表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/22

009  原稿から逃げない


 漫画家の仕事は苦難の連続だと述べたが、実際には苦労話ばかりでは無い。苦痛を感じる中にも楽しみはあるのだ。例えば原稿を描いている時に休憩する瞬間は重圧から解放された感じがする。「俺は今、この瞬間を生きているんだ」と感じられるのだ。子供の時はブラックコーヒーの有難味が分からなかった。なんだこの苦いだけの飲み物はと敬遠してきたのが、プロの世界に入って社会の荒波に揉まれる内にブラックコーヒーの存在価値を知った。ストレスと眼精疲労で疲労困憊になった時、ブラックコーヒーを口にすると安堵の表情を浮かべる。これは決してジュースやビールなどでは感じられない感覚だ。大人になって初めて分かる気持ちを新井は

体感していた。今年21歳を迎えた新井だが、まだまだ年齢で言えばお子ちゃまに過ぎない。社会では子ども扱いされて馬鹿される歳だ。とは言っても、実際には大人の階段を登っているので煙草も吸えればビールも飲める。その点、新井は飲まないし吸わない。大人の権利を全く行使していないのだ。だから大人の自覚はまるで無かったが、休憩中にブラックコーヒーを飲んでいる時は「俺って大人なんだ」と思える瞬間だった。これがミルクティーやカフェオレでは駄目だ。朝起きた時なら問題は無いが、常に新鮮なアイディアが求められる職場ではミルク入りコーヒーは言語道断だと新井は考えていた。ブラックの苦みを感じながら頭をスッキリさせるのが良いのだからと。当たり前だが新井の考え方なので万人が納得する答えでは無い。体質の問題もあるので中にはコーヒーを飲めない人だっているだろう。だが、休憩中にブラックを飲むのは新井の流儀なので、他人からとやかく言われても辞めようとは思っていなかった。むしろ新井は非難されて活力を生み出すタイプなので、どんどん批判的な声を言って欲しいと考えていた。新井が理想としている上司は自分の嘘をつかずに怒る時は怒って褒める時は褒める人材だった。自分に正直な人間は大抵、要所要所をキッチリと理解している。部下を育成力があるのだ。新井はそう考えているだけあって、批判されるのを苦とは考えていない。むしろ、社会ではボソボソと陰口を言われるぐらいの人間が求められる。ようするに批判される内が華なのだ。分かる人には分かるが、批判もされなければ称賛もされない人間は大勢いる。無関心故に誰からも相手にされず孤独の最中にいる者が。そんな人間を見ていると批判されたからと言って落ち込める筈も無い。褒められもしなければ、叩かれもしない。新井が同人誌を描いている時は周りにそういう人間が溢れ返っていた。同人誌は毎年山のように作成されているので、どうしても空気になってしまう存在もある。新井も同じだった。最初の内は誰からも相手にされず無視され続けていた。しかし、無視されているからと言って新井のモチベーションが下がる訳では無い。その程度でモチベーションが下がる人間はレベルが足りていないのだ。


 そんな訳で、新井はブラックコーヒーを飲みながら昔の自分を思い返していた。あの時は誰からも見抜きもされなかったが幸せだった。誰から認められたい。その一心も少なからず存在していたが、それ以上に絵を描くのが好きだった。絵を描いて自分の作品を創り上げる過程が何よりも楽しい。そこにストレスなど微塵も無かった。当然ながら金も発生しないので貧乏暮らしが続いていたのだ。ところが今では正反対の生活を過ごしている。人気雑誌で連載を抱えて毎日誰かに漫画を読まれている。ネットで物語の考察が盛んとなり、誰が最強なのかと議論するファンも大勢いた。お金も毎月とんでもない額が通帳に転がり込んでくるのだ。それでも幸せだとは言えない。純粋に漫画を描いていた時には決して敵わないのだ。趣味を仕事にするのはストレスも感じるが、それ以上に大切な何かを失ってしまう。とてもじゃないが子供達に「好きな事を職業にして下さい」とは言えない。それだけは断言出来るのだった。


「ふう……そろそろ再開しようか」


 いくら愚痴を言っても現実からは逃げられない。一度でも成功してしまえば後戻りは出来ないのだ。こうなってしまえば完結目指して突き進むしか道は無いと、新井は決心してGペンを左手に持った。そして原稿に命を吹き込んでいく。アシスタントの経験は無いので風景や吹き出しなどはアシスタントに一任しているが、どうしても主線だけは新井の手で書き込まないと気が済まなかった。特に主人公を書いている時はこだわりが強すぎて他の人には任せられない。それぐらいの覚悟があるから漫画家になれたのだと今でも思っている。間違ってもアシスタントに適当に仕上げてとは言わない。そんな事をすれば漫画家としての質を疑うからだ。漫画とはファンの目に見られる作品なのだ。しかも給料が発生しているのだから中途半端は許されない。どんな時でも全力で原稿と向き合うのが新井のやり方だった。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ