が潰れる音が響く。確実に死んだことを確認すると、死骸を適当に放り、帰り道を辿ろうとする。
「ア……ァガ……」
そんなルリの背中にうめき声が聞こえた。振り返ると、最初に発砲しようとして身体を焼いた男だった。地面に転がり、苦悶の声を上げている。
「あ、忘れてた」
それをみても、動揺などすることもなくルリは男の近くへ寄る。彼の頭を上からのぞき込むと、男も痛みの中で彼女に気付き、歯を食いしばって視線を合わせた。
最後の抵抗、とでもいうのだろうか。
ルリにはそんなのは関係ない。すでに血に塗れた腕を振り上げ、
「……なんで、お前らは、こんなことを、するんだ……?」
その瞳に憎悪を燃やしながら、何もできない己を恨みながら。そんな男の情動にも全く興味を示さず、淡々と拳を振り下ろすと、ルリは彼の頭を粉砕した。
「こんなことをする理由……こんなこと?うーん……?」
ただ、少しだけその質問の答えを考えてみた。しかし、結局そんなことはルリにとってどうでもいいことだ。すぐに忘れて、ルリは帰路を辿ろうとする。とはいえ、すぐに帰るわけでもない。まずは体のそこらについた雪を払い落とした。帰りは急ぐ必要もない。検出した微生物を確実に滅していく。これを怠ると、命の危険にさらされるのはルリの方なのだ。本来命などという概念は機械の身にはないが、少なくともルリ本人は、この命を守る行為というのは三原則に従った当然の結果であろうと判断している。
近くの屋根の下でしばらくじっとする。
「そういえば、なんで戻らないといけないんだっけ?」
そもそも家などないルリは、わざわざ拠点に戻る必要などないはずだ。ならばなぜ戻ろうとしていたのか──。
『また、こんなところで、何してるんだい?』
甲高い電子音が聞こえてきた。けれども、その音は確かな意味を持ってルリの耳に届く。
「あ、クロ」
そういえば、とはたと思い出す。
『まあ、あの惨状見たら、言わなくても何していたかくらいわかるけどさ』
あの惨状とは、言わずもがな、先ほどルリが蹂躙した男たちのことだろう。
「戻る理由、なくなったな」
『?』
ルリが目覚めた時、クロは近くにいなかった。その後人の存在を感知してルリはすぐさま出ていったが、そのことを当然クロは知らない。クロと合流するために帰ろうとしていたのだという事を今更ながらに思い出した。そんな当たり前のことを忘れていた自分に、ルリは僅かにため息をつく。
「クロはどこに行ってたの?」
自分のことは棚に上げて、クロの行動についてルリは尋ねる。
『うん?ワタシ?特に理由は無いね。気ままに、それこそ猫みたいに散歩していただけだよ。でも、まあそのおかげで……』
いつも言いたいことはストレートに放つクロが、珍しく口ごもった。
「どうしたの?」
『いや、ねえ……?』
煮え切らない様子でクロは無表情のまま声に感情を乗せる。続きを放す代わりに、その猫は尻尾を適当に向けて、その方向を見るようにルリに促した。そのとても機械とは思えないしなやかな黒い尻尾の先を見ると、
「あれ?」
反射的に未だ展開したままだった鋼の拳を握りしめる。特に思考していたわけでもないが、踏み込んでそれとの距離を詰めた。
そこにいたのは、年端もいかぬ、齢4、5歳くらいであろうか、幼い女の子だった。そんな存在に対してもルリは無慈悲に手を突き出す。女の子に抵抗の様子など微塵もなく、ルリはその頭を掴み、一気に握りつぶそうとして、
『ルリ!』
一際鋭いクロの声が響いた。表情の動かない猫型の愛玩機械は、己の命を忠実に全うしようとする戦闘機械に対して、咎めるような声色でその行動を止めさせた。
「クロ、何で止めるの?」
気を悪くするでもなく、本当にただ不思議そうに首を傾げ、ルリは猫に対し訊き返す。その間も彼女の右手は女の子の頭を掴んでいる。
『君は何でそんなに何でもかんでも殺そうとしちゃうんだい?』
対して、こちらの声色は非難めいている。
「そりゃあ、それが私の存在意義だもの。私はそのように造られた。私の最後に与えられた命令はただそれだけ、だよね?それに何でもかんでもじゃないよ。対象となる人間だけ。これもその対象じゃないの?」
女の子は自分の危機に微塵も気付いていないのか、無邪気にルリの腕をペタペタと触っている。
『別にその子を特別視するわけじゃないけどさ、そんな小さい子を、何も殺さなくてもいいんじゃない?』
言葉とは裏腹に、幼い女の子に対する感情が垣間見える。人に愛されるために造られたその猫は、特に幼い子供に対して甘い。
「うーん、まあ、クロが嫌なら今すぐは殺さないけど」
『じゃあ、やめてくれ』
「わかった」
クロの言葉に、思いのほか素直にルリは手を放す。そんな彼女の様子が意外で、クロは思わず言わなくてもいい言葉をかける。
『……いいのかい?君にとっての命は絶対なんだろう?』
ルリはクロの方を振り向くと、
「んー?あー、いいんじゃない?別になんでも。……ところで、私って何の命令受けてたっけ?」
ルリの言葉にクロの眼が僅かに見開く。表情の駆動機が乏しい猫の顔は、たったそれだけの動きの中に、猫の大きな驚きを表していた。ルリはそんな猫のことなどいざ知らず、そういえば、なんで殺そうとしてたんだっけなー、なんて呟きながら女の子の方に向き直ると、しゃがんで目を合わせた。女の子は無邪気な黒い目でルリの群青色の瞳を見つめ返す。髪は明るい金色をしており、物珍しそうにルリはその姿を観察する。
すると、
「おかあ、さん?」
女の子が口を開いた。
「いや、違うけど?」
ルリはその言葉をすぐさま真っ向から否定する。それを聞いて女の子は泣きそうな顔をする。そんな彼女らの様子を見かねたのか、クロが足元に寄り添ってきた。愛玩用に造られた猫の身体は動物のように体温があり、触り心地も柔らかくて気持ちがいい。今にも泣き出しそうだった女の子にすり寄ると、すぐさま笑顔になり、猫の方に手を伸ばした。
ニャー。
クロが猫らしい発声をする。クロの発声器官は人語こそ介さないが、猫らしくあるために、猫の鳴き声の真似事くらいならすることができる。
「にゃんにゃんだー!にゃーにゃー!つーかまーえたー!」
女の子は年相応に、もしかしたらそれより幼いくらいの様子で、猫を抱いてはしゃぐ。クロもそれに鳴き声で応えながら、合間合間に電子音を織り交ぜ、ルリに語り掛けてくる。
『この子、ワタシを追いかけてきたから、ワタシが連れてきてしまったみたいなもんだけど、どうする?流石にほっぽっておくのは……』
青い瞳よりもその声色がその猫の感情を如実に表していた。だから、
「とりあえず、一緒に来る?」
無計画に、ルリはそう口にした。
* * *
「はぁ、はぁ……」
荒い息がルリの耳に届いてくる。
『大丈夫かな?』
クロの気遣うような電子音に、ルリは振り返って彼女の様子を窺う。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫ー……」
ルリの声に、女の子は弱々しく笑って答える。
「大丈夫だってさ。じゃ、いこっか」
その答えに満足したルリは、構わず足を進めようとする。
『いやいやいやいや!ちょっと待ってよ、ルリ!どう見ても大丈夫じゃないでしょ!』
そんなルリを見て、クロが慌てた様子で彼女を止めた。
「ん?どうしたの、クロ?」
悪気は全くない様子で不思議そうに首をかしげなら、ルリは相棒の猫に尋ねた。
『どうしたのじゃないでしょ!あんだけ息切れして足もフラフラで今にも倒れそうだってのに、何をどう見たらアレを大丈夫だって言うんだい!?それでなくともルリの歩幅との差を考えてよ!どう見てもルリ速いよ!』
機関銃のようにまくしたてるクロの声は、もはやモスキート音にしか聞こえない。けれども、ルリはそれをしっかりと聞き取り、
「でも本人が大丈夫って言ってるし、大丈夫じゃないの?」
『どう見ても強がってるだけだよ!』
とぼけた様子のルリの答えに対し、クロは怒ったように返す。見ると、その尻尾もピンと伸びており、体全体で怒りを表現していた。心なしか、変化のあまり見られないその顔も、なんだか非難するようにルリを睨んでいるように見える。
「えー、それ本当?うーん、なら、なんで強がる必要があるの?」
『それは……えっと……なんでだろうね?』
改めて考えてみると、クロにもよくわからなかった。
思わず口ごもってしまったクロの様子を見て、ルリは勝ち誇ったように胸を張った。ついでに己の勝利を誇示するために、ガッツポーズをとることも忘れない。
「ほら、私の言った通り。意味もなく強がることなんてないんだから、言葉通りに大丈夫なんだよ」
『た、確かに……って、そんなわけないでしょ!』
思わずクロも納得しかけてしまったが、女の子の様子を見て、大丈夫なわけがないというまともな思考がなんとか働いたようだ。
「そんなわけがないって、どうしてそんなことがクロにわかるのさ」
なおも不満げにルリは尋ねる。
『どうもこうもなんでもかんでもないよ!見たらわかる!普通わかる!機械でもわかる!今どきのロボットならなおさら!』
論理もすべて放棄した様子でクロが甲高い電子音でそう言い捨てると、ルリの足元を離れ、女の子の傍へ寄った。ルリがクロと話しているうちに、その距離は随分縮まっていたが、それでもクロは女の子の目の前に立つと、応援するように鳴きながらゆっくりと歩き出した。
それを薄目で眺めながら、ルリはここに至る過程をいま一度思い出していた。
「とりあえず、一緒に来る?」
そんなことを言ったルリに対し、女の子はこくんと頷くと、クロの身体を抱きながらこちらに寄り、ルリの大きな金属腕を握った。それをルリは肯定の意と捉える。
「よし、それじゃ行こうか」
『本当にいいの?』
すぐさま出ようとしたルリに、最期の念押しとでもいうようにクロの声がかかった。
「まあ、いいんじゃない?」
ルリは軽くそう答えると、さっさと歩きだした。それに伴い、その手を握っていた女の子が引きずられかけ、手が離れる。しかし、それにも気が付かず、ルリは未だ降りしきる雪の中に入りかけ、
『ルリ、ストップ!』
一際大きく、警告めいた音がルリの耳に届いた。ほぼ条件反射でルリは足を止め、振り返る。
「んー?まだ、なんかあったっけ?」
とぼけた表情でルリは、声を張り上げた主たる小さな機械を見る。少女の群青色の目と猫の蛍光青色の目が合う。
『雪』
そう一言だけ、クロが放つと、ルリも思い出したように納得して、
「うっかりうっかり、忘れてた」
そう言って数歩、屋根の下に戻った。同時に露出したままだった金属腕も収納する。
『しっかりしてよ。うっかりじゃすまされないんだからさ」
もちろん、雪に触れたからと言ってすぐさま機能を停止するわけではない。とはいえ、確実に寿命が縮むのは確かだ。特に金属部を露出したままでうっかり出かけてしまったなら、無駄な損失を被ることは間違いない。避けられるリスクは避けるべきだ。
「まあ、いいじゃん?そのためにクロがいるんだしさ」
『まあ、確かにそうだけどさ……なんかついこの間、似たようなやり取りしたね』
表情の乏しいわりに、照れくさそうな様子で猫は返した。
「こんなやりとりしたっけ?」
『……さあ、やった気がしない?』
「まったく覚えがないなぁ」
『……気のせいかもしれないけどね』
「そうだといいね」
そんなやり取りをいくばくかおこなっていると、
「ねぇねぇ、これ、なにー?」
女の子が話に割り込んできた。クロの尻尾が声に反応してゆらりと揺れる。
「うん?これってどれ?」
女の子の指す「これ」が何のことかわからず、ルリは訊き返す。
「これだよこれ!」
そう言って女の子は手の平を差し出してくる。その手の上には、青色の、もっと言うなら群青色の螺子があった。
「なんか、おねーちゃんの手から落ちたよ?」
その色と形から察するに、それは間違いなくルリの体の一部だった。
『おやおや、ちゃんと点検はしなよ?』
クロが鳴き声に乗せて、からかうようにそんな言葉を放つ。
『とりあえず答えなよ』
さらにルリに返答を催促する。
「えっと、それはだねー……」
それは間違いなく、ルリの部品ではあるものの、さして重要なものでもない。別に他人が持っていても問題はないのだが、部品というのは普通他人の手にあるものではない。人に例えるならば少し怖い話になるが、自分の指やらなんやらがうっかりとれてしまい、それを他人にしげしげとみられているようなものだ。機械の身としては、それは怖いというよりも別の感情を起こさせる。
つまりは恥ずかしいのだ。
「それは……なんていうか……あのだね……」
説明しようにもうまく言葉が出ず、口ごもっていると、
「ね、これ、もらっていい?」
女の子はそんなことを言った。
「え!?あ、え!?あー……」
貞操観念の違いからか、そんなことを言うとは思いもよらなかったルリは、ガラにもなく驚いた声を上げる。
『いいんじゃない?重要なものでもないんでしょ?』
それに追い打ちをかけるように愛玩機械がニャーと鳴く。思わず顔を覆いたくなるが、何とかそれを我慢すると、
「ま、まあ、いいよ、あげる……」
それだけ絞り出した。
「やったー!もーらいっ!きれいだねー」
ルリの心中など露知らず、無邪気に女の子は歓声を上げて喜ぶ。そんな彼女は単に知らないだけで罪はないので、あの猫にはあとで徹底的に制裁を与えてやるとルリは心の中で誓う。だが、今は睨むだけで赦してやる。
『おお、怖い怖い』
クロは笑いながらもからかってくる。猫を模したその体は、笑っていてもヒトのように声を上げるでもなく、ただ耳障りにルリの耳に電子音を飛ばしてくれるだけだ。ルリが歯ぎしりをして、いい加減やめさせるために手を伸ばし、その小さな体躯を捕まえる寸前、
「あ!」
女の子が大きな声を上げた。
クロと同時に振り返る。
「どうしたの?」
『どうしたんだい?』
女の子には一匹の声は聞こえていないだろうが、二人は同じことを尋ねる。
「なまえ!」
「名前?」
『名前かぁ』
ルリはなおも首をかしげるが、クロは得心したようにうなずいていた。そんなクロに目を遣り、目で問いかける。それを猫は華麗に無視し、女の子の方に寄ると、
「そうだなぁ、にゃんにゃんの名前はなんにしようかなー」
そう言って猫の頭を撫でる手になすがままにされる。
未だわかっていないのはルリだけなので、なんとなく疎外感を覚えながらも、女の子の様子を窺う。そんなルリに気が付くと、女の子はハッとしたように猫から手を放し、ルリの方に向き直った。
「っと、そうだった!あのね!シナツのなまえはシナツっていうんだよ!」
少したどたどしくも立派に自己紹介した女の子に対し、
「しなつのなまえはしなつっていう……しなつのなまえは……」
ルリはいくらかそれを口の中で繰り返し、
「ああ、なるほど、シナツって名前なのね」
ようやく理解した。そんな彼女を、いつの間にかその場から離れた猫型の愛玩機械が得意げに見ているのが少々気に食わないが、理解が遅かったのは確かなので、何とか文句を呑み込む。
そんなルリの目の前で、シナツは何かを待っているようにこちらを見ている。けれども、ルリはそんなことには気づかず、ただこちらを見る目に視線を合わせる。何がしたいのかよくわからなかったが、単に目を合わせたいだけの時もあるだろうとじっとする。
数秒も経ってくると、シナツの様子も少し変化してきた。なんだか顔が赤くなって、目つきも若干険しくなって睨んできているような気がする。そんな中でもボケっとしているルリの様子を遠目にしながらも、流石にその状況を見かねた、ルリよりは感情の機微に敏感な愛玩機械。
『ルリ……女の子、シナツはルリの名前を知りたがっているんだよ……』
呆れたような声を聞き、なるほどとうなずく。
「あー、私の名前はルリ、だよ。それであの猫の名前はクロ」
簡潔に己の名前を告げる。しかしながら、そんな飾り気のない自己紹介でもシナツは満足したようだ。今度は自身の顔の前に手を差し出してきた。ルリからするとせいぜい腰程度の高さだ。
『いわゆる握手だよ。絶対に強く握らないこと!絶対だからね!』
二の舞を避けるために先回りしてクロが伝えてくる。
「……流石にわかってるわかってる」
小声で返しつつ、その小さな手を握ると、ルリよりもはるかに弱い力で握り返されてきた。ちゃんと握手ができたシナツは満面に笑みを浮かべていた。
雪も止んできており、そろそろ出発にはいい頃合いだ。人類が雪を降らして以来、降雪は頻繁に起こる。止んだ隙に少しでも移動しなければならない。
「さ、行こうか。特に目的なんてないんだけどね」
淡々とルリが言い、歩き出すと、今度は二人とも歩き出した。
「れっつごー!」
『……目的なんてなく出発するのもいいね、ほんとに』
* * *
そうして意気揚々と出発したのがいつだったか。
幼いシナツの限界はすぐにやって来た。クロにとってはわかりきっていたことではあったのだが、ルリにはそれがどうにもよくわからなかった。
「はぁはぁ……やーっとおいついたー!」
クロと一緒にルリの傍までくると、元気よくシナツが腕を振り上げるが、それを見届けるや否や、ルリは再びさっさと歩き出す。とはいえ、先ほどからのシナツの様子で流石にある程度学んだので、先ほどよりゆっくりと歩き始めた。金属部は樹脂で覆われ、ところどころの部品は合成樹脂ででき、筋肉の代わりにモーターとワイヤーとシリンダーで動かす機械の脚は、人間と違って疲労を訴えない。内蔵したセンサーで内部異常を探ることはできるものの、歩けなくなる時というのは駆動機が破損して物理的に動けなくなった時だ。
そんな身体しか知らないルリにとって、足は無事なのに歩けないというのはどういう感覚かよくわからない。その苦しみを共有できない。それはクロも同じだが、愛玩という製造目的である以上、ヒトの感情については猫の方がはるかに詳しい。
「はぁ……はぁ……ぁ」
どさりと音がした。
『ルリ!待って!シナツが!』
同時にクロの焦ったような声が聞こえてきた。
振り返ると、予想通りシナツが倒れていた。
「あー、限界だったんだ」
『そんな呑気に納得してる場合じゃないよ!ヒトは寒さとかに弱いんだからさ!」
別に機械と比べてヒトの身体が弱いとかそういうわけではない。むしろ自己治癒能力があるため、死ににくさ、つまり完全な機能停止に至るまでは、ヒトの方がその能力は上であろう。しかし、壊れにくさ、つまりダメージの受けにくさであり、それによる影響を抑えるという面においては、機械の方が勝っている。機械は己の身体をよく知っている。その構造と異常の検知がよくできる。感覚ではなく数理的な処理とその過程を認知している。そのため、異常への対処がすぐに行えるからだ。例えば、必要な熱量が足りていなければエネルギーをさらに燃やして、必要レベルまで引き上げることもできる。
とりあえずシナツの傍まで駆け寄る。
「大丈夫?」
ルリは相変わらず呑気そうな声色でそんなことを訊いたが、答えはなかった。
『おいおい、どうする!死んじゃった!?出発して間もなくで!?それは流石にないよ!』
クロが周囲で激しく騒ぐ。それをルリは脇目に無視する。
「シナツが死んだら、悲しい?」
ふと尋ねてみる。
『今はそんなこと……いや、でも、うん、いや、騒いでもしょうがないか。うーん、そうだなぁ……』
慌てていた愛玩機械は、人型機械の質問を聞くと、状況をしっかりと呑み込んで落ち着き始めた。なんだかんだ機械である。状況把握と情報処理は得意な方だ。
『悲しむ、かな』
「ふーん、まあ、クロは随分シナツに肩入れしていたからね」
そう言って、ルリはシナツを背負った。
「何はともあれ、別に死んだわけじゃないよ。四肢の体温低下や筋肉疲労とか激しいけど、それだけ。力尽きて倒れたそのままに、疲労で眠ったんだろうね。それだけだよ。流石にそのまま放置していたら危ないだろうけど」
ルリのセンサーは皮膚表面に密集している。これにより雪に含まれている微生物なども検知できる。これを利用すれば人一人の身体状況を把握することくらい何のことはない。
ルリの報告を聞き、表情の乏しい猫は体全体で安堵の意を示す。
『よかった……ワタシが自分で調べることができればいいんだけどね』
「まあ、それはしょうがない。クロがクロであるためにその機能を失くしたわけだし」
『それは重々承知だけども』
クロは愛玩機械であるが、それはヒトとの共存を目的とした機械というわけで、その目的の中には家庭における医療目的も一部含まれている。よって、元々はルリと同等、もしくはそれ以上の人体把握能力を持っていたのだが、それは今ではとある機能のために失ってしまっている。
ルリはシナツを背負ったまま再び歩き始める。
「最初からこうすればよかった」
初めから背負っていれば、シナツが倒れることもなかっただろう。
『まあ、それは今更な話さ。そうだ、これからの話をしようよ』
「これからの話?」
クロはシナツの無事を確認して落ち着くと、すっかり元の調子に戻り、唐突に話を振り始める。
『そう、これからの話。いい感じにシナツも眠ったことだし、ちょっと話したいことがあったんだよ』
「なにやら意味深な感じだね」
『まあ、そう身構えなくても、気楽に聞いてくれて構わないんだけども……』
そんな前置きをして、
『ルリ、この旅の目的ってなんだっけ?』
そう尋ねた。
ルリは少し考えこむ。
「うーん、何か、やるべきことがあったはずなんだけどねー。それが何だったか、実は忘れちゃったんだよね」
ルリの言葉に、ほんの少し猫の表情が動く。
『少なくとも今は目的はないってことでいいよね?』
念を押すようにクロは問いかける。
「ないけど……クロは私の旅の目的知ってる?まあ、知ってるとは思うけど、何だったか覚えてる?」
『いやいや、知らないね!覚えてないよ、ワタシも!』
慌てたようにルリの言葉を否定し、
『ただね、これからの目的には心当たりがあってだね……』
「お、何やら考えがある様子。聞こうか」
背中からのシナツの寝息を聞きながら、ルリはクロの言う事に耳を傾ける。
『ルリって、人間の感覚についてほとんど知らないでしょ』
「まあ、そうだね」
『今シナツに必要なのは、自分と同レベルで歩ける仲間なんだよ』
「やけに自信満々だね」
堂々と言い放つクロに、少し感心したようにルリは相槌を打つ。
『そもそもヒトってやつは集団で生きる生物なんだから、同種の仲間とともに暮らすのが一番の幸せってもんよ』
「して、その心は?」
そう尋ねた瞬間に、クロが立ち止まった。少し遅れてルリも止まり、進んだ分だけ数歩後退し、クロの隣に並ぶ。
『ヒトの、集落を探そうよ』
「ヒトの?」
『そう、シナツが安心して育つことのできる、ヒトが集まっている場所に行こう』
クロの話を聞き、ルリはしばし思案する。
クロの言う事ももっともである。シナツはこのままでは生きていけないし、最悪ルリ自身がその原因になりかねない。目的もなくふらふらと移動するだけならば、いっそのこと人間のいるところにシナツを預けるか何かした方が絶対によいだろう。
ただ、いいことばかりではない。人間にとって、機械とは紛うことなき敵なのだ。憎むべき相手なのだ。どこに行ったとしても、そこにいる人の身近な人間が機械によって殺されているだろう。その中に、ルリが行くという事はハイリスクである。
ルリ自身はどうとでもなる。最悪皆殺しにすれば問題ない。ただ、それは何の解決にもなっていない。仮に無理やり預けたとして、機械から渡された子供を人間がどうするか、想像に難くない。
『なにか難しいこと考えてるね』
思考の合間に、クロの電子音が入り込んでくる。
「まあ、難しいことというか、リスクヘッジというかね。私たちがヒトの集落に行ったとして、シナツがそこで安心して大きくなることは難しくない?」
『あー、なるほど、ルリの考えることはわかるよ。でも、それを解決する素晴らしい方法があると言ったら、どうする?』
含みのあるようなクロの声。
「ほー、して、その妙案とは?」
興味を惹かれて、ルリは訊いた。
『その前に。ルリは本当に今も、そして、これからしばらくも目的はないんだよね?』
「しばらくの程度にもよるけど、まあ、大丈夫」
最終確認のようなクロの問いかけに、ルリは素直に答えた。
『よし、それじゃワタシの妙案を教えよう』
クロの尻尾が手招きしているように見えたので、その場でしゃがみ込んで耳を傾ける。そして、猫の口が開き、
『ルリもそこに住んでしまえばいいじゃん』
焦らしも溜めもなく、あっさりと言った。
「そこに住む?なんで?」
『いや、だからさ、ルリがヒトの振りしてシナツと一緒に住めばいいじゃんって、そういうこと』
察しの悪い人型の相棒に、愛玩機械は呆れたように言い放った。
『おあつらえ向きにルリはヒトの振りが得意でしょ?保護者として在住すれば問題ないって』
クロのほとんど変わらない表情は、妙案は妙案でも、ルリに対して面白いことを思いついたというような顔をしているような気がする。
『同種の中で暮らすという問題もクリアだし、機械とバレなければ万事OK!円満解決!どうよ、完璧じゃない?』
「本当にそう思ってる?単に面白がってるだけじゃない?」
『そんなことないよ、本当に妙案だと思ってるって』
若干疑わしいところもあったが、ルリには特に他に何も思いつかない。再度今のアイデアを考慮に入れつつ、検討してみる。
『まあ、そもそもそういう集落がなければ話にならないけどさ。でもほかに目的もないんだろう?』
「確かに……」
『それに、今まで考えてこなかったけど、シナツの家族がどこかにいるかもしれないよ』
「いるかねー……?」
とはいえ目的などない。そして、提示された目的がここにはある。
「……うん、そうだね」
いくら考えてみても、ルリには最初から選択肢などなかったのだ。そもそもクロがそれを思いついた時点で、ルリにはそれがほぼ絶対なのだ。
『お、決めたかい?』
「決めたよ」
背負っているシナツをちらりと見る。彼女の安らかな寝息が耳をくすぐった。
「それじゃあ、シナツのための旅を、始めようか」