2話 これが噂の婚約破棄ですか……
「君とは、ここで婚約破棄させてもらう!!」
大広間に木霊した怒声に辺りの雑踏は静まりました。煌びやかな衣装を身に纏い、グラスを片手に歓談していた客人たちが一様に振り向く様はどこか面白いです。まあ、その視線の先には今回の主役に罵られるわたしがいるのですが。
「あ、あの、ナタナエル様。なにかお気に召めさないことがありましたか……?」
「もう、うんざりなんだよ。毎日毎日僕の粗を探し回って、馬鹿にして、いい加減にしてくれ!」
「わたしはただ、乱れていた襟を正して差し上げようと――」
どうしてわたしは彼の襟を正そうとしただけで怒鳴られているのでしょう。ああ、この間はエスコートを促して怒られたのでしたっけ。
「それが嫌だと言ってるんだ! パーティー会場には必ず先回りするし、常に後ろに着いてくるし、客人に挨拶しようものなら必ず耳打ちしてくる! そんなに必死で僕を馬鹿にして、なにが面白い!」
いえ、それはアナタが遅刻をして、エスコートを忘れて、侯爵様の名前すら忘れているからで……、はぁ、なんか疲れてきた。
「お言葉ですがナタナエル様。それはどれも貴族には大事な作法でして、次期領主であるアナタを僅かながらでもお支えできればと――」
「うるさい! 僕が婚約者に望んでいるのは、そんなことではないんだ!」
いずれは領主を継ぐ身である伯爵長子のナタナエルが唾を飛ばしていますが、それを咎めようとする者はナゼール派で埋め尽くされるこの場にはおりません。現領主であるナゼール伯爵の傘下にいる貴族にとっては、派閥違いであるわたしがどういう扱いを受けようと関係ないのでしょうか。わたし達の婚約の意味も知らないわけではないでしょうに。
そんな環境にも慣れてきたのですが、わたしの視線が『あの幼なじみ』を探してしまうあたり、もう貴族として縛られることに限界を感じていたのかもしれませんね。
上流貴族としての不安や不満に押し潰されそうになったとき、いつもそばに寄り添って、励まし、支えてくれた存在。
急用で席を外している彼を探していた視線が、ふと、とある女性に留まりました。紫髪のウェーブを靡かせる彼女はナタナエルに歩み寄り、そっと腕の中に収まります。
そういうことですか……。
「どうしたのナタナエル。そんなに声を荒らげて、いけない子ね」
「ロザリー、僕はもう耐えられないよ」
親しげに名前を呼び合う2人はどう見てもお似合いです。それはもうわたしよりずっと。肩を寄せ合う緑と紫は前世から愛の約束でも交わしているような雰囲気ですが、ここは冷静に大広間の声を代弁させてもらいましょう。
アナタ、だれ!?
「なんてマヌケな表情をしているんだ。……君にも、そんな表情ができたんだな」
「あの、失礼ですがそちらの方は? 来場者名簿には記されていなかったと存じますけど」
「彼女はロザリー。僕をいつも支えてくれる最高のパートナーさ」
「ごきげんよう。わたくしはロザリー、とある領地の侯爵令嬢なのですけど、そんなこともご存知なくて?」
オホホと頬に手を添える姿は実に様になっていますが、残念ながら彼女はわたしの王国貴族名鑑にも載っていません。ナタナエルの様子からも出自については信用していいのでしょうけど、侯爵の娘となれば候補は絞られますがロザリーなどという人物はいらっしゃいませんし……、まさか、隠し子?
「あら、ほんとにご存知ないようね。……ざんねんな人」
ぐさっ……!
「アナタも伯爵令嬢でしょうに、しっかりなさいな」
ぐさっぐさっ……!
「そんなことでは、次期領主夫人として失格ですわよ」
完 全 敗 北
オホホの笑い声が頭を駆け回ります。大量の紫ウェーブがオクラホマミキサーです。変われども変われども、相手は紫ウェーブ……ぶくぶくぶくぶく。
「そうさ、君に領主夫人としての資格は無い。今日、この場で婚約破棄させてもらおう」
「あらお可愛そうに。このような大衆の面前で婚約破棄だなんて……、女として終わりよ」
ああ、これが婚約破棄ですか……。どこかの国では流行りつつあると聞いていましたけど、まさか自分に降り掛かるだなんて……。
「君には辺境に行ってもらう。近頃、新たな賊が現れたとかで四苦八苦している村だ。そのご自慢の頭で解決してみせるがいい」
「馬車はすでに手配しているわ。荷物はいらないでしょう?」
もう知らない。大衆の面前で白眼を剥いていようが、何を言われようが、わたしの知ったことじゃない。常に敵に囲まれ、小言を言われ、1つの失敗に怯え、1人になる自由も与えられない。
こんな貴族社会、わたしから願い下げだ。
「早く行かないか、このあとには僕とロザリーの婚約発表があるんだ」
「マヌケな顔を曝し続けても、滑稽なだけよ?」
それからのことはあまり覚えていない。気がつけば雑に馬車へと放り込まれて、敷物のないイスにお尻を痛めていた。揺れる視界で月夜を眺めるわたしの頭には、これからの行く末が目まぐるしく流れていく。
明日は完成した橋の御披露目に出席しないとだし、わたしが所属する派閥のお茶会もある。そういえば、王女殿下が遊びに来たいだなんて言ってたっけ。早くお返事を出してあげないとスネちゃうかな。
まあ、そんなことを考えても辺境へ送られるわたしにはどうしようもない。ナタナエルに任せれば大丈夫……、なわけないか。
「これで今までの努力も無駄になっちゃった。作法とか勉強とか、お茶会も、いろいろがんばったのに……」
侍女たちと一緒に庭の土で汚れていたわたしの下へ、次期領主との縁談が舞い込んでからというもの、領地を支える人間として必死になって生きてきた。
そうして積み重ねてきた努力が崩れ去り、取り返しのつかなくなったいま、わたしはどこか不思議な解放感にホッとしている。
「こんなだから領主夫人に相応しくないって言われるのかな。やっぱり、わたしには向いてなかったんだよね……」
もしもできることなら、今度はなににも縛られることなく、自由なわたしとして生きてみたいな……。そしたら『あの人』とも……
「エドワール……」
月夜に決して叶わない願いを零していると、とつぜん、馬車が大きく揺れた。ガタガタと鳴り響いていた音は次第に無くなり、なぜか馬車がどんどん傾いていく。
窓に映るのは去りゆく崖。全身が浮遊感に包まれて「あ、おわった」なんて思う間もなく、馬車は一瞬にして川の激流に呑み込まれてしまった。
霞む視界には苔むした緑が見えるけど、体の感覚が無い。……あ、誰かの人影が見える、助かった!
近づいてくる人影が手を差し伸べてくれる。
むむ? この手袋の紋章、どこかで……
あっは~ん、わたし、おわったな。がくっ……。