3話、始まりとカップ麺
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「あ、あと、あとは、なにをすれば、良いんでしょうか……?」
見られていたと分かった瞬間、頬が熱くなる感覚に苛まれ羞恥心から何もなくなったテーブルに視線を落とし、自分でも面白いくらい言葉に詰まりながらサラさんに問いかけた。微笑ましそうに俺を見てクネクネと変な動きをしていた彼女は、問いかけにハッとした表情を浮かべすぐ姿勢を正す。
「そ、そうでした。ええと、えー、契約もしたし腕輪も渡したしあとはミツキさんをわたしの国に連れ帰る……じゃない。ええと、説明会にもあった通り今日はいったん家に帰り、必要な準備をしていただいたらわたしの国へ出発となります。明日のお昼頃お迎えに行かせていただきますね。ちょっと急かすようですが、最初の電話口でもお伝えしてあると思うので……。あとミツキさんのご自宅なのですが、政府が管理いたしましょうか?」
サラさんの言動はこれが通常運転なんだと思い込んで、俺は現在住んでいる安アパートに少しばかりの思いを馳せた。錆びだらけの階段は今にも壊れそうなほど軋み、薄っぺらい壁は普通の会話すら聞こえるくらいだし、二つ隣の住民は毎回怯えた表情を浮かべながらすぐに引っ越してしまう。
ないな、ないないない。政府に管理してもらうほどの場所でもないから、出来たら解約しておきたい。敷金礼金の返還を求めなければいけると思う。毎回引っ越してくる二つ隣の住民がそんな感じだし、耳の遠い大家さんにもそれとなく一応だけど話してはある。
「いや、できるならアパートは解約したいと思ってます。ある程度は荷物もまとめていたし、来てくれるの待ってますね」
「ぶっ、ふぁいっ!わっ、わたしはミツキさんのおはようからおやすみまでを担当するアドバイザーです!何に変えましても!わたしが!ミツキさんを!迎えに!行かせていただきます!では解約の手続きや面倒な諸々は日本政府に丸投げしますので、ミツキさんは大事なもの必要なものを腕輪に収納して待っていてください」
「は、はい、分かりました」
俺が安アパートは解約したい旨を伝えれば、サラさんはまた興奮した様子でテーブルに身を乗り出し、グッと握りこぶしを作り何度もうんうん頷く。いきなり身を乗り出してくるのは、俺の心臓が持たないのでやめて欲しい。サラさんは少し、いやカナリ中身が残念な感じだけど美人なんだから。
ふわっと彼女の微かに甘い香りが鼻腔をかすめ、一瞬俺の心臓が跳ねた。そんなはことないと自分に言い聞かせ、俺も何度も頷き返事をする。その後、小さなことは端折るとしていったん帰宅するため、盛大に名残惜しそうにしていたが多分ドワーフだろう小さな女の子に引きずられて退場して行くサラさんを見送ってから帰宅。
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外観からしてお世辞にも綺麗だとは言い難いアパートに帰宅した俺が向かった先は、耳の遠い大家が住んでいる一階の角部屋。そして大家が俺と顔を合わせた途端に話は付いてるからなにも言わなくていい、と。たしかにサラさんは面倒な諸々を日本政府が請け負ってくれると言ったが、早くないか?
ま、まぁ、仕事が早いのは良いことだと思い込もう。必要なものはなんでも入る便利なこの腕輪に収納すればいいんだし、要らないものはそれこそ日本政府が責任を持って破棄してくれるらしいからな。面倒なことがほとんどなくなったとなれば、早速俺は自分の部屋に帰って必要だと思うものをどんどん腕輪に収納していく。
「これと、これ、あとそれと、これは熱帯雨林で買えるから……いいか」
まとめていた衣類や、祖母が書き溜めていたお料理ノート数十冊、祖父が愛用していたカーボン製の高級釣り竿一式、両親や祖父母の遺影、使い慣れた料理道具など。手当たり次第しまっていたんだが、ふと異世界に行ったとしても便利な通販サイト熱帯雨林が使えることに気づいて我に返る。
まぁ要らないものは本当にゴミだから、我に返ったところで部屋を見渡せばなにもないに等しい。元々子供時代からなにに対してもあまり執着の持てない俺だったので、こんなものかと一息。つくづく数奇な人生だと思うが、これでも幸せだと言えた。
唯一心残りなのは3ヶ月に一度しか月命日に墓参り出来ないことだけど、そんなことで怒るような彼らではないと思いたい。明日の今頃には異世界で生活をしているのか、そんなことを考えていたらグゥと腹が鳴った。そういえば朝昼兼用のおにぎり数個しか食べていないことに気づき、苦笑を浮かべて俺はしまったばかりの雪平鍋とカップ麺を取り出して作る。
「ん、うまい」
煎餅布団とゴミ袋しかない部屋で、ズルズルとカップ麺を啜る男。まぁ俺なんだけど料理人として異世界へ行くのに、何度もこれはやめておいた方がいいかもしれない。でも、うまいものはうまい。スープを飲み干した俺は空になったカップ麺容器をゴミ袋に入れ、雪平鍋を腕輪の中にしまう。
カップ麺とコンビニ弁当で暮らしていたような俺だが、祖母が長年に渡りひたすら書き留めていたお料理ノートには、国を気にせずたくさんの料理が書いてあるので困ることはないだろう。それに祖母が生きていた頃、一緒にキッチンに立ち本格的に手伝っていた。身体に染み込んだ癖は中々抜けないと思うから、大丈夫。
「寝るには早い……。コンビニ、いや、スーパーにでも行くか」
便利なものをもらったので、全てに置いて早く済んでしまった。現在の時刻は今時の小学生や幼稚園児でも寝ないような時間だから、俺は重い腰を上げて立ち上がる。通販サイトの熱帯雨林が使えるとしても実は使い方を教わっていないので分かるはずもなく、向こうに行けば手に入らないであろうものを調達しようって寸法だ。
まぁ色々聞いてたんだが、サラさんの濃いキャラに翻弄されずにいろっていう方が無理に決まっている。俺は悪くない俺は悪くねぇ、と思い込みながらいつ崩壊してもおかしくない安アパートをあとにした。通りに足を踏み入れようという時、俺の二つ隣の扉が軋むほど勢いよく開けられ、焦り転がり落ちるように最近入居したばかりの若い兄ちゃんが出てくる、が俺には関係ないので知らんぷり。
無言で歩くこと約5分、近隣で有名になっている激安スーパーに到着。こんな暮らしをしてるけど結構お金には余裕がある、余裕がないのはハイエナのように居場所を探す親類から身を隠すことだけだから。あ、実はハイエナってライオンより狩りが上手くてライオンの方がハイエナの獲物を奪うことが多いみたいだ。この前、月一で無料になる動物チャンネルで見た。
「香辛料、缶詰め、お菓子……」
長持ちしそうなものを見繕い、手に持った買い物かごに投げ込む。今財布に入っている金を使い切る勢いで買い物かごを満タンにしていく俺を、ご近所の奥様方が呆気にとられた表情で見ているが気にしない。いつもはカップ麺を箱買いしかしてないもんな、そんなやつがこんなに買い物してたらビックリしちゃうよな。
実は井戸端会議するくらいに仲の良い奥様方に、明日から自給自足の生活をしないといけないほど凄まじい秘境に転勤するんです……と少しばかり本当を交えて息を吸うように嘘を吐く。異世界は秘境、だよな?
大量に買い込んだ諸々は、人気の全くない路地裏に引っ込んで腕輪に収納したから楽出来ていい。異世界の存在が明かされたとしても典型的な日本人が意味分からんことしてたら色んな意味でヤバイので、そのまま人目を気にしつつそそくさと足早にオンボロ安アパートに帰ると寝た。ちなみに財布の中身は数百円を残して使い切ったぞ。
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