011 新たなる趣味
新しい趣味と言っても、新井は今までに漫画以外の趣味を持った事が無かった。漫画を描くのがあまりにも楽し過ぎて一日中イラストを描いたり授業の合間にもノートに落書きをしていた。普通と言えば普通だが、絵を描く行為自体が好きで仕方が無かったのだ。しかし、今では漫画を描くのが楽しいだなんて考えられない。素人の時はインターネットに漫画を投稿するだけで満足感を得ていた。評価も感想もまるで無かったが、そんな事では新井のモチベーションは揺るがなかった。むしろ誰も何も反応しないから描き続けられたとも言える。それもその筈だ。自分の趣味に対して誰かの意見など聞きたくないに決まっている。趣味とは、あくまでも自分を納得させて満足させるための行為に過ぎない。故に誰かから指図を受けるのストレスや不安を増幅させるだけなのだ。今なら新井もそうだと言える。こうして自分の漫画が世界中の人に読まれるのは嬉しい。嬉しいがそれ以上に重圧がのしかかるので幸せだとは言えない。どんなに称賛されて批判されようが、昔の自分には勝てない。あの時はバイト暮らしで金も無くてボロアパートに住んでいた。パソコンもハードオフで売られていた中古品だった。お世辞にも機能が良いとは言えず、今思えば立ち上がるまで5分以上を要する欠陥品だ。今使っている高性能ノートパソコンとは雲泥の違いだ。とは言っても、幸せは決して金では買えない。昔の自分は金が無くても漫画を描けるだけで幸せだったのが何よりの証だ。あの時はまさか自分の漫画が初版200万部を突破するなんて考えられなかった。漫画に描くのが夢中で気が付けば朝日が昇っていたなど一週間に二回はあった。それだけ漫画に対して集中力を発揮出来たのだ。昔はインターネットサイトに漫画を投稿しても批評されなかったので自分の思うがままに描くことが出来た。その自由性が大好きだったのだと今はハッキリと言える。誰にも文句を言われずに好きな事を好きなだけやる。それが至福の一時だったのだと。だが。いざ趣味を職業にするとこんなにも大変だったのかと後悔の念が止まない。渾身の作品だと思って担当に提出しても、「これでは読者に伝わりません」と跳ね返されるケースも何度かあった。その度に強烈な熱意を浴びせて何とか担当を言いくるめてきたのだ。こうまでして自分の作品を連載したいとは思わない。しかもいざ連載したからと言って、読者の全員が全員、物語に納得する訳では無いのだ。これでは、何のために漫画を描いてるんだと疑心暗義になるのも当然だった。一度は漫画家を廃業して田舎で暮らそうかとも思った。だが、アシスタントの言葉が胸に響いて完結するまでは描き続けるのを心に誓っていた。そのためにまず自分の意志を固めなければいけない。完璧に意志を固めるためにはストレス発散の場が必要なのは言うまでもない。仕事で感じたストレスを発散しない限り、自我は安定してくれない。人間とはそういうものだ。
新井は一仕事終えた後、アシスタントを集めていた。自分の趣味は何だと考える内にとある結論に至ったのだ。その結論とは。
「皆が知ってるかどうかは分からんけど、俺って中学高校時代は野球してたのよ。その時は主に右翼手を担当してたな。あまり上手いとは言えなかったが、俺の周りが頑張って甲子園に連れて行ってくれた。あの時の記憶がどうにも忘れられなくて今でも野球は大好き。後輩がプロ入りしたのもあって地上波中継は毎回録画してる訳さ。……つまり何が言いたいかと言うと、俺は野球がやりたい。昔みたいにグラウンドを走り回って試合をするのは無理かもしれなけど、たまにはキャッチボールの相手してくれないかな?」
それが新井の考え方だった。昔野球をしていたからこそ、野球に通じる趣味を持ちたいと。結局はそうとしか考えらなかったのだ。昔からやってきた部活を大人になってから趣味にする。その考え方は決して悪くないと新井は考えていた。キャッチボールをすれば、身体の運動にもなって素晴らしいネタを思いつく可能性も高い。新井は普段、朝起きてからジョギングをしているのだが、身体を動かすのも漫画を描く一部だと知っているからだ。机の前に座って「ウンウン」と唸っているだけじゃ良い考え方など見つかる筈も無い。アシスタントにも運動は漫画を描く事と結びついていると何度も言い聞かせていたので、新井の言葉には順応を示していた。
「そうですね。僕も細かい野球のルールは知りませんがキャッチボールは大好きですよ。多分、この世にキャッチボールが嫌いな男性はいないと思いますから気軽に声をかけてください」
一人のアシスタントがそう言うと、残りも同じように頷いていた。そう全員がだ。これには新井自身も嬉しくなって舞い上がっていた。今までの不安な気持ちが払拭された感じがして開放感に漲っていた。これならば明日からの仕事も問題は無さそうだと新井はホッと安堵の表情を浮かべる。




