001 邂逅
漫画家、新井幸造の1日は慌ただしく始まる。朝の5時に起床し朝食を食べた後、皇居の周りを走り込む。漆黒のサングラスをかけ、頭にバンダナを巻き、スポーツ用の服に着替えてランニングをする。これは毎日の日課で、最高の漫画を描くために必要最低限の行いだと新井は語っていた。皇居を走る時間は精々30分程度であり、それ以上は深く走り込まない。というのも、朝起きて走り続けるのは脳に負担が負担がかかるため効率良く走る必要性が出てくるのだ。
ランニングを終えると、新井は仕事場に向かっていた。時刻は朝の6時30分に関わらず既に他のアシスタントは勢揃いしている。新井はいつも最後の到着なのだ。普段着に着替えた新井が都内の某マンションに辿り着き、部屋を空けるとアシスタント達は彼に敬礼をしていた。そして一通り挨拶を済ますと、新井はアシスタントを集めて朝礼を開始する。常に時間通り、1分の狂いも無く。
「今日1日を特別な日にしようと思えば、いつの間にか特別な日になっている。世の中は同じ事の繰り返しだと言われているけど、僕はそう思わない。心の中に初心を抱いていれば退屈な作業も新鮮に思えるでしょう? 特に僕達は、読者の方に一回一回興奮するようなテーマを投げかける必要がある訳だからさ。とにかく今日も好きな事をやりきりましょう」
そう言うと、アシスタント達は一斉に「はい!」と元気よく返事をして自分の席に座った。それを見て、新井も自身の仕事机に着席する。ここにいる全員は経緯はどうあれ自分の好きな事を職業にしている連中だ。昔から漫画を描いて飯を食べたいと思い、田舎から上京をしている。それは新井も同じだ。某大手出版社の連載を担うようになり、初版200万部を超えた人気漫画を執筆中の身だ。当然、そこにはストレスと重圧がのしかかっている。それでも新井はポジティブに物事を考えて、自分の職業に誇りを抱いていた。
こうして主人公の主線を描いている時にも、誇りは間違いなく存在している。一見、漫画家として当たり前の行動に思えるが、こうした作業を大事にするのが新井の美学でもあった。どんなに忙しくても主線だけは自分で描きたい。その意志が漫画家としての生命線だとも言える。そして新井は漫画を描く時、決して無駄話をしない。真剣な表情でネームやプロットと向き合い、頭の中に完成形のイメージを描く。その完成された原稿を思い描きながら、ペンに命を吹き込んでいく。それはまるでアタラクシアの領域に達しているようだった。
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漫画を描き続けて時刻は12時を周っていた。時間には特別な思い入れのある新井は、どんなに調子が良くても一時作業を中断して、昼食の時間に移行する。それは他のアシスタントも同じである。仕事場から出て、外の新鮮な空気を吸いながら昼食を食べる。仕事場の中で飯を食べるのは原則禁止だ。もしも仕事場で飯を食べてしまうと、そこに日常が入り込んでしまうからだ。日常と仕事を切り離して考えている新井にとって、そういう行為はプロ失格だとも考えていた。だから新井は、仲の良いチーフアシスタントを連れて公園に来ていた。途中、コンビニで買った弁当を開けて、ベンチに座って食事をする。食事をしている時が唯一、新井の素が出る瞬間だ。彼は今年21歳の青年なので、必要以上に元気で満ち溢れていた。仕事場ではそれを隠すように冷静な態度をしているだけあって、ギャップには自分自身でも驚かされる。
「朝から原稿と向き合うのは疲れるぜ……でも、漫画家として給料を貰ている以上は手抜きなんて出来ないから、そこに苦労するんだよな。常に全力を注いで、読者の期待に応えないといけない。俺達って読者からお金を貰って生活している訳だしさ、そこに手抜きが発生するなんて俺には考えられないからね」
コンビニ弁当を食べながら、新井はチーフと話し込んでいた。チーフアシスタントとは、その名の通りアシスタントの中でも一番位の高い人物だ。普通は絵が上手かったり統率力の高い人材をチーフとして任命するが、新井は違っていた。共に漫画を描き続けていた最初期のメンバーをチーフとして雇っていた。チーフと新井は同じ年であり、小学時代から共に漫画を描いていた仲である。その仲は高校卒業からも続き、大手出版社の看板漫画に成り上がった今も尚、友達としての交流もある。今は仕事のメンバーとして接する機会も多いが、こうして友情を育むのを忘れた訳では無い。なので、お互いに本心を言い合う機会も多かった。
「僕達は一生懸命頑張ってきたから夢を叶えられた。今も昔も、連載が決まった瞬間が一番楽しい思い出だよ。その気持ちがあるから、辛い作業も乗り越えられる。連載が終わって完結した時、あれ以上の幸福感が味わえるんじゃないかと思ってさ」
二人は笑顔を見せながら、会話に育んでいた。しかし、その時間もあっという間に過ぎていた。13時30分には編集部に行って担当者と打ち合わせの予定が入っている。新井は急いで弁当を食べた後、チーフと別れを告げて出版社に向かっていた。その手には完成された原稿が抱えられている。これから担当者と話し合いをして、雑誌に載せられるかどうか議論を交わさなければならない。