第3話
……昨日、初蝉の声を、聞いた。
緑の多いこの学舎は、夏の間、相当に騒がしくなる。
窓際の席は日当たりも強く、蝉の騒音被害も甚大で人気が一気に低くなる。しかし、わたしはいつも通り窓の近くの一番前の席を陣取る。授業は一番前で、受けたいと思うから。
……受けるからには、先生の言葉をきっちり一言も漏らさず、自分の中に知識を残したいもの。
「充は、一番前が好きなの?」
「ええ」
不人気の一番前の窓際の席に、わたしと良雪は並んで座る。
薄手ではあるがカーテンがかかり、クーラーも利いているので不快ではない。私の記憶に残っている、相当にひどい環境下で学習した時のことを思えば、恵まれているとさえ思う。
「暑いし、うるさいのに、どうして?」
「…そうね、自分の前に、誰もいないと、授業を独り占めできるような、気がするから」
自分の前に誰かがいると距離を感じてしまう。
その距離の分だけ、言葉が遠くなるような、気がして。
…きが、するの。
…ああ、くる。
「独り占め?勉強が好きなんだね、充は」
良雪の、次の言葉が。
……来る。
「勉強もいいけど、僕のことももっと好きになってほしいんだけどなあ…」
『勉強もいいけど、僕のことももっと好きになってほしいんだけどなあ…』
言葉が、重なる。
…おそらく、良雪が心を込めて、気持ちをのせきった言葉が、私の中で思い出されているのだろう。
充が、確かに聞いている、心のこもった、言葉だというのに。
――聞いてね?僕の気持ちを。
――伝えてるんだよ、君を思う気持ちを。
――僕はこんなにも、君が好きなんだ。
「わたし、あなたに嫌いなんて言ってないでしょう?」
――違うよ。
――僕はそんな言葉が欲しいんじゃない。
――ただ、僕は、充に。
「じゃあ…、好き?」
「…好き」
――充が、僕に僕の望む言葉をくれた。
――充が、好きと言ってくれた。
「僕も、充が好きだよ」
わたしの横の席で、良雪が目じりにしわを寄せて、にっこり微笑む。
初めて言葉を交わしてから、もう、何度も見ている、この優しい、笑顔。
いつだって充をまっすぐ見て、微笑んで。
いろんな場所で充を見つけては、にっこり笑って。
私が良雪であった頃は気が付かなかった、良雪の魅力。
自分はこんなにも……優しい表情で、充を見つめていたのか。
たまらなく愛おしいという、良雪の記憶に引きずられる。
僕の気持ちに、こんなふうに返してほしいと願う気持ち。
僕の気持ちを伝えたら、こう返してほしいと望む気持ち。
良雪の願望を知っている私は、良雪の望む言葉を……返す。
返したい気持ちが、そうさせている?
返さなければいけないと思うから、そうしている?
……わたしの気持ちは、どこにあるのだろう。
返したい気持ちが一番前に出ていて、自分の気持ちが…、見えてこない。
「よう、付き合い始めたんだって?」
見つめ合っている私たちの横に現れた、少々厳つい、茶髪の男子学生。
少し目に力が入って、口元はにやりと笑っている。
……あまり、いい表情では、ない。
いいイメージを、持てなかった。
少し、注目、して、しまった。
……ああ、まずい。
このままでは……、アカシックレコードが、開く。
このところ、良雪の気持ちに引きずられて…閉じている事が多かったのだけれど。
……アカシックレコードは、ふいに開いてしまう。
例えば、何気ない日々の中で、ふと床を見た時。
床の材質を思い浮かべた瞬間、その知識が、開く。
世界の記録が、私の中に、流れる。
それはまるで、大きな辞典が開いて、文字が流れ込むように。
それはまるで、音符がメロディとなって、曲として聞こえてくるように。
それはまるで、降り注ぐ雨が、大地に染みこんでいくように。
止めようと思っても止められない、知りたくないと思っても流れ込んでくる、アカシックレコードの記録。
アカシックレコードには、起きた出来事が記録されている。……本来であれば、今現在、まだ起きていないことは…記録されていないはずなのだけれど。
…私がアカシックレコードを奪ったのは、今現在から60年後。その時点で記録されていたものが、流れ込んでくることがある。
今、わたしに話しかけた同級生、柴本圭佑。
ああ……、開く、開いて、しまう。
柴本圭佑の、人生が開く。
いわゆる…走馬灯。
そういうものが、一瞬で私の意識の中を流れる。
…ああ、こういう人生だった。
人生を一冊の本にして…、一瞬で読み終わったような、読後の…、居た堪れなさ、後悔、疚しさ、困惑、苦々しさ、消耗感。
……圭佑は、圭佑になる前。
人から蔑ろにされる人生を終えて、今度は人を踏みにじるくらいの力強さを求めた。
だから……、こんなにも。
良雪に、寄り添うふりをして、優越感に浸った。
自分のなんてことない日常を自慢するために、良雪と行動を共にした。
こいつより俺は幸せだと酔いしれるために、良雪を離さなかった。
結果として良雪の悲しみを、より大きなものにした。
人生を後悔させるものに、した。
………ああ、そうか。
充が圭佑といる時に不機嫌だった理由が、今、わかった。
謎が……、解けていく。
……アカシックレコードを持ったまま、生きていかなければいけない、私の…孤独。
思惑が、私の前では……無防備にさらされる。
晒された思惑は、おとなしいものばかりではない。
人間の持つ醜い妬み、嫉み、嫉妬、理不尽な思い込みや、身勝手な決めつけ。
私と対面する人は皆、本性を知られているとは気づきもせずに、ニコニコと仮面をかぶり、どす黒い思惑を隠せていると信じて、言葉を交わす。
そこに見えてしまう、人間性。
…そして、その人間性を持つ人物が、自分であるという事実。
この世界に生きるものはすべて私自身であるという真実が、伸し掛かる。
醜い自分を目の当たりにして……、打ちのめされることもある。
今、私は露木充なのだと…、自分に言い聞かせる。
露木充の人生に、いらない記憶を、持ち込まないように。
気が付かないように。
見ないように。
「圭佑!お前今頃何言ってるんだよ!もう一か月も前からだよ!」
「いや、俺あんまこういうの、気にしない方っていうかさ。露木さん?」
私がアカシックレコードと戦っていることなど、まるで気が付くはずもない良雪は…ニコニコと圭佑と話をしている。
圭佑が今、良雪に対して嫉妬の炎をめらめらと燃やしているのを、知らない本人。
「こんにちは」
「なんかつんけんした女だな!良雪にはもっと、こう、ふわっとした感じの…」
「圭佑!!!」
焦る良雪の心のうちを、私は知っているけれど。
私は、圭佑のどす黒い感情を知っているから。
……あなたは気にしなくてもいいのよ?
気に病むだけ、良雪がかわいそうじゃない。
垣間見た圭佑の人生を気にしないよう、良雪に意識を集中させる。
圭佑の記録は、わたしたちには、必要ない。
わたしたちは、お互いを見つめて、恋に落ちる。
……それだけで、いい。
――――キーンコーンカーンコーン
ガチャ…コツ、コツ…
倫理学の先生が登壇した。
「うわ!やべ!!」
圭佑は机の端に腰をぶつけながら、一番後ろの席へと向かった。おそらく、授業中に寝てしまうのだろう。圭佑に、倫理の思想は微塵もなかった。…ああ、余計なことを、思っては、ダメ。
「はい、皆さんごきげんよう。それでは授業を始めます。本日は、イデア論について。プラトンにとって世界の真実とは…」
「充、ごめんね、あいつ、悪いやつじゃないんだけど…」
「大丈夫、気にしないで」
耳打ちしてきた良雪に、少しだけ微笑んで言葉を返す。
少し距離が近くて、喜んでいる良雪。
…わたしも、少しうれしいのは、気のせいなんかじゃ、ない。
わたしは、確実に。
良雪を好きに、なっている。
わたしを好きだという気持ちがあふれる良雪を目の前にして、嫌いになれるはずがない。
良雪が欲しいと願う言葉を、わたしだけが声に出せる事実。
良雪の望むものを、わたしだけが与えることができる事実。
わたしだけが特別なのだという、事実。
わたしにとっても、良雪は。
特別……、だから。




