第15話
……明るい部屋の中には、少しだけ薬のにおいが充満している。
わたしの腕には、点滴の管が何本か刺さっている。……管をとめる絆創膏は、かわいいキャラクターもの。
「まーま、だいじょぶ?」
手をそっと握る、小さな手。
わたしの目をのぞき込んだり、腕にたくさんついているお気に入りのキャラクターの絆創膏を見たり…きょろきょろしていて、とても…かわいい。
私の知らない、充の人生は。
とても、とても幸せなものになったけれど。
…病気になることは、決定済みだったみたい。
良雪が知る、充の寿命は…24歳だった。
24歳の最後の日、わたしは病気の恐怖を、振り払うことができたと思っていたのだけれど。
「充…。きっと良くなるよ、早く、元気になって…僕たちの家に、帰ろう?」
とてもやさしい、良雪。
少し泣きそうな顔をしている理由を、わたしは、多分、知っている。
この病気は、もうじきに…わたしの命を、奪ってしまうの。
…おそらく、わたしは、24歳で発病する運命。
過去の充は、無気力で病気と闘う気力もなくて…24歳になったその日に発病して。闘病生活もずいぶん無気力になって命を終わらせたけれど。
わたしは、毎日とても満たされて幸せに過ごしていたから…24歳の最後の日に、発病したのかな。
「…っ!透ちゃん、ばあばあと一緒にアイス食べに行かない?」
「あいすー?わーい!!」
おばあちゃんになった母が、娘を連れて病室を出ていく。
…大学卒業と同時に結婚したわたし達にずいぶん手厳しかった、母。
けれど、今では、ずいぶん…ずいぶんやさしく、なった。……それが、示す、わたしの、病気の重さ。
良雪が、わたしをまっすぐ見つめている。
その表情は、血の気が引いていて、寂しそうで、辛そうで…泣き出しそうで。
わたしは、最愛の人に、こんな表情をさせてしまって、いるんだ。
隠しきれない悲しみが、ぎこちない微笑みになって…わたしの目の、前、に…。
「充…」
わたしの意識があるうちに、良雪に言葉を…残さなければね。
わたしの願い、わたしの思い。
わたしの悲しみや嘆きは、置いていってはダメ。
……これから幸せに、生きていってほしいもの。
「…あのね。わたし、良雪を孤独に残すことにならなくて、本当に良かったと思ってる。透がいれば、あなたは孤独ではなくなるでしょう?」
「何言ってるの、充の病気は治るよ、治って、僕の横で、ずっと…」
良雪の目に、涙が光る。
ベッド横の椅子に腰を下ろして、管の繋がるわたしの手を、優しく握った。
「わたしはいなくなってしまうけれど、良雪の記憶に、残っているでしょう?…透に、いっぱい、いっぱい…わたしの事、教えてあげてね?」
透に話すことで、わたしの事を思い出してくれたら。
きっといつか…悲しみは思い出に変わるはず。
懐かしく思える日が、きっと来るはず。
たった一人で、寂しく、孤独に、人生を終えることは……ないはず。
わたしは良雪に寄り添うと決めて、良雪と恋をすると決めて生まれて来たの。
わたしの目標は達成できたの、わたしはこの上なく、幸せなの。
「いなくなるなんて…言ったらだめだ!透だって、充の帰りを待っているんだよ?!」
少し広めのマンションで、良雪と透と、三人で暮らせた。
幸せな記憶が、あの部屋には…たくさん残っているはず。
あの部屋にいれば、孤独に過ごすことはないよね。
悲しみは、いつかきっと、振り返ることのできる大切な思い出になる…。
「良雪に思い出してもらえたら、それだけで幸せ。あなたが、幸せに生きていってくれることだけが、わたしの願い…」
「僕は、充と一緒に、ずっといることが…しあわせで…」
良雪が、あふれる涙をぬぐうことなく…ただ、ただ泣いている。
ぎゅっと握り込まれた手が、少しだけ、痛い。
力強く握り返せない、弱ってしまった自分が…もどかしい。
「…言おうかどうしようか、迷ってたんだけどね、わたし、あなたにまた会えるってことを、知ってるの。だから、わたしがいなくなった後の、良雪の幸せな様子を、その時に聞きたいな」
じっとわたしを見つめる、良雪。
すべてを話すには…少し、体力が足りない。
…病気で錯乱していると思われてしまうかもしれないから、ほんの少しだけ、先を知らせる。
…それが、良雪の生きる糧になることを祈って。
「充がいなくなったら…僕は幸せになんて、なれないよ…」
「透がいるよ?透に、わたしの面影を見ることができたら…きっと幸せを感じることができる日が来るよ?ね、透の事、お願いね?わたしに似ているから、とても、とてもおっちょこちょいで。心配なの…」
透はわたしに、よく似ているの。
アカシックレコードが開く前のわたしはね、ずいぶんおてんばで…大変だったから。きっと良雪を振り回してくれると思ってるのよ。……きっと、良雪を、悲しみに包まれたまま泣き暮らす、隙を与えないはずなの。きっと、良雪に、笑顔を取り戻してくれるはずなのよ……。
「透の事は、僕が必ず、しっかりと育てるから、充は、何も、心配しなくていいよ」
血の巡りが悪くなってしまった、わたしの冷たい手は…、良雪の温かい手で包まれている。
何度も、何度もつないできた、この手。
わたしは、とても、とても…大好きだった。
この、温かい手の持ち主が、わたしは本当に、とても、……とても。
「ありがとう。大好きよ、良雪。…会える時を、心から、楽しみにしてる」
伝えたいことを口にできたわたしは、少しだけ…、目を閉じることにした。
…そのまま、眠ることが多くなってしまったみたい。
「…またね」
夢を見ているのか、起きているのか。
自分のいる場所がはっきりしなくなって、意識もはっきりしなくなって。
わたしが最後につぶやいた言葉は。
良雪に……届いたのか、届かなかったのか。
良雪は最後に何を言っていたのか。
よく、わからないまま、…わたしは。
………何もない、空間が、目の前に広がっている。
…ここは、アカシックレコードのあった場所だ。
あの時、管理人と話をして、目標を…決めた場所。
わたしは、管理人になることを決めていた。
今から、わたしは、ここで。
アカシックレコードの……管理人を、するの。
私の中にあったアカシックレコードが、目の前に現れる。
ようやく、この場所に…戻すことが、できた。
これから、わたしは、この場所で。
数多の人生を振り返り、人生に寄り添い。
生まれゆく命と向き合い、目標を問い、送り出してゆくの……。
……アカシックレコードが、ページを開いた。
まっさらなページが光って、吸い寄せられるように…わたしのすべてが、飛び出していく。
あふれ出す、人生のエピソード。
思い出す、全ての感情。
私の中にある、目標を達成した露木充のすべてが、アカシックレコードに記録されていく……。
孤独な人生を終えた良雪が知る充の…記録が、消えていく。
孤独に人生を終えた自分が追い求めた、寄り添う事のなかった露木充の記憶が…ただのぼんやりとしたイメージになってゆく。
良雪と共にいることができずに人生を終えた、絶望に包まれた充が……消えてゆく。
運命を変えて、消え去った…充。
アカシックレコードのどこにも記録されていない、追い求めて、願って欲してやまなかった、充。
孤独な人生を終えた良雪だけが知る、気の毒な充は……いなくなり。
今、アカシックレコードに書かれている良雪の記録も、もう、じきに…上書きされる、はず。
この世界のすべてが記録されている、アカシックレコード。
そこに、書かれていない記憶を、私だけが……持っている。
私だけが知る、過去の記憶。
それは、思い出せる、過去の悲しみ。
それは、思い出せる、過去の孤独。
それは、思い出せる、過去の苦しみ。
それは、思い出せる、過去の困難。
管理人を務める、私の中にだけ存在する記憶。
運命を塗り替えることができた私の、勲章のようなものなのかも、知れない。




