同僚の女の子が急に自分のことを僕と言い始めた理由 底辺企画晒し中
満員電車に揺られながら、海を眺めていた。
お世辞にも綺麗とはいえない海。ここからじゃ見えないが、砂浜には観光客が残していったゴミもある。
あまり綺麗ではない海。
でもあの海は私の青春だった。
〝冬也〟
初恋の人の名を呟く。誰にも聞こえないよう口の中で小さく呟いただけなのに、誰かに聞かれてしまったかのように頬が微かに赤らんだ。
〝もうすぐ三十路突入なのに、私の恋愛観はあの夕暮れの海で。自分のことを僕と呼んでた時代で止まってしまっている〟
女のくせに男の子と一緒に遊びたくて、自分のことを僕と呼んでた幼稚園時代。男の子と偽って自分のことを僕と呼んでた幼稚園時代。
僕が混じる男の子の輪には、いつも冬也がいた。
小学校時代、クラスの乱暴な男子に殴られそうになった時、冬也が庇ってくれた。
あの時、冬也の背中が広く見えて、自分が女の子だと言うことに気づいてしまった。。
それでも僕は、自分のことを僕と言い続けた。
私と言ったら、冬也との関係が壊れてしまうようで怖かったからだ。
この関係が永遠に続くのなら、僕はずっと僕でよかった。
──永遠なんてないのに。
高校時代。僕はもう限界だった。
冬也のことが好きすぎて、毎日冬也のことばかり考えていた。
気づけばいつも冬也の姿を探してしまう。
冬也を見つけるのは簡単だった。
外国人のように彫りが深く背の高い冬也は学校の王子様で、いつも女子や男子に囲まれていたからだ。
女の子に囲まれてデレデレしている冬也を見ると、腹が立つやら悲しいやら頭がおかしくなりそうだった。
それにひょっとしたら取り巻きの女の子に冬也が取られてしまうじゃないのかと思って、不安で仕方なかった。
出来ることなら、取り巻きの輪を崩して、冬也の手をとって逃げてしまいたかった。
でも僕にはそんな勇気はなかった。
〝大丈夫、僕には二人だけの時間があるから〟
僕と冬也には二人だけの時間があった。
高校生になって剣術に凝りはじめた冬也は剣の修行のため、毎朝砂浜を走るのを日課にしていた。
陸上部だった僕はそれを聞くと、すぐに自分も走ると言い出した。
「──僕結構走るよ、夏海ちゃん。部活であんなに走ってるのにオーバーワークにならない?」
「県大会で優勝している僕のスタミナを舐めるなよ、冬也」
と、啖呵を切って僕は冬也の隣を走り始めた。
冬也の馬鹿は道着を着ているくせに、僕よりも早くゴールである灯台に辿り着いていた。
「陸上部でもないくせに、なんでそんなにスタミナがあるんだ馬鹿」
僕は息を切らしながら抗議する。
「これでも結構鍛えているし、僕も一応男だからね。女の子の夏海ちゃんには負けられないよ」
──君が男の子だってことぐらい知ってるよ、ばかぁ。
僕は心のなかで呟いた。
「コンビニでジュース買ってくるよ。夏海ちゃんは何を飲む」
「──ポカリ」
冬也は背を向け、コンビニにジュースを買いに行った。
僕は冬也の広い背中を見つめながら、明日あの背中を追い越したら告白しようと決心した。
決戦の金曜日。
ストレッチをして、朝の寒さで固くなってしまった体を入念にほぐした。
僕の決心を知らない冬也は、いつもと同じように準備体操の一つもしなかった。
「冬也、準備体操の一つぐらいしたらどうなんだ?」
「家で軽くしたから大丈夫だよ、夏海ちゃん」
「僕はここに来る途中、軽く走ってウォーミングアップまで済ませてきた。今日の僕は負けないぞ」
「それは怖いな、夏海ちゃん」
冬也の口調はいつもどおりお気軽な感じだった。
僕の方はといえば、心臓が壊れるじゃないかと思うほどドキドキしているのに。
──ムカつく奴め。
僕は怒りを抑えながら、冬也はいつものお気軽なスマイルを浮かべながら走りだした。
準備体操も、ウォーミングアップもしっかりとこなしてきたというのに、体の調子の方は今イチだった。
〝昨日、ドキドキしすぎて眠れなかった成果、完全に寝不足状態だ〟
なんの準備もしていない冬也といえば、いつもと同じように先頭を走っていた。
むかつく背中だ!
冬也の速度が突然落ちた。冬也は僕と並ぶと、「あれいつもより遅くない、夏海ちゃん」
といいやがった!
「誰のせいだと思ってるんだ馬鹿!」
「へっ!?」冬也の顔に?マークが浮かんだ瞬間、僕はありったけの力を足に込めてかけ出した。
「ちょっと待ってよ、夏海ちゃん!」冬也の馬鹿は慌てて僕を追いかけてくる。
「誰が待つか馬鹿!」
絶対に負けない。
十六年間、僕は君の背中を追ってきたんだ。今日こそ、君を追い越して、僕を卒業するんだ!
「と思ったのに、もう追いつてくるな馬鹿冬也!」
冬也もいつもよりも息を切らしていたが、それでも僕の背中を捉えていた。
「勝負である以上、そう簡単に負けられないよ、夏海ちゃん」
冬也の声はすぐ後ろに迫っていた。
──まずい。このままだと抜かれる!
「喰らえ砂嵐アタック!」
僕は後足で思い切り砂をかけてやった。
「うわっぷ! ちょっとそれ卑怯じゃない、夏海ちゃん?」
「剣術はなんでもありだって、お前がいつも言ってるだろう!」
──今日はいつもの僕じゃなく、恋する女の子だからなんでもありなんだよ!
僕は心のなかで絶叫する。
肺が苦しい。
心臓が破裂しそうなぐらいドキドキしている。
もうどうでもいいやって、全部放り出して、走るのを止めたい。
でも──
──今走るのをやめたら、一生後悔する。
「根性だせ、神薙夏海!」
ありったけの根性と体力をかき集めて、灯台へ──。
──灯台で、冬也に告白するんだ。
それで冬也が僕の告白をウンと頷いたら、僕を卒業して履きなれないスカートはいて遊園地デートして、夕暮れをバックにおでこあたりにキスしてもらう。
もしあの馬鹿が僕を振ったら、滅茶苦茶に泣いて冬也をボコボコにしてやる!
そう決めた。
だから僕はこのまま灯台にゴールするんだ。
僕の肺の苦しさが増すとともに、灯台はどんどん大きなっていた。
冬也はまだ僕の後ろにいる。
このまま逃げ切って、告白するんだ。
なのに、最後の最後で冬也は僕を追い抜いた。
「──そんな」
そう言いたかったが、息が苦しすぎて何も言えなかった。
僕は芝生に膝をついた。
今は何も考えられない。
──まだ明日がある。明日勝ったら告白する。
「──夏海ちゃん」
冬也が僕の名を言った。
僕は冬也の方を向いた。冬也の顔も汗塗れで、息も切れていた。
「僕、塔子ちゃんと付き合うことにしたんだ」
冬也は僕の幼なじみの名を口にした。
──嫌なこと思い出したな。
いつの間にか海は見えなくなっていた。
車掌が、私の降りる駅の名をつげる。
電車のドアが開き、冬の冷たい空気が侵入してくる。
私は人混みに押し出されるように、外に出た。
よく晴れた冬晴れの空が眩しかった。
駅を後にして、会社に向かって歩き出した。
途中のコンビニで昼飯用のパンと切れてたタバコを買った。
冬也に負けた日から、真面目に走ってない。
部活には在籍していたが、二年になる頃には幽霊部員となっていた。
走ることと、冬也に熱中していた時はタバコなんて絶対吸わないと思っていたのに、大学を卒業する頃にはすっかりニコチン中毒になっていた。
彼氏のようなものがいた時期もあったが、どうしても冬也のことが忘れられなくて長続きしなかった。
おかげで二十九歳になる今も処女だ。
こんな年で処女なんてなんの自慢にもならない。
ただ重いだけだ。
重いだけの寂しいおばさんになりつつある。
自分がちょっと哀れに思えた。
「──私には仕事がある」
そう口の中で呟いて、己を慰めた。
吹けば飛ぶような中小企業だが、その分人がいないせいか仕事をすればするほど認められるのも早かった。
これと言った趣味もなく、男もいない私は仕事にのめり込んだ。
その結果、同期の中では一番早く主任になれた。
女ながらに大きな仕事を任せられてる。
このまま出世を重ねて、一人用のマンションでも買って老後は慎ましく生きるんだ。
そう思いながら、職場のドアを潜った。
気のせいか、いつもより職場が華やいでる気がした。
後輩の事務の女の子たちもざわめいてる。
見慣れぬ男が係長と話していた。
広い背中をした男だ。
見慣れぬ男は振り向いた。
「──あれ夏海ちゃん?」
「──冬也」
見慣れぬ男は冬也だった。
「何故お前がうちの会社にいるんだ!」
昼休み。私は会社の食堂で冬也を問い詰めていた。
「──いやぁ、うちのオンボロ道場がいよいよガタが来ちゃってね。ちょっと道場閉めて修理することになったんだよ。それでまあ道場閉めて暇な間、派遣社員にでもなって少しでもお金を稼ごうかなと。道場の修繕費、全部塔子さんに出してもらうわけもいかないしね」
「当たり前だ! お前の道場は修繕費すらも賄えぐらい儲かってないのか?」
「うん。僕のお小遣いがやっとぐらいかな」
「まさか塔子のヒモやってるのか」
塔子は外資系の企業に勤めているバリバリのキャリアウーマンだ。男一匹飼うぐらいどってことない。
「いやだな、夏海ちゃん。主夫と言ってよ主夫と」
冬也はヘラヘラ笑いながら答えた。
「それを世間ではヒモというのだ、バカモン! それとお前もうちの会社に入ったんならケジメをつけろ、ケジメを。これでも私はこの会社の主任なんだから」
冬也は急に顔を改めると「はい、申し訳ございませんでした神薙主任」と言って頭を下げた。
「──わかればいいだ。わかれば」
私は自分の顔が赤くなってるのがバレないようそっぽを向いた。
冬也が会社に来てから一週間すぎた。
冬也はそこそこに仕事ができ、愛想もよく顔もいいので、男子からも女子からも好かれた。
一部の女子などは冬也が結婚しているのを知ってるくせにコナをかけようとしてる。
「──まったく今時の若い奴は男にしか興味ないのか」
私がイライラしながら仕事をしていると、「主任、今日の飲み会参加します?」
椎名という巨乳だけが取り柄の腰掛けOLが話しかけてきた。
「飲み会って、なんの?」
「なんのって決まってるじゃないですか、瀬尾さんの歓迎会ですよ」
「冬也の歓迎会だぁあ?」
「ええ、派遣社員といえども、歓迎会開くのはうちの会社の伝統じゃないですか?」
「参加は強制じゃないだろう。私は見たいドラマがあるからパスだ」
「あれ? 主任ってテレビみない人じゃなかったでしたっけ」
仕事はよくミスするくせに、つまらない事だけはよく覚えていた。
「──私だってたまにはドラマぐらい見る」
「そうですか。まあわかりました。主任は今回不参加ですね」
椎名はメモに私が不参加であることを書きこんでると、係長とお供をしていた冬也が戻ってきた。
「あっ、瀬尾さん!」
椎名は無駄にでかい胸を揺らしながら、甘ったるい声をだした。
この女、不倫する気マンマンだぞ。
「──おい、椎名」
「はい主任、何ですか?」
「やはり私も参加する」
冬也も塔子も気に食わないが、二人の間には子供が生まれたと聞く。
子供には罪はないから不倫は阻止しないといけない。
一次会は居酒屋だったが、二次会からはカラオケだった。
「瀬尾さんどうだった? しぃのさくらんぼは?」
「いやぁ、大塚愛が歌ってるのかと思って、思わずステージ二度見しちゃったよ」
冬也は昔と同じように適当だった。
「やだぁ、しぃそんなに歌うまくないもん」
椎名は発情した雌豚みたいな声を出すと、冬也の腕にでかい胸を押し付けた。
──このドブスめ。
「おい椎名、次私が歌うぞ! マイクよこせ、マイク」
椎名からマイクを奪い取ると、浅川マキのふしあわせという名の猫を入れた。
酔っぱらい共であふれてる個室に、女の情念を込めて切々と歌いあげてやった。
「おうさすがお局街道まっしぐらの主任ですね、歌声に怨念こもってますよ」
酔っ払った私の部下が野次を飛ばしてきた。
「うるせぇえ、お前なんか彼女に捨てられちまえ」
私は言い返すと、部下が持っていた焼酎のボトルを奪い取った。
冬也の周りに群がってる女共を追い払うと、「おい冬也飲んでるかぁ!」
と怒鳴って、焼酎のボトルをテーブルの上にどんと置いた。
「そんなに乱暴に置いたら危ないよ、神薙主任」
「幼稚園の頃からの幼なじみ相手に主任をつけるな!」
「じゃあ、夏海ちゃん」
冬也は微笑みを浮かべながら、私の顔を見つめた。
わたしの頬に酔以外の赤みが増した。
「──この女たらしめぇ! お前みたいな奴がいるから女が泣くだよ! 今日はとことん飲むぞ、冬也」
──うん。冬也は頷いた。
それが最後の記憶だった。
気づくと夜の海が見えた。
冬也といつも一緒に走っていた海だ。
今の私は走ってはいなかった。
いつも追いかけていた暖かくて広い背中に運ばれてる。
このまま冬也の温度を感じていたかった。
「──冬也」
「飲み過ぎだよ、夏海ちゃん」
「うるさいばかぁ。お前のせいで僕は飲みたくもない酒を飲んでるだばかぁ」
酔いのせいか。
夜の海のせいか。
それとも冬也におんぶされているせいか。
私は僕に戻っていた。
あの頃には戻れないのに。
冬也が私の物にはけしてならないのに。
「──冬也。塔子と結婚して幸せか?」
うん。冬也は優しい声で頷いた。
「そうか──」
私はそう言いながらも、灯台を見つめていた。
灯台はすぐそこに建っていた。
「──冬也、競争するぞ」
「えっ、そんなに酔ってて走れるの、夏海ちゃん?」
「うっさい馬鹿ぁ! 冬也、僕を舐めるなよ」
僕は冬也の背中を降りた。あの時以上に体調は悪かった。
でも走らないわけにはいかなかった。
「冬也走るぞ!」
そう叫んだ時には僕は走りだしていた。
「走るか! 夏道ちゃん!」
冬也も僕の後を追ってかけて行く。
あの時と同じだ。
違うのは、僕も冬也も年を取り、別の方向にむかって走ってる
ちょっとした偶然が重なって、僕はまた冬也と駆けていた。
「今回は絶対僕が勝つ!」
それであの時できなかったことをするんだ。
「今回も僕が勝たせてもらうよ、夏海ちゃん!」
後ろから冬也が叫ぶ。
酒のせいでお互い足はふらふらだった。
しかし今も道場で鍛えている冬也と、タバコをバカスカ吸ってる僕とじゃ勝負にならない。
「それでも僕が勝つ!」
僕はあの時と同じように後足で砂を蹴った。
「砂かけアタック!」
冬也は酒に酔ってた成果、思い切りコケた。
「ザマァ見ろ、冬也!」
冬也はすぐに立ち上がって、僕を追った。
タバコのせいで、肺が死にほど苦しかったけど、それでも僕は懸命にかけた。
冬也の気配はどんどん迫っていきた。
灯台はもうすぐそこなのに、このままだと抜かれる。
「夏海大ジャンプだぁ!」
僕は地を蹴って、灯台目指して飛んだ。
大した距離は飛ばなかったが、それでも冬也よりも先にゴールをした。
「──冬也、今回は僕が勝ったぞ」
冷たい土の温度を感じながら呟いた。
「今回は僕の負けだよ、夏海ちゃん」
僕は土まみれの顔を上げた。
あの時告白できなかったことを。
僕の止まっていた時を、動かす時だ。
「冬也、僕はお前のことが好きだ」
冬也は僕の言葉を噛みしめるように一拍置いた後、
「──ごめんね夏海ちゃん」
冬也は予想通りの答えを返した。
僕はむくりと立ち上がると、夜の海にむかって、
「冬也の馬鹿野郎!」と叫んでいた。
夜の海は僕の想いを受け止めてくれた。
「──冬也、ちょっとこっちに来い」
「なに、夏海ちゃん」
冬也が近くに寄ってkると、僕は冬也を抱きしめ声を上げた赤ん坊のように泣きじゃくった。
あの時できなかったことが、今できた。
「──夏海ちゃん」冬也は優しく僕の頭を撫でてくれた。
──これじゃあ、冬也のやつをボコボコにできない。
「──冬也」
「なに夏海ちゃん?」
僕は顔をあげると思い切り吐いてやった。