その男、異国の民なりて
彼__原田喜利がリーネに来たのは今から二年前の冬だった。
馬込川の畔に建つ実家の納屋で見つけたのが日本とリーネを繋ぐ扉で、初めて潜った時は盛大に取り乱したのを覚えている。
濡れ衣で街一番のレストランを辞めさせられた喜利は、一念発起してリーネの首都『ヘルプスト』で自分の店を開店した。
立地の問題や、愛する恋人に裏切られた事が彼の心を塗り替えた。
喜利の拳を顔で受け止めた浮浪者は床を跳ねて入ってきた扉へとぶつかる。直撃地点はぐちゃぐちゃと言う域を完全に超えており、顎は砕け、鼻はひん曲がっている。辛うじて人と分かる程度に保たれているが、医療の発達していないこの国ではまず助からないだろう。
(ちと強すぎた?こっちの人間は脆くていけねぇ……)
喜利は確かめる様に手を閉じたり開いたりする。喜利がこの国に来てもうすぐ二年は経とうかと言う時期に差し掛かっているが、未だに加減が分からない。全力で殴ってはいないのだが、環境的な要因でこの世界の人間は骨、筋肉が日本人の平均よりも大分弱いため、どうしても農業に鍛えられた彼の拳は致命傷になる。なってしまう。
「寝てねぇで立てバカッ面」
呆けている騎士をすり抜け、浮浪者にゆっくりと近寄る。上下逆さまになっている浮浪者を強制的に立ち上がらせ、再び拳を振りかぶる。力んだ腕に血管が浮かび、ミシリと服の裾が悲鳴を挙げた。
「待て、何をする気だ!?」
固まっていた騎士が再動し、慌てて喜利の腕につかみかかる。浮浪者を殺させまいと必死な顔だ。
「何って、追い出すのさ」
喜利は淡々と答えた。風雨に曝された衣服が破れ、浮浪者が床に倒れる。その衝撃で男は意識を取り戻したのか短く悲鳴をあげ、這うように後ずさるも胸元を掴まれている性で逃げられもしない。
「止めろ!死んでしまうだろ!」
「大丈夫、死にゃしないよ」
「しかし……!」
前に立ちふさがる騎士を強引に避け、床を服で掃除している浮浪者に向かって再び拳を握る。
顔面目掛けて放った拳は当たる直前、騎士の言葉で虚空に停止した。
「リーネ軍治安維持部隊シルヴァーナが命ずる。これ以上の攻撃は殺人罪の対象になる。速やかにその男を離し、こちらに引き渡せ」
「リーネ軍……シルヴァーナ……そうか、あんたが」
喜利の中で今は居ない友人の言葉を思い出す。軍に裏切られた友人が唯一誉めていた部下の名前は『シルヴァーナ』こっちでは珍しい名前らしく、腕を掴んでいる騎士=『シルヴァーナ』で間違いないだろう。
手に持っているボロ雑巾をぞんざいに捨てると、床に転がる錆び付いたナイフを拾う。喜利は開いたままの入り口からナイフを投げ捨てると、外の匂いに顔をしかめながら力強く扉を閉めた。
「……持ってけ」
「止まってくれたか……」
騎士はホッとした顔で浮浪者に駆け寄る。鎧の腰につけられた袋から細い鎖を取り出すと浮浪者の両手に巻き付ける。その上から南京錠で鍵をかけると強引に浮浪者を立ち上がらせた。
「それでは、私はこの者を連行する。今日は助かった。これは代金だ。少ないが受け取ってくれ」
シルヴァーナは喜利の手を取ると、国の象徴である蜂の彫刻が入った銀貨を数枚握らせた。喜利は枚数を確認すると、そこから一枚だけ懐に入れ、残りをシルヴァーナに返した。
これに驚いたのはシルヴァーナだ。「あれほどの食材を使って、この金額はおかしい」と残りを渡そうとするが、喜利はこれを突っぱねる。彼の中の料理人としての気概が受けとるのを拒否したのだ。
「お前さんが食ったのは粥とスープだけだろう?それでこんだけ貰ったらバチが当たる」
「しかし……」
シルヴァーナは尚も食い下がる。しかし男は取り合わない。どうやら一度決めたら貫き通す頑固者のようだ。どうしようかと腕を組んで妥協案を考える。
「なら、これからここで飲食する代金の前払いというのはどうだ?」
名案だと思った。そうすれば、後ぐされ無く済む。ここの収入で生活している訳では無いので気にしないがお客も入る。
シルヴァーナは金を喜利に再度渡す。今度は全て懐に入れた。シルヴァーナは「誤魔化すなよ?」と冗談めかした笑みで喜利に軽く釘を刺すと、浮浪者の首ねっこを掴んで扉を開ける。
出ていく寸前、何かを思い出したかのように振り返った。
「この店はなんという名前だ?」
喜利は笑顔で答えた。
「大衆食堂『天竜』さ」
名を聞くとシルヴァーナは反芻させるように呟き、満足したように頷いた。今度こそ「邪魔したな」と出ていく。喜利は「あざっしたー!」と、気の抜ける声でそれを見送った。
扉が閉まる。人の居ない店内はとても静かだ。喜利は彼女の食べた皿をバランス良く重ね厨房に運ぶ。その途中、結局食べて貰えなかった鶏肉の丸焼きを見て少し悲しそうに呟いた。
「鶏……美味いのに……」




