1話 貴族社会のわたし
この領地には3つの伯爵家が存在する。
領主を任される『緑』の伯爵家。
領地騎士団を束ねる『青』の伯爵家。
そしてわたしが生まれた『赤』の伯爵家。
緑に領主の座を奪われてから早幾年、赤の伯爵家はその派閥の規模から2番の地位を任されているが、断じてその地位に落ち着いているわけではなく、常に領主奪還の日を虎視眈々と狙い続けていた。
「……女か」
そんな赤の伯爵家にわたしは女として生まれる。領主の座にしか目が向かない父からは産声と共に役立たずの烙印を押され、まともな教育も与えられず奔放な扱いを受けることが決まった。やがては財や権力を維持するために嫁に出される程度にしか出番はないと、命だけを繋がされていたのである。
無論そんな家事情が幼いわたしにわかるはずもなく、侍女たちと土を触る日々はとても楽しいと感じていた。しかし、いつまでも頭を空っぽにして生きていられるわけでもなく、『そのとき』は突如としてわたしの日常に訪れる。
「我が娘よ、そなたは緑の子ナタナエルとの婚約が結ばれた」
父の執務室に初めて呼び出された8才のわたしは、そこで未来の旦那様を告げられた。なんとなく家族が変わるのだとはわかったけど、1人で育ってきたわたしには何の感想も湧かない。
今日はどんな花冠を作ろうかと考えていると、隣にいた顔見知りの兄(?)が疑問を投げ掛ける。
「しかし父上、妹は青のエドワールとの婚約が進められていたはずですが」
「緑の次期領主として育てられた子が謎の変死を遂げたそうだ。そこで急遽ナタナエルが長子となり、跡を継がせるためにレタ……、レティ……、我が娘を欲した」
ナタナエルを次期領主にするのはわかるが、通常ならば同じ派閥の令嬢と婚約するのに、なぜわたしとの婚約話が持ち上がったのだろうか。
「奴らは赤を派閥ごと呑み込む腹積もりよ。領主の地位は揺るがないと愚考した頭が、婚約者も探しておらなんだアホゥのナタナエルに我が娘を娶らせようというのだ。なんとも滑稽、緑の怠慢ここに極まれり」
父の笑みを初めて見た。イスに寛ぎ大きな口を開ける様は実に豪快で、しかし、血に染まったような赤い目が鋭い闇を放っている。
「この機を喰らうは我ら赤の伯爵家だ。ナタナエルを使い、無様な奴らを叩き潰してやる。我を軽く見たこと、地獄の底から嘆くがいい!」
これが貴族。こんな黒い嗤いを平気でしてしまうのが、わたしの生まれた貴族社会なのだ。
「我が娘よ、その役目、存分に果たしてみせろ」
地獄が始まった。その日からあり合わせの机に貼り付けられたわたしは、2年後の学園生活へ向けて猛勉強を受けることになったのである。大好きな絵本を読めるようにと侍女が文字を教えてくれてはいたが、新しく家に招かれた教師は甘くなかった。
「早く起きろ!」
「背を伸ばせ!」
「手を休めるな!」
隣室からやってくるお婆さんに朝から叩き起こされ、おはようを言う前にペンを握らされる。令嬢としての作法というもののために、24時間の叱責がわたしに飛んでくるのだ。
それが毎日、2年間。同じ数だけ枕を濡らした。
2年の月日が経ち、10才になったわたしは貴族の子が通う学園に向かう。この学園では寮生活が基本になると聞いたわたしの喜びようは言うまでもない。ようやくお婆さんから離れられると舞い上がったわたしに……
「貴様が僕の婚約者か……、2番の分際で……」
また地獄が始まった。
緑の髪をしたナタナエルは、赤い髪を持つ生徒をすれ違いざまに貶すようなお坊ちゃまだった。特にわたしを目にすると顔を歪めて近づいてきて「2番の分際で」と笑い物にする。
最初からナタナエルは取り巻き達を従えていたが、日を追うごとに、わたしを笑い物にするごとに、その数は増えていった。長いものには巻かれろとはよく言ったもので、領主の長子となったナタナエルに逆らう者はおらず、むしろ好んで近づいていく始末。
あんな人間のどこに惹かれるのかと疑問に思うまでもない。彼らはナタナエルの『権力』に惹かれているのだ。
それが『貴族社会』。そこに生まれたからには決して逃れられない、血の呪縛である。
だけど、そんな地獄を過ごしているわたしだけど、心の安らぐ時間が1つだけあった。
「レティシア……」
わたしを名前で呼んでくれる唯一の人。
「エドワール……」
青の伯爵家長子、エドワール。騎士の家に生まれた彼はわたしの婚約者候補であったこともあり、幼いころから付き合いを重ねていた。土に汚れていたころから知ってくれている彼の前では、わたしも本当の自分に戻れるような気がする。
「忘れるな。オレが近衛騎士になれた日には、ずっとそばで守ってやるから」
その言葉にどれだけ救われただろう。
その言葉で流す涙は、本当にしあわせだった。
卒業式。……わたしはもう、限界だよ。
15歳の成人を迎えたわたしは、この日から領主邸で過ごすことになる。
「おい2番、仕事だ!」
「おい2番、代わりにやれ!」
「おい2番、お前のせいで!」
もう、何も感じない。ただ次期領主の仕事を代わりにこなし、貴族の顔色を窺いながら八方美人を演じる。
ただ失敗したくないから。
ただ怒られたくないから。
ただそれだけが、わたしに与えられた役目だから。
そしてついに、あの夜がやってくる。