第5話
ドアを、そっと開けると…、そこには。
わたしが顔を出す位置を…しっかりと覚えている、良雪の、笑顔が。
良雪の目が、大きく…見開いていく。
―――浴衣姿の充、かわいい!!!
自分の中の良雪の記憶が、色付く。
初めて見る、充の浴衣。
いつもの落ち着いた雰囲気とは違う、華やかな和装。
華やかではあるけれど、大人の女性の色気を纏って、目が、離せなくて……。
「びっくりした。充、すごくよく…似合ってる」
「そう?ありがとう、中、入って」
良雪の喜びを、誰よりも知っているのに、そっけない態度になってしまう。
今、良雪は…照れてるのかなって、思っている。自分が見た充は、いつもよりかなり血色のいいほっぺたをしていて、少し視線が泳いでいて…たまらなく可愛らしかった。
……確かに、照れている部分も、あるけれど。
焦る気持ちを…隠しきれていないのだと思う。
良雪に見せてしまった、浴衣姿。
もう、今さら…今からここで脱ぐことは、できないから。
どうにかして、脱ぎたいと、願う、わたし。
運命を変えたいと願うわたしに……できる事は、何?
……そうだ、会場で。
会場で、浴衣を脱ぐことはできない?
理由を見つけて、場所を探して、現地で脱いでしまえば!
キスを交わすのは、花火大会ラストのスターマインの最中。
それまでに、脱ぐチャンスを見つければ…!!
わたしはバッグの中にワンピースを入れることを決めた。…草履はこの際、気にしないようにしよう。替えのパンプスを入れるスペースは、カバンの中に残されてはいない。
「いつ来ても充の部屋はシンプルできれいだね」
良雪が靴を脱いで、私の部屋に上がる。
この部屋に入るのは、何回目?
数えることができないくらい、ずいぶんこの部屋を訪ねてきている。
…これからは、ピンポンを鳴らすことなく、カギを回して、訪問するように、なるのだ。
「良雪、誕生日おめでとう」
用意しておいた、キーケースを渡す。
目を丸くして、私とプレゼントを交互に見ているけれど。……さっきから、目の端に入っていたリボンが、気になっていたのよね。
「開けて、いい?」
「ええ」
丁寧にラッピングをはがして、キーケースを取り出し、カバーを開けると。
「これは…?」
良雪は、このキーケースの中のカギを、知っている。いつも充が、愛用のカバンの中から取り出している、少し重厚な特徴のあるカギだから。
……知っていて、充に言ってもらいたい言葉を、待っているのだ。
「私の部屋の、合鍵よ。…いつでも、使っていいから」
『いつでも』という事は。
いつでも、自由に、会いたい時に、充に会いに行っていいという事なのかと、感動している。
アポなしの訪問を許してもらえるようになった、その事が良雪のテンションをさらに上げている。
テンションの上がりきった良雪は。
ギュっ…!!!
充を、思いっきり抱きしめてしまって。
ばっちーん!!!
「使いどころ間違えないでね?チェーンロックは、かけておくから」
「は、はい…」
真っ赤なほっぺで、花火大会に行く羽目になったのよ。
…わたしは、予想外に力強く抱きしめられると。どれほど気にしていても…反射的に手が出てしまうという事を、知った。
花火大会の会場は、ものすごい人出だった。
背が高い良雪だった頃には感じなかった、人の圧迫感が…すごい。
手をつないで、自慢の彼女をかばいながら前に進んでいた時の記憶が…重なってくる。ゆっくり歩きながら何度も確認した、風になびく長い髪と自分を見上げる瞳。いつも落ち着いている充がやけにきょろきょろとしていて…目が離せなかった。
花火大会を楽しんでいるのだと思っていたけれど…、確かに、楽しんではいるのだけれど。わたしは今、運命を変えるために、情報を探している。
会場には有料の花火観覧席が設けられているので、そこで楽しもうかという話をしていたのだけれど、すべて完売していた。仕方がないので、出店を少し回った後、会場内の少し離れた位置にある小高い土手の方に移動することにした。
キスを交わしたのは確か、この公園の広めの平坦な、通路。
このまま運命を変えることができる可能性を少しだけ感じる。けれど、どういういきさつで場所が変わるかわからない。
わたしは…、浴衣を脱ぐという展開にかけたいと思っているのだけれど。
出店を回りながら移動をしていると、土手の手前、仮設トイレの向こう側に、浴衣の着付けテントがあるのを発見した。
ここで、崩れた浴衣を着付けしなおしてくれたり、着替えをすることができるようになっているみたいだ……。
ここで、浴衣が…脱げるのでは?!
「良雪、ごめんね、ちょっと私…お手洗いに行ってくるから」
「じゃあ、僕はここで待っているよ」
良雪はさっき買ったばかりのカップ入りの綿菓子の蓋を開け始めた。この綿菓子を食べ終わる頃に、充は戻ってくるはず。…その時浴衣を脱ぐことができていれば!
はやる気持ちを抑えながら、砂利を踏み、良雪から離れる。
浴衣着付けテント内に入ると、何人か利用者がいた。
着付けの専門家?の奥様が二人いて、チビッ子の帯を締め直してあげている。盆踊りに出る人だろうか、自分で浴衣を着ている人もいる。
ここで、浴衣を脱ぐことができそうだ。ワンピースも、持ってきている。
よし脱ぐぞと、帯に手を伸ばした、その時。
「っ、えっ、ふえええええん!!」
何やらものすごい泣き声の女性が、テントの中に入ってきた。
どうしたんだろうと、テント内の人が皆、注目する。
!!!!!
黄色い浴衣が、真っ二つに破れて…いる?
こんなことって…あるの?!驚いてしまって、つい…目を……。
「ゆ、浴衣がいきなりばらばらになっちゃって!!着付け直しでどうにかなりませんか!!」
「これは…手作り浴衣?ちゃんと縫えてなかったのかしらね、糸がほどけてて…ちょっとどうにもなりそうにないわねえ…」
「そんな!!!私どうやって帰ったらいいの?!ふええええええん!!!」
…………。
この女子と、わたしの背丈は、ほぼ一緒。
運命の流れの強引さに、引っ張られるのを…、感じる。
わたしが、ここで。
浴衣を脱いで…ワンピースに着替えて、この子に浴衣を渡したらいいじゃない?
……ダメ!この浴衣はおばあちゃんのもの、勝手に誰かに譲ったなんて言ったら、母が大変な目に合う。家族に、迷惑はかけられない。明日、母がこの浴衣を取りに来ることになっているから、貸し出すことも難しい。
……わたしが。
ワンピースに着替えるのを、やめてしまえば。
この女性に、ワンピースを渡せば。
……わたしは、見ず知らずのこの人に、施すことを望んでいる。
……困っている人は、いつかの自分であることを、知っているから。
私は、この人だったことが…あるはずだから。
アカシックレコードが開いていないから、この人がどんな人生を歩んでいるのかは、わからない。
……けれど。
今、困っているのであれば。
わたしができる事をしてあげたいと願うのは……、普通のことだもの。
「あの、わたしワンピース持ってるの。良かったら、着ませんか」
「え?!いいんですか?!」
「ええ、普段着なんですけど。返さなくていいので、差し上げます」
カバンの中からワンピースを出して、見ず知らずの女性に差し出す。
女性は泣きながら私にお礼を言って…、素早く着替えると、テントを出ていった。
……最後まで、女性のアカシックレコードは、開かなかった。
運命を変えることに集中していて…この後どうしようか色々と考え続けているから、注意力が散漫していたのね、きっと。
「ごめんね、お待たせ」
結局、浴衣を脱ぐことができないまま、わたしは良雪の元に、戻ることになった。
……ダメ、憂鬱な顔を見せては。
極力笑顔を心がけて、彼氏の顔を…見上げる。
「ううん、こっちこそ…ごめん、全部食べちゃった。もう一回買う?」
空になったカップを見せて笑う良雪。
……三色の綿あめは、意外とおいしくてとまらなかったんだよね。甘い気持ちで味わう、甘い綿菓子、伸ばす手が止まらないのは、仕方がないと思う…。
「大丈夫、また今度買ってもらうことにするから」
「今度は…いつにする?」
「商店街の秋祭りかな?一緒に行こうね」
にっこり笑って、良雪が手を差し出した。
手をつないで、土手の上を目指すと。
―――ドーン!!
―――パッ、パラッパラッ…
本格的に、花火が始まった。
土手の上は、ずいぶん、混んでいる。
つなぐ手が離れてしまいそうなほど、人混みの流れが、きつい。
ああ、この、……流れ。
「充、人が多すぎる、下に行こう、ちょっと危ないから」
―――ドーン!!
―――パッ、パラッパラッ…
「ここにいたい…っよ!!」
花火の音が、わたしと良雪の会話をつなげさせてくれない!
―――ドーン!!
―――パッ、パラッパラッ…
「ねえ!そっちに行きたくないのッ!!!」
人をかき分け、前に進む良雪の耳に、わたしの声は…届いていない。
私には、充の声を聞いた記憶が、ない。
―――ドーン!!
―――パッ、パラッパラッ…
届かない、言葉。
届かない、願い。
…いっそのこと、土手の下で、時間の過ぎるのをまったらいいのでは?
そうすれば、この場所でスターマインを見ることができるはず。
この場所は、なだらかな坂になっている。キスを交わす、通路ではない。
通路は、もう少し、先にある。ここに、ここに留まってさえいれば!!
―――ドド、ドーン!!
―――おおー!!!
―――パッ、パラッパラッ…
!!!!!
つないでいた、手が!!
大きな花火が打ちあがり、たくさんの人が立ち止まって感嘆の声をあげた瞬間。手が…、離れてしまった。
良雪は今、とても焦っているはず。
人の流れに、流されていく、充。
距離が遠くなる。
充の身長は150センチ。
人ごみに、埋もれてしまう。
わたしは、どんどん、流されていく。
―――ドーン!!
―――パッ、パラッパラッ…
良雪は、通路の方まで、わたしを探しに行っているはず。人の流れは、通路に向かっているから。
しかし実際は、流されたわたしは横にずれていて…、良雪の位置からは見つけることができない。
―――ドーン!!
―――パッ、パラッパラッ…
……スターマインが終わるまで、ここにいよう。一人ぼっちで見事な花火を見るのは寂しいけど、スターマインに間に合わなければ…、キスをすることなく、運命を変えることができるはず。
一緒に花火を見上げる事よりも、運命を変える方がわたしにとっては重要だから。
―――ドーン!!
―――パッ、パラッパラッ…
立ち止まるわたしの目の前に、圭佑の姿が見えた。
あまり柄の良くない友達が何人か一緒に、いる。
良雪には気が付いていないみたいだけど、このまま圭佑がまっすぐ歩いていったら、その先には…良雪が一人でいる!!
圭佑は、誕生日のパーティーを勝手に開こうとしていた。
良雪に会ったら…、連行されてしまう!!
―――ドーン!!
―――パッ、パラッパラッ…
どうする?
どうしよう!
あの人たちは、おそらく良雪を連れ去って、よくない道に引き込む人。
運命を、変える?
良雪の運命を悪い方向に変えて、自分の運命を変える?
一見悪そうな雰囲気を醸し出している、圭佑の仲間たち。
実は、いい人かもしれないじゃない?アカシックレコードを開く?
でも、そんな時間は…ない!!
わたしは、走り出してしまった。
……運命を変えるために、いろいろと画策した、わたし。
変えられない、流れ?
変えることができる、流れ?
……変えることを、拒んだから、わたしは今、走っているんじゃない。
圭佑たちは、人混みを嫌ったのか、くるりと方向転換をして…良雪とは反対方向へと、向かっていった。
良かった、会わなくて、すんだ。
わたしは一安心、したけれども。
このまま走ったら、わたしは…良雪にぶつかって。
―――ドド~ン!!
―――バ、バババッ…
スターマインが始まった。
この、花火大会ラストを飾る、光と音の饗宴。
走る事を急にやめたわたしの足元で、草履の先が、小石を蹴った。
コロンと転がった小石が、踏み出した足の下に入り込み、踏まれる。
足の裏の絶妙な位置に引っかかった小石が、バランスを、崩す。
「キャ…!!!」
「あぶないっ!!」
ふわりと、良雪の香りに包まれた。
…良雪が、優しく抱き止めてくれたのだ。
―――ドド、ド―――――――――ン!!
―――バ、バババッ…
闇の中、花火が散り、良雪の顔が…照らされる。
……心配そうな顔。
…その、表情はやがて。
愛おしいものを見つめる顔になり。
―――ドド、ド―――――――――ン!!
―――バ、バババッ…
見つめる目が、とても、とても……真剣で。
見つめ返す、自分の目が。
……閉じてゆく。
―――ドド、ド―――――――――ン!!
―――バ、バババッ…
唇に、熱を、感じた。
……ああ。
わたし、キス、……しちゃった。
―――ドド、ド―――――――――ン!!
―――バ、バババッ…
涙が、零れた。
……わたしは。
変えることが。
できなかった……。
「充?!ご、ごめん、いやだった?!」
「違う、違うの…胸が、胸がいっぱいに、なって…」
良雪は、今、とても感動していることを…わたしは知っている。
はぐれていた充が、自分の胸に飛び込んできたこと。
大好きな充に、キスできたこと。
初めてのキスを、受け入れてもらえたこと。
初めてのキスに、充が胸をいっぱいにしたと言っていること。
…初めてのキスが、関係をより深くするであろう期待。
わたしの涙は…、止まらない。
良雪がそっと、ハンカチを私の頬にあてる。
「泣かせちゃって、ごめん。ずっと、ずっと、僕は充のことだけが、好きだから」
知っている。
良雪は充だけを思って、一生を終えたのよ。
充のことしか考えられなくて、記憶をはがすことを拒んで、ここにいるのよ。
―――ドド、ド―――――――――ン!!
「私も、良雪が…好きなのよぅ…!!!」
―――バ、バババッ…
わたしの、叫びは。
良雪には…届いていない。
私には、大好きな人が何を言っているのか、聞き取れた記憶が、ない。
……止まらない、涙。
良雪が、愛おしくて、愛おしくて、心が…張り裂けそうなの。
この胸の痛みは、私だけが知るもの。
こんなにも、こんなにも…わたしはあなたが好きなのに。
スターマインが終わり、観客は皆、家路に向かい始めた。
立ち尽くす私たちは、少し通行人の邪魔になっている。良雪は、そっとわたしの手を引いて、通路脇の街路樹の下へと移動する。
ここで、しばらく何も言わずに、泣きじゃくる充をやさしく見守るのを、私は知っている。
――—泣いている充を見るのは、初めてで。
――—泣き続ける充を見るのは、初めてで。
どう声をかけたらいいのかわからないけれど。
僕は充のそばにいるよ。
良雪は、充の涙は感動の感情が流させているものだと、思っている。
……私が良雪だった時、そう、思っていたもの。
でも。
充の、涙は。
感動の涙ではなく、悲しみの涙であったのだと……、今、知った。
わたしには、充の運命を、変えることが、できない。
わたしは、良雪の記憶のまま、生きていくことしか、できない。