019 新井幸造の生き方
漫画家になった事による影響は良くも悪くも新井の人生を彩っていた。漫画を描く事を職業にする前はただ何となく漫画を描くだけで目標や夢など何も無かった。ただ、純粋に漫画を描くのが好きだったから描き続けていたのだ。だが、漫画家になってからは何となくの半端な気持ちでは到底不可能。1週間のスケジュールに自分なりの目標を抱かないと、とてもじゃないがモチベーションを保てない。漫画家は職業と言えども自分の技術力が左右される特殊な業種だ。掲載成績が悪ければ看板の座から外され、最悪は打ち切りの可能性が高い。どんな人気漫画と言えど、一発屋の烙印を押されて打ち切りにされるのは覚悟の上だ。5年連載を続けても安心は出来ず、少なくとも15年は続けないと真の安泰は訪れない非情なる世界と言える。15年を超えると看板漫画の枠を超えて、特別枠として大先生の特権が与えられる。こうなれば掲載順位が下がろうが上がらまいが打ち切りの可能性はほぼ0パーセントになる。漫画家は15年やって、漸くプロとして認めれるのだ。そういう意味では新井幸造も打ち切りの恐怖心と闘う期間が長い訳だ。残り14年近く、一定のファン投票数を維持して作品を描き続ける必要がある。不安とストレスの連続で、毎日胃腸炎になりかけるのも納得だ。むしろ胃腸炎で済んでいるのは奇跡的に近い。漫画家の多くは大量のストレスで血反吐を吐いて病院に駆け込んだケースが多々存在する。新井はまだ健康体をキープしている方だとは言っても、そこらのサラリーマン以上に不平不満を抱えているのは間違いない。溜まっているゲームや良洋画のDVDを消化する時間など全く持って存在しないのだ。毎日がプロットとネームを行き来する毎日で一向に原稿が終わらない。締め切りには間に合っていると言えど、それは最低限のルールだ。締め切りに間に合わないなど社会人にあってはならない万死に値する行為なのだ。守って当然だからこそ締め切りに間に合わせる事は何も誇れない。真に誇れるのは締め切りの一週間前に原稿を提出して、ありきたりの日常生活を送れている大先生達だ。時間に追われて、毎日涙を流しながら腹を押さえている漫画家には決して出来ない芸当である。何気ない日常を失われた漫画家達の多くは自分を哀れな存在で無職と何変わらないと自信を喪失しまっている。日々の不規則な生活と睡眠不足の影響によって漫画家達の自信など皆無に等しい。彼等の失われた自信を取り戻すのは担当編集者の役割であるが、新井の所属している出版社にはビジネスパートナー的な編集者しか存在していない。昔ながらの熱血社員など今時有り得ない。皆、自分の性格を隠して仕事だけを全うしようとしているのだ。先生達が青白い顔で疲労困憊になって倒れそうになっても「大丈夫ですか?」的な社交辞令の一言で済ませて、とっとと原稿を寄こせとばかりの仏頂面をしている事が多い。仕事だけの関係性にプロ意識を抱いてきた新井も、人間本来の感情を持っていないのかと問い正そうとしたぐらいだ。現代人の縮図が現れていると言っても過言では無い。彼等の多くは超人的なプロ意識を持つ一方で、人間の暖かい感情を忘れてしまっている。団塊世代の中年リーマンの方がよっぽど人情に溢れて部下思いなのは言うまでもない。だから新井は羨ましいのだ。飲み屋で顔を真っ赤にして「おめえら、もう一軒行こうぜ!」と意気揚々に宣言している上司の姿が羨ましくて仕方が無い。ああいう、人間本来の感情を表に出す事が出来る人が周りにいる事は限りなく幸せなのだ。故に今時のロボットみたいな冷たい人間は新井の肌にはどうにも合わなかった。
「ああ、もう21時まわってりゅよ、ちくしょう、疲労困憊で呂律もまわりゃしない」
とてもリアルな疲れを全身に背負っている新井は発狂寸前になっていた。かれこれ3時間近くプロットとネームに睨めっこしながら原稿を練ろうとしている。絵柄もそうだが、言葉選びにも人間の感性を問われる。特に30年以上発行を続けている大手出版社に漫画を連載させて貰っている身分だ。素人時代のように、思いついた言葉を適当に羅列した写植屋に出す訳にはいかない。自問自答を念仏の如く続けて言葉の取捨選択が必要だと新井は考えていたのだ。時間が掛かっても中途半端に原稿を描き終えるよりかは遥かにマシだと思えてならない。それでいて、ネームとプロットを完璧に終わらせた上で原稿作業に取りかかるのは新井の生き方が含まれていた。漫画を描く事で給料が発生しているのだから中途半端には終わらせられない。今までは挫折の連続で夢半ばで終わらせた趣味やスポーツは数知れない。だが、原稿だけは完璧な状態に仕上げたいと願うのは新井の生き方に他ならない。どんなに疲労困憊に倒れそうになっても生き方だけは変えたくないと願うばかりである。今まで信じてきた自分の信条さえも信じられなくなり、自暴自棄になって血反吐まみれになるのは御免だ。反面教師とまではいかないが日々のよわったれた自分に鞭打って仕事を続けるのは大事だなと新井は肝に銘じていた。




