012 趣味に没頭
疲れを知らずに描き続けるのは至難の業だ。一日中漫画を描いていると体の至る箇所から悲鳴の声が上がり、睡魔に落とされそうになる。しかし、自分の意志で眠られないのはどの仕事でも同じだ。結局は我慢して仕事を続けるしかない。漫画家は何十枚の原稿を完成させるのが主な仕事だが、それ故に一日の満足感を得られない。どうしても続きは明日に持ち越されてしまうのだ。キリの良い所で終わらないのは日常茶飯事で中途半端に終わってしまうケースが後を絶たない。人間は中途半端に物事を終わらせるのが一番罪悪感を感じると言われている。自分の仕事に集中している時、電話がかかって集中力を切らすのが腹立たしいとさえ感じてしまう。自分勝手な発想かもしれないが、本当にそう思ってしまうのだから仕方が無いのだ。結局は大した用事じゃなかったりするので余計に中途半端を嫌いがちだ。しかし、新井は中途半端に終わって罪悪感を感じている自分に腹が立ってしまう傾向があった。仕事を中断するのは当たり前だと自分に言い聞かせてアシスタントには何何でも22時にはタイムカードを押してもらう。締め切りに余裕が無かったとしても効率の良い仕事をすればいいからだ。締め切りに間に合わないのは普段の怠惰な生活が影響していると考えられる。つまり怠惰は愚かさを産むのだ。締め切りに間に合わず他の作者に代わりの原稿を用意してもらうのは漫画家にとって屈辱に過ぎない。そこまで愚かな結果を生み出すのは漫画家として恥なので、普段からスピードアップをして執筆作業に取り組んでいた。そして何度も言う様だが漫画を描くことに楽しみなど無い。趣味を仕事にしてしまえば辛い現実しか待っていない。マンションから飛び降りたいと思った事も一度や二度じゃなかった。プロとして漫画を描くのは、それだけのリスクとデメリットが付き纏う。どんな仕事でもそうかもしれないが一筋縄じゃいかないのだ。しかしそれでも新井は粉骨砕身の勢いで執筆作業に取り掛かり仕事を早く終わらせようと頑張っていた。一日の作業は辛く涙がちょちょぎれる毎日の繰り返しだ。当然、そんな日々に達成感などありはしない。溜め息ばかりの人生になるのも仕方が無かった。あまりの多忙さ故に最近は髪を切る間もなく仕事が長引いてしまう。22時にアシスタント方がタイムカードを押すという事はすなわち、他の仕事をしている人より帰りが遅くなる。今時は18時に終わる企業も少なくなく飲み会のゴールデンタイムは19時からだと言われている。その時間帯に居酒屋は発展して利益を生み出すのだ。漫画家の新井は当然ながらゴールデンタイムから隔離されている。担当と飲みに行く時も決まって深夜0時を過ぎていたりする。何とか規則正しい生活をしようとしてもあまりの忙しさに寝る暇も無い。寝不足になるとストレスは溜まってしまうので、身体にも良くない。せめてストレスを発散するためにも趣味の時間だけは必要だった。故に新井は忙しい仕事を何とかスピーディーに終わらせて趣味に投じる時間を造った。昼休憩を1時間程度伸ばしてバッティングセンターに向かったのだ。
昔、新井は甲子園出場した経験もあってバッティングセンターのボールは打ちやすい。機械が投げているのでボールのキレは全く無い。しかも金属バットを使っているのでタイミングさえあっていれば容易くホームランを打てる。小さな小学生でもホームランを量産している所を見ると、結局野球はタイミングのスポーツなのだと思わされる。新井は黒の金属バットを手に持ってバッターボックスに立つと、独特のオープンスタントで構えながらボールを弾き返し始めた。まるで外国人のように足を開いてバットを揺らしながらボールを待っているのだ。この構えは甲子園の時でも注目を浴びていた。最初にインターネットで注目を浴びたのは漫画家としての自分では無く、甲子園の土に立つ球児としての自分だった。その時の自分を思い出すかのようにして140キロのボールを弾き返していく。とは言っても久しぶりに撃打ったせいか前には飛ぶがホームランにはならない。長年のブランクが影響してパワーが落ちてしまったようだ。
「なんだよ、俺も衰えたな。まさかバッティングセンターの死んだ球をヒットにすら出来ないなんて考えられないわ。あほんだら」
と言いつつも、新井の表情は晴れやかだった。久しぶりに大好きな野球を体感して身も心も嬉しい悲鳴を上げているのだ。ボールにバットが当たる度に喜びを感じてストレスが解消されていく。もしも野球を仕事にしていれば得られない感覚だろう。新井も昔はプロ野球選手を夢見ていたのだがどうしても漫画家になる夢を捨てきれなかった。今思えばどっちの選択をしていても幸せになれなかっただろうなと確信を持てた。真の幸せとは家庭を築いて一軒家に住んで子供に囲まれて生活費に頭を悩ませながらも日々を素直に生きていく事だと感じられるようになったのだ。漫画家になれば結婚をする機会にも中々恵まれない。良い人と出会う暇も無いのだ。あまりにも虚しい日々の連続である。




