第十一話 「【拡張領域】」
跳ぶ。跳ぶ。
連なる屋根の上を高速で駆け、跳ねる一つの影。
メメルは、猫のように俊敏な動きで街を縦横無尽に駆け回っていた。
斥候に強く求められる要素の一つとして、機動力がある。
例えば敵に発見されたときに無事退却したり、時に戦闘の時に先手を取るために重要なファクターであるそれを、メメルは猫人族という種族であるがゆえに生まれつき備えていた。多大な訓練を積んだ人間を容易に置き去りにするほどのそれを。
時に大胆に通りの上空を通り過ぎるも、気づく人間は一人としていない。当然だ。何しろ速すぎる。その速さたるや、広大なガルムエントの街を単純に横断するだけならば一時間を要しないほど。およそ一般人の目が追える速度ではない。
そしてメメルは、速さとは別に一つの才能を有していた。
それは長い森でのサバイバル生活が開花させた、恐ろしく正確な空間把握能力である。
「…………」
メメルは屋根の上を飛び回りながら、瞼を閉じる。
視覚に味覚、聴覚に嗅覚といった今必要ではない五感を悉く遮断。代わりに触覚に全神経を費やす。
鋭敏になった触覚は、肌に触れる空気の揺れ──街中であれば否応にも発せられる雑踏の音、喧噪の音の反射によって、どこに何があるかすらを把握可能。半径にして50mにも及ぶ区間の悉く、何処で何が起きているかをメメルは誰より正確に感知できる。
【拡張領域】。
メメルの類い稀なる才能が彼女に保有を許した固有技である。
発動と維持に恐ろしく敏感で繊細な集中が必要であるが、メメルが集中を持続させている間の半径50mこそが、彼女が最高の斥候足りうる絶対の領域であった。
そのテリトリーを展開したまま、メメルが暫く暗闇の中を走っていると。
「…………──!!」
そのセンサーに引っかかるモノがあった。
彼女の感覚にとらえられたそれは、不定形の靄のようなもの。サイズは人が三人は入れそうなほど大きく、空中に浮いている。そこから一本の太い異形の腕が生え出ており、今まさに近くにいる怯える男にその手を伸ばさんとしていた。
メメルの足は、あらゆる思考を置き去りにしてエイリアスの元へと駆けていた。
敵を発見したがゆえに不要になった領域を解除し、全力で足を動かす。
靄の前にへたり込んでいたその男が、きっと死んでしまうだろうこともメメルは理解していた。
だが、メメルが何よりも弁えていたのは自分が斥候であること。
自分は正義の味方でもなんでもなく、彼に命じられた任務を正確に遂行する機械なのだという自覚が、彼女を何よりも先にエイリアスの元へと走らせていた。得た情報を何よりも早く、無事に届けること。それこそが斥候の資格だと、メメルは一流の斥候として、思考の根元に弁えていたのだ。
メメルの戦闘の実力そのものはどれだけ背伸びしても『銀』クラス。『銀』に匹敵する《黒曜騎士団》の面々が四人同時に殺された事実を知った今、メメルに『単独で靄の前に身をさらす』という選択肢はない。その選択がどれだけ慈悲深く正義のように見え、その選択を払いのけることがどれだけ無慈悲で残酷なことだとしても。
屋根の上を文字通りの最短距離で突っ走り、あと数秒でエイリアスの元へとたどり着く──その時だった。
「!?」
メメルの直観が、突如激しく警鐘を鳴らした。
背後から何かくる──その事実を、理性よりも先に本能が訴えた。
無防備な背中に迫る脅威を、空中で身をよじって回避。
無理な回避をしたせいで体勢が大きく崩れ、墜落した屋根の上でごろごろと転がる。
素早く顔を上げて視界を確保すると、そこには想像通り──腕を生やした、闇よりも昏い靄が、ただ在った。
「…………にゃぁぁぁっァぁぁァァああああ!!!」
叫ぶように大声で鳴いて、腰に付けた革の鞘から短剣を抜き取り、ポーチから薄く広い布を取り出す。
今の叫びでエイリアスたちは自分の場所を知ったはず。ならば、彼らがここに来るまでの数十秒──それが自分の勝負所だと、メメルは早々に断じた。
「ryさjhjうぇr:4rp0439jfxjにdcぁmdヵrふhwqdあgrづ──!!!」
声にならない、形容できない雑音をまき散らしながら迫る靄をメメルは細い眼で睨み──刹那の後、それは衝突した。




