010 新しい趣味を見つける
どんな人間だって疲れるのは当たり前だと新井は考えていた。新井は漫画を描く事を職業にしているのだが、漫画家は不健康のジャージと不衛生のズボンを履いていると良く言われている。不安で眠れないのは当たり前で常に寝不足との闘いだ。締め切りが近づくと追い込まれたかのように仕事場暮らしの日々が続く。仕事場でも寝ようと思っても寝られる訳では無いので結局は起きて原稿と向き合ってしまう。どんなに疲れていても原稿が気になって眠れない。漫画家の宿命と言うべきか。そして、次第にダークサイドへと堕ちていく漫画家が後を絶たない。今まで真面目に漫画を描いていた先生が急に「テキトーに仕上げてよ」と言い始めるとお終いだ。テキトーとはいい加減にする事では無く、スピードを上げて尚且つスムーズに仕事を仕上げろという意味だ。大体、テキトーに仕上げてと言われるのは原稿終了間際だ。誰しもが疲れて疲労困憊の状況で、そんな事を言い始める漫画家はどうかしているとしか言いようがない。長年の締切地獄で感覚を狂ったのだろう。新井の周りにもそういうダークサイドに落ちた漫画家は数多くいて、ああなりたくはないと反面教師の思いで見ていた。普段はあまり他の漫画家との交流機会は少ない。だが、年末となると出版社の漫画家が集まって忘年会を開く。その場では芸能人も多く出席してどんちゃん騒ぎになるのだ。そういうお酒の場では漫画家の本音が飛び交っているので、新井は耳が痛くなるぐらいの愚痴を貰って帰る。アシスタントの仕事が悪いだの、原稿料が少ないだの……ウダウダ言わないで本人に直接言えよと新井は心の中で思っていた。しかし、先輩に向かってそんな口のきき方は出来ないのでなるべくオブラートに包んで遠回しに伝えるしか方法は無い。普段から特に仲も良くない人に荒々しい口調で接するのは危険だからだ。
そんな訳で新井は、愚痴をこぼす暇があれば仕事をしろとアシスタントに言い聞かせていた。ただでさえ漫画家は原稿以外の仕事が後を絶たない。ゲームのアイディアを下さいだの、アニメの参考にしたいので世界観を詳しく教えてくださいだの、キャラクターのぬいぐるみを制作予定なので優しいタッチのイラストを描いて下さいだの……とにかく依頼の電話が鳴りやまない。有名漫画家の宿命と言うべきだろうが依頼の電話には恐怖を覚えてしまう。原稿だけで猫の手も借りたいぐらいなのに、その上他の仕事を依頼されれば口から泡を吹いて倒れてしまう。新井はまだバトル漫画を描いている身分なのでマシだが、カード漫画を描いてる漫画家は更に悲惨だ。原稿を描くと同時にカードのイラストも考えなければいけないので、相当なプレッシャーを感じているようだ。中には本当に血反吐を吐きながら原稿を描き上げた漫画家も存在していると聞く。そんな多忙が当たり前の業界に身を置いていると、サラリーマンが羨ましくなってくる。前にも述べたが、この考え方に変わりは無かった。一度でいいから自分も満員電車に揺られてしかめっ面をしながら押しくらまんじゅうをされたいと思っていた。
「一日中部屋の中に閉じこもって、漫画を描くとか不健康極まり無いわな。なんで昔の俺は気が付かなかったのか不思議で仕方が無い。俺は昔から運動するのが好きだったから根っからの体育会系なのよね。それが、こんな男ばっかりの空間に閉じ込められて漫画を描き続けるとか……何処で人生間違ったのかな」
新井が弱気になるのも無理は無かった。高校時代の彼は野球部に所属していたので直射日光を浴びながら仕事をするのが性に合っている。それに人間は太陽の元にいる方が活発的に動けるのだ。いつまでもエアコンの下で作業を続けなければいけない漫画家などストレス発生源でしかない。新井はそう考えながらも、手は動かしていた。口だけ動かして仕事をしないのは無能のやり方なのだ。そんな新井に気を遣ってか、アシスタントの一人がコーヒーを持ってきてくれた。インスタントかもしれないが確かに愛情はこもっている。
「先生。仕事にプレッシャーを感じるのは仕方ないかもしれませんが、あまり考えすぎるのも体に毒ですよ。仕事なんて所詮は生きるためにやってるだけです。心なんて無にしましょう」
アシスタントはそうだと言うのだった。あまりにも仕事人間なのは体に毒だと。確かに彼の言っている言葉は一理あると新井は深く考えさせられた。仕事ばかりに気を取られて本当に自分のやりたい事を放棄していないかと自分自答させられる。新井のやりたい事は、当たり前だが漫画を描く行為だ。漫画を描くだけでも幸せだったあの頃に戻れるならばと思った事は一度や二度じゃない。だが。趣味を仕事にしてしまえばあっという間に快楽は苦痛へと変わってしまう。愛情も何もかもなくなってしまう。だから漫画に代わる新しい趣味を発見するのが最善の手だと新井は考えていた。後はそれをどうするかが鍵となる。
「」




