第9話
…今日は、バレンタインデー。
朝から学生たちが浮かれているのは…、気のせいなんかじゃないと思う。
なんとなく、視聴覚室内のテンションが高い。若い男女が多数いる状況で、そわそわしてしまうのは…たぶん、仕方ない事だと思う。
「充!今日帰り寄っていいんだよね?」
良雪がニコニコしてわたしのもとに駆け寄ってきた。
六限目、良雪は離散数学の授業だったから…教室が違うのよね。
チョコレートが待ちきれなくて、日本文化史の授業を受けていたわたしを迎えに来たのだけれど。
……気が、重い。
なぜならば、今日……、わたしは良雪と、初のケンカをしてしまうから。
ケンカ?
それならば、まだ、救いようがあるのかもしれない。
今日から、わたしと良雪の関係が、変わり始める。
それはゆっくりと、でも、確かに。
「充??」
「えっ、うん、いいよ…一緒に、帰ろう」
―――なんか、充の様子が、おかしい気がする。
良雪の予感は……当たってる。
―――チョコレート以外に、くれるものと言ったら!!
まるで違う方向に、勘違いしているけれど!
テンションが上がっている良雪が見守る中、教科書とノートをまとめてカバンに入れて、帰る準備をする。
良雪はほとんど荷物を持っていない。授業関連の本はすべてロッカーに収納済みだから、ほぼ手ぶらなのよね。対してわたしは図書館で借りた本がカバンから溢れている状態で…いつも重そうな荷物を持っているから、進んで、持ってあげるようにしていて。少しだけ、ナイトになったような気分を…味わっていて。
「充、カバン持つよ!おいしいもの食べさせてくれるからね、これぐらいしないと申し訳ないからさ!」
「ありがとう、でもそんなにたいしたものは、…準備してないよ?」
実は。
いろいろと、準備しているのだけれども、ね…。
わたしの部屋の小さめのこたつテーブルの上には、チョコレートフォンデュの鍋とお皿が並んでいる。
チョコフォンデュの前は、チーズフォンデュもして。二人でさんざん、美味しいねと笑って、食べさせ合ったのよね。お皿の上と、鍋の中身はすべて…空っぽになっている。
……バレンタインのチョコは、充手ずから…良雪に食べさせて。
アツアツの、甘くてとろける、充の…本命チョコ。
良雪のうれしそうな顔と言ったら…もう。
かつて自分は、こんなにも幸せそうな顔をして、充に食べさせてもらっていたのかと、恥ずかしくなった。
恥ずかしがる充を見つめながら、ずいぶん締まりのない顔をしていたんだなと、まじまじと見せつけられてしまった。
空になった鍋を一緒に片付けて、二人で並んで…こたつに入る。
…ほんの少し、緊張している、良雪。いつ肩を抱こうかと、悩んでいるのよね。……わたしは、いつ抱かれても良いと、思っているのだけれど。でも、良雪は、目の端に映るものが気になっても、いるのよね……。
部屋の中はとてもあたたかいのだけれど…、わたしは、良雪の首に、マフラーを巻いた。ずっと、気になっていた…薄緑色の、大きな袋の…中身。
「これは?」
「バレンタインの、プレゼント。私が編んだの、どう?」
良雪の顔がまた、締まりなく…とろけた。
喜ぶ顔が、私の目に映る。
とても、とても…嬉しそうな、顔。
……今、大喜びしている良雪だけれど。
このマフラーは、良雪の首に巻かれるのは、今日、この、一瞬だけに、なる。
…このマフラーは。
良雪のタンスの奥に、眠る事になり。
良雪が生きていくための、キーアイテムになり。
良雪という人生を終える際の、装備品となる。
……ああ、くる。
「ありがとう、大切にするよ!!暖かい……」
―――充が僕にくれた、手編みのマフラー!
―――一生、大切にする…うれしい!
―――こんなにすごいものを、僕に!僕のために…!
いよいよ、この時が。
―――今日だったら、充に…お願いしてもいいよね?
今日までの、幸せな良雪とわたしの関係が、変わり始める瞬間が。
―――充にずっと、言ってもらいたかった、こと。
「ねえ、充。お願いがあるんだけどさ」
幸せな気持ちが溢れて、テンションが上がってしまって。
深く考えずに、ふと、口に出てしまった、軽い気持ち。
言ってくれるよねって、信じているからこそ、躊躇することなく、口から飛び出した、言葉。
「僕に、告白してくれない?」
―――充は、なんて告白してくれるかな?
良雪は、充から好きだと、言ってもらいたくて。
―――いつも、欲しい言葉をくれる、充。
―――でも、いつだって。
―――好きという言葉を伝えるのは、僕ばかりで。
―――好きという言葉を、充から、自発的に聞いたことが、ない。
―――好き?と聞かないと、好きと言ってくれない
―――僕ばかりが好きだと言っている気がして…不安なんだ
『柏崎良雪くん、露木充は、あなたのことが大好きです、付き合ってください』
にっこり笑って言えば、にっこり笑ってこのまま時が過ぎて。
二人で仲良く過ごせる時間が……続いていくはずなのよ!
言うのよ。
言って!
言わないとだめなの!!
充!!
冗談交じりに、軽く言えばいいの!!
言わないと、ここで!!
良雪と充の関係性が!!
変わってしまうのよ!!!!
「………」
「………」
わたしを見つめる、良雪の……目が。
私は良雪とずっと一緒にいることができないことを知っている。
孤独を与えてしまうことを知っている。
良雪の、軽口を、笑い飛ばせない。
良雪の、つい口に出してしまった本音を、受け止めきれない。
何も……、言えない。
深い、深い孤独は……やがて、良雪を蝕む。
ただ、ただ充を思って、悔やんで人生を終える。
わたしの表情が、固まってゆく。
私の記憶で、どんどん自分が追い込まれる。
返せない、言葉。
返さなければいけない、言葉だというのに!
孤独という闇が良雪だった私を包み込む。
動け、ない。
ただじっと言葉を待っている良雪を、見つめることしか、できない。
言葉が、どうしても……出せない。
こんなにも良雪の闇は深い。
こんなにも良雪の記憶が私の心を蝕む。
こんなにも良雪が愛してやまない充を拘束する。
良雪に伝えたい言葉は、良雪の闇が、伝えさせてくれない。
充は、良雪に、言葉を伝えたいと願っているのに!
わたしは!!
あなたが好きだと!!
言いたいだけなのに!!
言葉が……出ない。
言葉が、出て……こない。
沈黙が生まれたまま、時間は過ぎてゆく。
―――充は、どうしてだまっているんだろう。
わたしは今、良雪の闇に…飲まれているのよ!
―――充は、僕の望む言葉をくれないのかな?
わたしは、良雪の望む言葉を言いたいと…願っているのよ!
―――充は何を考えて黙っているんだろう?
わたしは良雪の事しか…考えられないのよ!
―――充は、いつも。
―――僕が好きだよというと。
―――私も好きと、返してくれるけど。
―――充から。
―――僕を好きだと。
―――言ってくれたことが、一度も…ないんだよ?
―――だから、頼んでみたのに。
―――充は、応えたく、ない?
―――……どうして?
良雪に、不満が生まれた、瞬間。
………ああ。
良雪は、こんなにも。
―――充は、僕の事、本当に…好きなのか?
―――もしかして、僕だけが…好きなのでは?
不信感を、あらわにして。
―――充から、僕のことを好きだと言ってもらいたい。
切望のまなざしを、むけて。
―――充が言ってくれるまで。
決意を、見せつけて。
―――僕は、充に好きというのを。
怒りの表情を、浮かべて。
―――やめよう。
笑顔の消えた、良雪の、顔。
充が、何も言えなかった理由が……分かった。
……充は。
良雪が、怖かったんだ。
充を求める、その目が。
充を思う、その目が。
充の言葉を願う、その目が。
笑顔を向けるやさしさを忘れてしまうほどに、良雪はいっぱいいっぱいだという事はわかってる。
良雪の気持ちが、わたしの中に溢れている。
溢れているからこそ、何も言えなくなってしまう。
良雪に伝えたい気持ちが、伝えられないまま時間が過ぎる。
良雪の目が怖い。
良雪の視線が痛い。
早く!
早く!!
わたしは良雪に!!
『あなたが好きなの』と、言わなければいけないのに!
見つめ合う、視線が…そらされた。
良雪が、わたしから…視線を、そらしてしまった。
―――しばらく、距離を置いてみようか。
―――僕を切望するようになるまで。
―――僕に言うべき言葉を、充は返してくれるはず。
―――充なら、きっとくれるはず。
―――それまで、僕は待ち続けるから。
「充、今日はごちそうさま。…遅くなるから、帰るよ。またね。」
あんなにも甘かった時間は、終わってしまった。
あんなにも幸せだった良雪とわたしの関係性が、今から変わる。
あんなにも幸せだった二人の時間が、終わりに向かいはじめてしまった。
準備万端だったわたしの部屋から、甘い空気が……消え去る。
ガチャンとドアが閉まって、良雪が出て行ってしまった後、わたしは、声をあげて、泣いた。
あんなにも、良雪に伝えたかった言葉は出てこなかったというのに、後悔の言葉は止めどなく…わたしの口から溢れて。
泣きながら、自分の人生を、呪った。
どうしても……変えられない、運命を。
わたしは、どう生きていったら……いいのだろう。




