閑話 一夜が明ける
ここは領主館、ナゼールの執務室。
居ても立ってもいられないのか室内を忙しなく往来する様は、一領の主とは思えないほどに追い込まれているようだ。そんな常にない有り様を繰り返す領主ナゼールを側近の文官が宥めるが、却って気を急かしてしまったらしい。
「ナタナエルはまだ来ないのか!!」
「は、はぁ。先の報告では、なんでも髪型が決まらないとかで――」
「引き摺ってでも連れてこい!!」
いくら人払いが済んだ執務室といえども、ナゼールの気の触れようは並みではない。耳を疑いたくなる報告で目を覚まし、即刻呼び出しを命じた愚者は来る気配もなく、理由を聞けば寝癖がなんだと抜かされる。怒り心頭、怒髪天を衝く。ナゼールの怒りで膨れ上がった執務室を針で突くように、扉が開かれた。
「やあ、父上。寝起きから僕に会いたいだなんて、子煩悩が過ぎま――」
「そこに直れこの愚か者めがあ!!」
「は……、はひ……」
ナタナエルの前に提示された書類。執務机に並べられていく紙は全て、次期領主であるナタナエルが纏める『はずだった』ものだ。それがいったいなぜ領主の下に……、ナゼールの側近は言う。
「これらは昨夜からナタナエル様に回されるはずだった書類なのですが、書類を届けに行った文官は不思議なことに「担当者不在」と言って私に報告してきたのです。どういうことか、ご説明いただけますよね?」
「……は? もっと単刀直入に言ってくれ。意味がわから――」
「貴様が赤の令嬢に仕事を押しつけていたのかと聞いてるんだ!!」
「まあまあナゼール様、落ち着いて……」
今朝からの経緯はこうだ。担当者不在と言葉を濁らせる文官を問い詰めたところ、いままでナタナエルに回していた仕事の一切合切は婚約者であるレティシアに押しつけるように命じられていた、という。まさかと思いレティシアを呼び出したものの、執務室はおろか寝室にも姿はなく、敢え無く領主へ報告される運びとなった。
早朝にも関わらず連絡もなしに留守にしているレティシア。仕事に堪えかねて逃げ出したのでは、そんな予感が一同を襲っていたのだが、実際はより酷い現状が押し寄せていたのである。
「赤の令嬢は……、どこにいる……?」
「ああ、2番なら昨夜のパーティーで婚約破棄して、賊の出没で問題になってるエリアに追放しました。……くく、そのときの2番の顔がまた、思い出すだけで……、くはははは」
怒りを堪えての質問に対するナタナエルの答え、その笑いを止められる者はいなかった。
赤の伯爵令嬢を追放した。
王都から「領地の派閥問題を治めよ」との指示を受けたことを口実に、派閥を囲んで資金を増大させようと娶らせた赤の伯爵令嬢を、追放してしまった。
その事実から齎される影響は数知れず、一夜にして急転直下した緑の伯爵家が歩む顛末が皆の頭を駆け巡る。バカ笑いするバカ息子を止める余裕がある者など、この場にはいなかった。
「間に合うか……」
「昨夜、馬車。……馬を乗り継げば可能です」
「すぐに手配せよ」
手短にやりとりを終えた側近は領主とその息子に挨拶もなく退室する。父と子が取り残された執務室で、その様子が引っ掛かったナタナエルは……、まだ呆けていた。
「次期領主である僕に挨拶もしないなんて、あいつもクビにしてやろうか。どうですか父、う……え……?」
「赤の伯爵令嬢がいなくなったと知れれば王家からの信用が下がるそうなれば国からの援助が危ぶまれるそもそも赤の伯爵家に伝われば王家へ報告が送られて大義名分を得た内戦が始まるそうなれば戦で資金が流れながれて我が領地の資金が私の資金が私の金が金が……、いや、見つけ出せばどうとでもなるか」
「ち、父上? いかがなさいましたか?」
目の焦点も合わせず、譫言のような文言を呟いていたナゼールが、ハッとナタナエルを見定めた。
「なにを突っ立っておるか愚か者が! 貴様も赤の令嬢の後を追わんかあ!!」