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第2話

 梅雨。


 昨日から降り続く雨は、教室内に湿気を呼び、なんとなく空気が重い。


 私は、雨が嫌いではない。

 雨の恵みを、知っているからだ。


 ……例えば、カエルであった頃。

 一粒の雨で、命が続く、そういうことも、確かにあった。


 しかし、雨が嫌いでも、あった。

 雨の残酷さも、知っているからだ。


 ……例えば、鳥であった頃。

 土砂降りの雨で、巣から流され、命をなくすこともあったから。



 わたしがこの大学に入学して一年と少し。


 ……まもなく。


 間もなく、わたしと良雪は、初めての会話を交わす。


 梅雨の季節。

 湿った教室の中。


 今、良雪は。

 わたしにどう声をかけようか、ドキドキしている、頃。




 昨年の入学式。

 良雪は、文学部新入生の席に座るわたしを見た。


 長い髪の、背の低い、どこかはかなげな少女。

 左耳の上できらりと光る、雪の結晶をモチーフにした、ピン止め。

 自分の名前に「雪」の字を持つ良雪が、運命を感じた相手。


 それが、……わたし。


 初めて見かけた日から、わたしを探し続ける良雪。

 見つけては、目で追い続ける、良雪。


 体育の授業で移動するときにすれ違って喜び。

 一般教育科目のドイツ語A、統計学、倫理…、同じ教室で学べることに幸せを感じるものの、声をかけることができない日常を憂い。常に教室の、一番前の端を陣取る姿を、一番後ろから、眺め続ける、日々。


 時折、視線が交わりそうになり、そのたびに心が躍る。

 しかし、重なることのない、視線。


 なぜだ。

 なぜ、目を合わせてもらえないのか。


 募る恋心は、良雪を大胆にさせてゆく。

 一番後ろから見つめてきたその姿を、少しづつ近づけてゆく。


 いつ、声をかけようか。

 どうやって、声をかけようか。

 声をかけるタイミングを、慎重に、慎重に、測りながら。


 ……私は、良雪の心のうちをすべて知っているから。

 今、わたしの後ろで、高鳴る胸の鼓動の激しさに、震えていることを、知っている。


「Ich habe dich an einem regnerischen Tag getroffen. Seit diesem Tag sind fünf Jahre vergangen. Was machst du jetzt?」


 少し雨音が気になる教室の中に、先生の流暢なドイツ語が響く。


「露木さん。訳してみてください」

「雨の降る日、僕と君は出会った。五年が経った。君は何をしているだろうか」


「Gut gemacht.」


 比較的落ち着いた雰囲気の中で進められる授業は梅雨の時期にぴったりの内容なのだが、良雪は内容など、一切気にしていない。どうやって声をかけるか…、その事しか、頭にないから。


 ……真後ろから伝わる、良雪のまっすぐな思い。


 もう、間もなく。


 もう、……すぐ。


「それでは、プリントを配ります。前から回してください」


 先生がプリントを配り始めた。わたしは一枚取って、残りのプリントを後ろに、回す。


 ……振り向くと。

 まっすぐな目をした良雪が、わたしの目を、見つめている。


 ……初めて交わる、視線。


『ありがとう』

「ありがとう」


 良雪の声と、私が良雪だった頃の記憶が、重なる。



 ……私は、知っている。


 この一言が、すべての始まりだったという事を。


 

――――キーンコーンカーンコーン



 授業終了の、チャイムが鳴った。


「プリントは来週までに訳を埋めて持ってくるように。Bis nächste Woche.」


 ガタンガタンと派手な音をたてながら、学生たちが移動するために席を立ち始めた。


 良雪は…まだ、動かない。

 わたしに声をかけるタイミングを見計らっているのだ。


 ……良雪の記憶が、私の中に、重なる。

 良雪の思いが……、私の中に広がる。


『ねえ』

「ねえ」


 うしろから声をかけられて、ゆっくりと振り返った…わたしの目に飛び込んだのは。


 露木充(好きな人)を真正面から見ることができた喜びに震える、良雪の、顔。


 自分(良雪)は、こんなにも、喜びに満ちた顔をしていたのかと、驚く。


 こんなにも嬉しそうに微笑んでいるのに、……(わたし)は。

 愁いを帯びた表情しか、……返せない。


 おそらく、きっと。

 わたしは、今……、私の中に残る、良雪の記憶と同じ表情を、しているのだろう。


 なんとかして、少しでも、…いい笑顔を。


「はい」

『はい』


 ……だめだ。

 記憶が、重なる。


 言葉が……、ぶれている。


 私は、今。 

 良雪の記憶をなぞりながら、良雪と会話を、している。


『いつも一番前で授業受けてるよね』

「いつも一番前で授業受けてるよね」


 閉じたい、記憶が、重なってくる。

 記憶が……、ぶれる。


 目の前の…現実。

 記憶の中の…出来事。


 既視感しか感じられない、言葉の応酬。


 …閉ざせ。

 ……閉ざせ。


 良雪の心を。


 少しでも。

 少しでいい。


 良雪に不安を抱かせないように。


 笑顔を、向けなければ。



「ええ。わたし、授業は一番前で聞くと、決めているの」

「そうなんだ。真面目なんだね」


 すべてが既視感で構成される、会話。


 口に出しながら、この話、したことあるなと、感じてしまうのに。

 言葉選びを変えることができない、会話。


 ……けれど。


 ……大丈夫。

 二重に、聞こえることは、なくなった。


 今、()は、(わたし)の意思で、言葉を伝えて、いる。


「まじめであることは、学生の本分だと思うのだけど、違うかしら」


 ……大丈夫。

 話していて、終わりの言葉が予想できないのに、話し終わったとたんに、ああ、こういうこと言ったことがあると思ってしまう、会話に、なった。


「まちがいない」


 良雪との、対話が、続いていく。


 ……露木充(わたし)に、集中して。


 わたしが今から話すことに、集中しなければ。

 良雪の感情をたどれば……、引きずり込まれてしまう。


 わたしの葛藤など、気付くはずもない、良雪が目の前で笑っている。


 ……うれしくて、うれしくて、たまらないのだ。


 やっと、やっと声をかけることができた……、これから恋が始まる予感に、心が高鳴ってる。 

 目の前のわたしの不安など、微塵も気が付かずに……、自分の幸せに、浸っているのだ。


「僕は、柏崎良雪(かしわざきよしゆき)。君の名前、聞いても、いい?」


 わたしは、少し目線を落として、言った。


「わたしは、露木充(つゆきみつる)みつるって、呼んでいいから」



 いきなり下の名前で呼ぶ許可をもらえて、テンションが上がってしまった良雪は。


 私の両手を取って、大喜びをして。



 ばっち――――ん!!!!



「い、痛い…!!!」



 充に、びんたを食らったのよ。



 ほっぺたの痛さに……、涙が浮かんだんだった。


 わたしは今、充の手の平も、相当痛かったという事を、知った。



 ……目の前でほっぺたを大げさに抑えている良雪を、周りの学生たちが、微笑ましげに見ていることも、知っている。

 良雪の充に対する執着は、周りが見ていて、気の毒なほどに、一途で、真剣で、切なかったから。


 みんなが今、充に注目していることも知っている。


「ごめんね?…でも」


 みんなの視線を……受けながら。

 赤くなったほっぺたに、ハンカチを当てた充のやさしさを、私は覚えている。


 ハンカチをほっぺたに添えながら。


「手をつなぎたいなら、許可を取ってからに、してほしいかな」


 ……自分の言った言葉は、はたして。


 良雪の記憶をなぞっているものなのか。

 それとも。

 私が良雪を思って、言葉にしているものなのか。


 自分の言葉だというのに、それが本当に自分の言葉であるのか、自信が持てないまま、会話をする。


 これは、果たして、本当に、会話なのか。

 記憶をなぞり直すだけの、回顧なのではないか。


 不安が、どんどん……増してくる。


 わたしの不安など、微塵も気が付かない良雪は。


 ただ、ハンカチの柔らかさと、手の平の温かさに。

 感動している、だけだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 3/3 ・いい話じゃないか! ・この、なんというか、素敵すぎる。主人公が色んな記憶持ってるって、読者からしたら面白いです [気になる点] 『』の使い方、いいですね。どこかで参考にさせて…
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