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013  迷いは吹っ切れた


 暗い世界の中で新井はもがき続けていた。商売として漫画を描いているので、ありきたりな展開など描けない。読者がアッと驚く展開を常に用意しておかないと大変な目に遭うのは分かりきっていた。読者アンケートの数を見ても自分の漫画は注目されているのだと再確認が出来た。ダンボール箱一杯に入った葉書を見て絶望し、現実から逃げるようにバッティングセンターに向かったのだ。今まで誰からも見向きもされなかった自分の作品が、ちょっとした成功哲学を織り交ぜただけで世界的大ヒットになったのだ。読者から求められる期待も高く、半端な気持ちではいられない。あっという間に寝不足と化した新井は逆流性食道炎を引き起こし、挙句の果てにはペンを持つ手が震える場面にも遭遇し始めた。今まで大好きだった漫画が大っ嫌いになり、生活の一部となってしまう。その恐怖が体の震えとなって症状に現れ始めた。さすがの新井も「これはあかん」とバッティングセンターに通ってストレス解消とばかりに白球を打ち返していた。体を動かすのは鈍っている感覚を研ぎ澄ます事にもなるし、新鮮なアイディアをひらめく瞬間は体を動かしているだけだ。ストレス解消の意味合いを含めれば一石三鳥と言ったところか。金属バットを振っていると、次第に体の震えも収まって焦点も定まってきた。さっきまで原稿一点を見つめていただけに周りが見えていなかったのだ。当然、そんな状態ではアシスタントに適切な指示を飛ばせない。漫画家は漫画を描くだけが仕事じゃなく、アシスタントに仕事を与えるのも重要である。ようは命令系統のポジションも担っているのだ。背景を描け、色を塗れ、今日は四色カラーだぞ、などの命令を適切に飛ばして仕事場を潤滑に回す必要性がある。ところが、言うまでもないが漫画家のほとんどは寝不足で精神状態が不安定だ。そんな状態で適切な指示など出され訳も無く、結局は締切間近まで原稿が仕上がらなかったりする。そんな漫画家達を仕事上たくさん見てきたので、新井はそうならないためにも22時には仕事を切り上げてアシスタントと共に自分も家に帰る。さすがに年末となるとそうもいかないが、ほとんどは22時に仕事を終わらせる。残業など滅多にさせない。眠い目を擦って漫画を描いても読者を喜ばせる漫画にはならないと知っているからだ。故に新井は精神的に忙しい時こそ、敢えて仕事から離れるよう努力している。溜まった原稿を放り投げるのは勇気ある行動だが、疲労困憊で視野が狭くなった状態でペンを握るよりかはマシな筈である。



 ***********



 新井はバッティングセンターで140キロの速球をひたすら打ち返していた。久しぶりの感覚に新井の神経は研ぎ澄まされていく。さっきまで絶望感で押し潰れそうだった肉体と精神は、ストレス解消による快感で満ち溢れていた。自分の居場所は野球なのかと一瞬錯覚する程だったが、無論それは間違いである。野球も大好きなので職業にしてしまえば今のように地獄が待っている筈だ。重圧に耐えきれずビルの屋上に出て「ニヤリ」と笑う時間も減らないだろう。ストレスで呼吸が乱れて胃酸が込み上げてくる感覚も無くならない筈だ。むしろ漫画を職業にして良かったと思うぐらいだ。野球を職業にしていれば、今頃360度観客に観られてプレイをする絶望感に耐えきれなかった筈だ。それを想像すると今の状態がだいぶマシだと思えたので、新井は野球に感謝しながらバットを振り続けていた。既にバッティング練習を開始して2時間が経過していたが止められない。脳裏には今日やるべき原稿がチラついていたが、今はストレス解消に重きを置く時間だった。


「大好きな野球でストレス解消出来るんだからこんなに幸せな事は無いよな。バッティングセンターで汗かいて、アイディアも湧いてくるんだから」


 新井は一筋の光を掴み取っていた。それはまさしく、原稿を描き終えるための重要なアイディアだった。ストレスで胃をやられ、机の上にうつ伏せて悲鳴を上げている状態では決して得られない。体を動かして爽快感を感じた事で初めて得られるアイディアなのだ。新井は表情を柔らかくして手応えを全身で感じていた。さっきまで苦悶の表情を浮かべていた男とは思えない、晴れやかな表情だ。運動して汗をき、ストレス解消するのは最善の手だ。これ以上のストレス解消方法は無いとばかりに新井は積極的にバットを振り続けていた。しかし、いつまでもバッティングセンターにはいられない。いつかは現実に戻って原稿と向き合う日々に戻らなければならない。そしてその瞬間は唐突に訪れた。電話が鳴ったのだ。ポケットの中で振動しているスマホを手に取ると、そこにはチーフアシスタントの電話番号が表示されていたのだ。新井は画面をタッチして電話に出た。すると、当たり前だがチーフアシスタントの声が聞こえてきた。


「新井さん。迷いは吹っ切れましたか」


 とだ。


「当たり前やろ。俺を誰だと思ってるんだ」


 新井は笑顔を見せながらウキウキした声で答えるのだった。



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