露見
―――翌日。
(……今日の彼女はどんな顔してるかな♪)
紫苑は始業から一時間以上も早い七時五五分に登校した。この時間帯に登校している生徒は殆どおらず、学校は静まりかえっている。教室の前まで来ると、流行る気持ちを抑えてそーっとドアを開ける。
この瞬間はいつも心臓がドキドキする。
僅かに開いた隙間から覗き込むと、教室の中、最前列の一席には、一人の女の子が胸に手を組んで目を閉じ、お祈りを捧げていた。
背中に届く程のストレートの黒髪は絹のように滑らかで僅かな癖も無い。身長は同世代の女子の平均。非常にスラリとした細身の体格をしており、体重は相当軽いだろう。しかし決して不健康というわけではなく、学校は無遅刻無欠席。胸は少し控え目だが体格が華奢なので相対的にバランスは良い。
性格はかなり大人しい。物静かである。自分以外の男と話している姿は見たことが無い。いつも黙々と勉強している真面目な努力家。志望大学は東京大学。応援してあげたくなるタイプである。
そして顔立ちだが、これが素晴らしく綺麗なのだ。月明かりのように綺麗で、可憐で、穢れが無い。整い過ぎているくらい整い過ぎている。こういった顔立ちは時に人形のように冷たく見えてしまうこともあるものなのだが、彼女の場合はそれを回避するアクセントが存在する。縁の無い大きな丸い眼鏡をかけているのだ。彼女は眼鏡っ娘なのだ。
眼鏡がどこか野暮ったいのがポイント。整い過ぎた顔立ちにちょっぴり欠点が入ることで魅力が引き立つ。眼鏡をしている時はどこか可愛い。眼鏡を外すと華のように可憐。
これは完璧な芸術だ! と顔を見る度に紫苑は拳に力が入る。
胸の前で手を組みお祈りの仕草は一つ一つが清純で美しい。彼女の上品で慎み深い性格が浮かび上がっている。窓から差し込む朝日に照らされる彼女を見ていると心が洗われるようだ。
(……委員長、今日も可愛いなぁ♪ お祈りしている時の横顔が一番可愛い。僕にこんな元気をくれるなんて、聖女様みたいな女の子だよね♪ 勝手に委員長なんて設定にしてゴメンね♪)
実は彼女は学級委員長でも何でも無い。このクラスの委員長は自分だ! 眼鏡っ娘というのはネットでペロペロ神として書き込みする為に付けたニックネームである。真面目な眼鏡っ娘だから委員長。そういう風に分かり易く記号化されている方が読み手は分かり易いのだ。ネットで人気を得るにはそういう気配りが寛容。
家族構成なども全然知らないが、一流企業に勤務する父親を持ち、玉のように可愛がられて育った上流家庭の一人娘だと勝手に決めてネットにも流布している。
(……さて、早速今日の日課を果たさなきゃね)
覗き見に満足した紫苑は、教室の後ろのドアに回って中に入り、窓側の列の真ん中にある自分の席に着いた。いくら静かにしていても二人きりの教室である。自分が来ていることに向こうは気付いている。しかし背中を見せている以上、何をしているかは向こうには分からない。性懲りも無くスマホを取り出すと、いつものように盗撮を始めた。
(……パシャっと)
そしてそのままつぶやきを始めた。
『今日も委員長と二人っきりだぜ』
『向こうは澄ました顔してるけど、頭の中は発情した猫みたいになっているに違いない』
『全く、困った子猫ちゃんだな。俺で良かったらいつでも相手してやるにゃん』
『俺はライオンさんになっちゃうぞ、がおー』
朝からこんな欲望丸出しのつぶやきをしているにも関わらず、スクリーンを覗く表情はニコニコとしていて悪ぶったところが無い。まさかこの男がネットをざわつかせている変態性欲魔神ペロペロ神の正体であるとは誰も夢にも思わないだろう。
(……こんなことやってるのがバレたら本気でマズいなぁ。せっかく一年間もかけて僕達の関係を築き上げてきたんだから。でもやめらんない♪ ペロペロペロペロ!)
こんなことを始めて、もう一年近くになる。
一年間、毎日毎朝一時間も同じ教室に二人っきり。この積み重ねは生半可ではない。
そして紫苑は学年でぶっちぎり第一位の成績を誇る天才中の天才。対して彼女は秀才だが文系で理系科目を苦手とし、偶に数学などで分からないこともある。そういう時は自分の出番だ。何の下心も無いような親切な顔して教えてあげる。放課後に図書館で一緒に勉強したこともあるし、掃除の時間はさりげなく重い物を持ってあげたりもする。
こうして一年かけて用意周到に「頼りになる親切な男の子」という理想のイメージを作り上げてきた。その正体がペロペロ神などということがバレたら何もかもがブチ壊しである。
だが、こういうストーカー紛いな変態だからこそ、紫苑の彼女に対する洞察力は本物なのだ。
(……むむ。あの後ろ姿、あれは何か僕に助けを求めている。お祈りが終わったら真っ直ぐ僕の所にくる!)
まるでベテラン夫婦か超能力かのように彼女の機微を察するのだ。今、彼女は自分に用事がある。しかもかなり重大なものだ! 彼女が自分に用事があるなら、答えねばなるまい。彼女が話し掛けやすいよう、空でも見上げながら何もせずに待つ。
落ち着いて待つこと少々。彼女が胸の前に組んだ手を離し顔を上げた。席を立ち上がり、クルッと向きを変える。自分の元に歩み寄ると、いつもと同じように親しげな笑みを浮かべた。
「おはよう、新条くん♪」
「やあ、おはよう」
(……こんなに可愛らしく僕に話しかけてくれるなんて。。理想の女の子だよね♪)
彼女の名前は、瀬川 楓。
紫苑の初恋の女の子で、今も好きな女の子で、この先もずっと同じ。赤い糸で結ばれた運命の女の子である。
「あのね、教えて貰いたい事があるんだけど、良いかな?」
「うん、いいよ♪」
(……嬉しいなぁ。彼女の為なら僕、どんなことだって頑張っちゃうぞ! でも最近思うんだよね。僕達って既に両思いだったりするんじゃないかな?)
紫苑はいつも思っていた。これは自分の片思いではなく、両思いではないのだろうか? だって、彼女はこれほど親しく話し掛けてくれるのだ。両思いでも不思議は無いと思いたい。
だが、どれほど注意深く観察しても、紫苑には決定打が無かった。だから今日もモヤモヤした気持ちを抱えながら彼女の話を聞く。慌てることは無い。まだしばらく、当分の間は、今のような関係が続けば良いと思っていた。
「実はね、新条くんならこれに詳しいと思ってね」
口元に嬉しそうな笑みを浮かべる彼女の胸元には、両手で大事そうにスマートフォンが握り締められていた。こうした仕草の一つ一つが可愛らしい。落ち着いた流麗な仕草で何らかのアプリを起動して、紫苑に見せた。
(……えっ?)
その画面は紫苑にも見覚えがあり、そして背筋が凍り付いた。
「凄いね、このアプリ。神懸かり的に正確な数字が出てくるの。実験してみたんだけどね、まるで女の子を全裸にして精密検査したみたいに正確だよ。よっぽど頑張って作ったんだね。こっちも見て欲しいんだ」
楓は淡々と語った上でまたスマホを操作すると、今度は違う画面を表示した。その画面も紫苑には見覚えがあるものだった。
『委員長みたいな真面目な子に限って一端好きになると夢中になるに違いない!』
『今頃家では俺のことを考えて一人身を焦がして悶えているのかと思うとハァハァ』
『デパートで黒い下着を発見したぞ! 委員長みたいな子が実は黒い下着を着ているってのも燃えるパターンだよな。画像加工に使えそうだ。写真撮っておくか』
『スリーサイズも判明したし、委員長の3Dモデルを作ったぞ。どんな姿勢でも取らせることが出来る。これ凄ぇな。このままエロゲーに転用出来るぞ』
『3Dプリンターがあれば委員長のおっぱい触り放題だ』
『委員長にご奉仕して貰いたい』
『ペロペロチュッチュペロペロ』
(……ブーッ!?)
何故バレた!? 特定されないように細心の注意を払ってきたのに!? 何とかしらばっくれたいと思ったが脂汗が止まらなくてマトモに言葉を紡ぎ出せない。急激に喉が渇いてゴホゴホと咳き込んでしまう程だった。
「凄い技術力だね。ここまで出来る高校生は日本中探しても新条くんだけだと思うよ。でもね、女の子の写真や声を勝手に保存して切り貼りしてエッチなことに使うって十分に犯罪なんじゃないかな? モーセ様が神様から貰った十戒の六番目には、あなたは姦淫してはならないと書かれているんだよ?」
(……あうあう)
「こんなことしてるのがバレたら一体どうなっちゃうんだろう? 警察出動? 逮捕されなくても学校中の有名人になっちゃうね。男の子から見たらヒーローかもしれないけど、女の子からはどういう視線で見られちゃうのかな? 残りの高校生活を学校中の女の子から白い目で見られ続けて送るなんて、そんなの新条くんは嫌だよね? 私も下着を履いた時にはみ出しているお尻の面積まで親切に算出してくれた数学が得意な新条くんがそんなことになるのは嫌だなぁ。でも新条くんが私の大事なお願いを聞いてくれるなら黙っていても良いかも」
脅迫!? まさか!? 清純で虫も殺さないような女の子じゃなかったの!? あの彼女がこんな蒸し暑い夏の雨のように纏わり付くサディスティックな物言いをしてくるなんて!?
「大丈夫? 顔が真っ青で体が超音波振動みたいに小刻みに震えてるよ? おかしいな。ついさっきまでそこにいた発情した子猫ちゃんを目の前にしたライオンさんはどこに行っちゃったのかな? 貴方の獲物の子猫ちゃんはここにいるよ? にゃ~ん」
楓は上目遣いに様子を見つつ、手首を曲げてネコ科動物のようなポーズを取るが、もちろんそんなことに喜んでいる場合ではない。
「がおーって言わないね。困ったな。ライオンさんに元気が無くなっちゃった。でも大丈夫。私は何度でもやってあげるよ。新条くんが元気になるまで、何度でも」
楓は紫苑の耳元スレスレに顔を近づけ、唸り声と共に甘い息を吹きかけた。
「にゃ~ん」
「ヒィィィッ!?!?!?」
「良かった。元気になったね」
ゾワッと鳥肌が立つ。これが委員長の本性? 嘘でしょ!?
「もうすぐ他の子が登校してきちゃいそう。このことはもちろん私と新条くんの二人だけの秘密にするね。そうしなければ新条くんは残りの高校生活どころかその後の人生まで全部台無しになっちゃうもんね。それで良いよね?」
「は、はい……」
「良かった。神様はいつでも新条くんの事を見ているからね。この広島と長崎に無慈悲に投下された核爆弾のような秘密を守っていく為には他にも色々と作戦と約束が必要になるね。続きは放課後で良い?」
「う、うん……。だ、大丈夫だよ……」
「神様はいつも新条くんの側にいるよ。自信を持って、元気出してね。あ、それから……」
最後に一言を付け加えた時の楓の笑顔は、正に委員長という設定がピッタリな清純で一点の澱みも無い透き通ったものだった。
「そのアカウント、一生消しちゃダメだからね」
こうしてペロペロ神の正体がバレた。
以後、惚れた弱みに付け込まれた主人公がひたすらヒロインの世話をし続ける展開で進行します。