002 打ち合わせ
某大手出版社の多くは厳重な警備体制を敷いている。その昔、安全上のトラブルが起きたので警備は万全となっている。漫画家ならば入館手続きをしなくても入れそうだが、そこはやはり形式の問題が直面してくる。規則だから漫画家だろうが持ち込みの人だろうが手続きをしなくてはならない。しかし、新井は何事も無かったような顔で入館手続きを済ますと、エレベーターに乗った。決まり事なので目くじらを立てる必要など無いと新井は思っていた。他の漫画家は面倒くさいと愚痴をこぼしていたが、新井にはその意味が分からなかったのだ。そしてエレベーターの中には他の編集者や漫画家などで暑苦しい。大手出版社だけあって、人口密度も桁違いだ。ここでは少年誌の作成に取り掛かっているため、8割の人間が男性だ。暑苦しいにも程がある。しかしそこは仕事だと思って割り切ればいい。全ての苦行を受け入れる覚悟が無いと、漫画家は務まれないからだ。毎日送られるのはファンレターだけではないと言えば分かるだろうか。そこには当然、誹謗中傷のハガキも送られてくる。それでいて締切の中で物語を創造しなくてはいけない。自分は修行僧だと思い込まないと、やっていけないのだ。
そんなこんなで、新井は目的の編集部に辿り着いた。すれ違い様に社員達が挨拶をしてくる。新井よりも年上の人間が多い。何年も社員として働き、仕事に誇りを持っているような人間ばかりだ。それを見て、新井は一種のカタルシスを得ていた。真面目に仕事をしている人間を見ると、新井は嬉しくてたまらない。一心不乱にキーボードを叩いている姿は、芸術に等しい。たとえ眼精疲労が溜まっていても、デスクに向かう姿勢には眼福せざる終えない。新井は頑張っている社員に笑顔を見せながら「こんにちは!」と大きな挨拶をしていた。社員達もその笑顔につられるように、口角を上げて挨拶を返してくる。今日もミラーニュートロンは働き者だと、新井は次々と挨拶をしながら目的の場所へと向かっていた。
そこに着くと、担当編集者が椅子の横に立って待っていた。当然、新井と担当は挨拶を交わした後、その椅子に座る。そして机の上に完成した原稿を広げた。全部で31ページに及ぶ原稿をお互いが凝視している。この紙切れが、日本中の書店やコンビニに売られるかもしれないのだから緊張感はあって然るべきだ。二人共、固唾を飲んで見守っていると、不意に担当が話しかけてきた。この担当は身長が180センチもあるので座高の高さが凄まじい。逆に新井は身長が160センチ未満なので見下ろされている形なのだ。しかし、立場は対等などでどうという事は無い。
「まずはお疲れ様でした。締切通りに原稿を上げる新人さんは滅多にいませんから素直に感動しますよ。既にベテランの風格もあるようですし、これは期待出来ますね……ちょっと拝見させてもらいますよ」
彼は有名大学を卒業したエリート中のエリートなだけあって眼鏡に黒髪をしている。特にオシャレな様子は無いが、顔立ちは整っていた。プライベートはさぞモテそうに思えるが、彼には交際の噂など無い。根っからの仕事人間らしく、渡された原稿にも真剣な眼差しで見つめていた。これは時間がかかりそうだと思った新井は、ひとまず席を外して自動販売機に行こうとしていた。
「終わったら知らせて下さい。僕、喉が渇いたからジュース飲んできます」
「分かりました。これからの議論に備えて十分に喉を潤わせて下さい」
言われた通り、新井は立ち上がって席の後ろに設置されている自動販売機に向かっていた。そこは休憩所なので飲み物だけではなく、本棚もあった。中には出版関係の本がズラリと並べられていてた。新井はエナジードリンクを購入すると、本を手に取って飲みながら読書を開始する。立っているのは疲れるので、椅子に座ってだ。担当の言葉は正しいので、喉を潤わせる必要がある。新井は編集部でも有名になっている。それは知名度とかでは無く、単純に熱い言葉を使う男としてもっぱら評判なのだ。担当のダメ出しに動じず、自分の漫画哲学を語る様は若者に見えないそうだ。漫画経験が豊富なベテランのように思えて、意外にも好感触となっていた。担当もそれを知っていたので、敢えて喉を潤すようにと言ってきたのだ。
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時計の針が14時を周った頃、担当の呼び声がかかった。既にエナジードリンクを3本も飲んでいた新井は元気ハツラツの状態で席に座っていた。担当も今から交わす議論を待ち望んでいるのか、笑みをこぼしているではないか。担当が無意識に笑っている時は良くない状況を伝えられると分かっているので、新井も戦闘態勢に入っていた。ここからは言葉一つ間違えられない領域だ。馴れ合いなど存在せず、互いに吟味しながら思っている事を、伝えなくてはならない。新井は担当の言葉を待ちながら、心臓の鼓動を速めていた。
「今回の話しは少年誌とは思えない程、難解で複雑でした。大人である私ですら完璧に理解するには程遠い内容。素晴らしく読み応えがありますが、同時に読むのを躊躇してしまう可能性も高い。これは新井さんの意志で敢えて難しくしているのですか?」
担当が言っているのは恐らく、物語に宗教要素を盛り込んだ事だろう。新井が描いている漫画はマシンと人間の子供による友情をテーマにしたSFアクションだが、そこにマシンを崇拝している宗教団体を登場させた。彼らはマシンに当別な存在価値を見出し、まるで神のように讃えている設定だ。しかし、宗教団体の使っている言葉は難解で、子供には分かりづらいと否定された。口では言っていないが、そういう風に聞こえたのだ。なので新井は本心から出た言葉を使って物語の説明をしていく。
「色々な漫画を見直して気が付いたんですけど、日本の歴史に刻まれている漫画って宗教要素が大いに含まれてますから……当然、そこから逃げる訳にはいかない。深く吟味を重ねて、初めて理解出来るようにしないと読者は逃げていくんですよ。内容を理解したくて何回も読み直すような漫画。今回、僕はそこを目標にして原稿を描きました。遅かれ速かれ、こういう説明の多い話しは必要になってきますから」
新井はそう説明していた。物語を堪能してもらうためには説明の多い回も必要だと。担当もそれには同意しているようで、フムフムと頷いていた。