薔薇の杯を満たす大公妃は、悪役令嬢の私を息子の嫁に望みます
噂というものは、針目に似ている。
ひと針だけなら、ただの点だ。廊下の隅で落とされた一言。扇の陰で交わされた囁き。手紙の行間ににじんだ憶測。それだけなら、誰も気に留めない。
けれど、点と点が結ばれ、糸が通され、都合のよい形へ縫い合わされると、それはいつの間にか一枚の布になる。
そして人々は、それを評判と呼ぶ。
ローヴェル公爵令嬢ネレイスについての評判は、月桂樹の徽章の一件が終わった頃から、静かに形を変え始めていた。
女神の鏡に映された令嬢。王太子殿下の婚約者。魔道具になぜか幾度も関わる令嬢。世界一美しいと認められたはずなのに、王宮に災いを呼んでいるのではないか。王太子妃にするには危うい。けれど、王家の外へ出すには惜しい。
最初にそう言った者が誰だったのかは、誰にも分からなかった。
ただ、誰もがどこかで聞いた気になった。
誰かがそう言っていた。
どこかでそんな話があった。
根も葉もない噂ではない。真実が少し混じっている。だからこそ、ほどけにくい。
糸杉の針は、まだ誰の手にあるのか分かっていなかった。だが、その針はすでに、王宮の中で細い糸を引き始めていた。
その噂を、大公妃リュディアは聞いた。王弟大公の妃。王家に近く、けれど王座には届かない場所に立つ女。
彼女は長く、息子ロプスの未来を考えていた。大公家は王家に近い。だが、王家そのものではない。
近いからこそ見えるものがある。届かないからこそ渇くものがある。
ロプスには価値がある。王家の血を引く、聡明な子。
この子はもっと認められるべきだ。
この子はもっと中心へ近づくべきだ。
リュディアはそう思っていた。
そこへ、噂が流れてきた。ネレイス・ローヴェルは、王太子妃にするには危うい。しかし、王家の外へ出すには惜しい。
ならば。
リュディアは、薔薇の杯を指先でなぞりながら考えた。王家の内にあり、王太子の隣ではない場所。大公家へ置けばよいと。
女神の鏡に映された令嬢がロプスの隣に立てば、誰もが認める。ロプスには、それだけの価値がある。大公家には、それだけの未来があるのだと。
薔薇の杯は、満ちない。どれほど注いでも、足りない。リュディアはその渇きを、自分のものだとは思わなかった。息子の未来のためだと思った。母の愛だと思った。だからこそ、杯は静かに赤く光った。
大公妃リュディア殿下から茶会の招待状が届いた時、私はまず封蝋を見ました。
薔薇の紋章です。美しく、整っていて、棘のある花。
招待状の文面は、たいへん丁寧でした。丁寧すぎました。
「お断りに?」
侍女が尋ねました。
「できればよかったのですけれど」
私は招待状を机に置きました。
「王妃殿下のお名前も添えられています。角が立ちますわ」
「大公妃殿下が、この時期にお嬢様をお茶会へ?」
「ええ。たいへん心温まるお誘いです」
侍女は黙りました。私の声が心温まっていなかったからでしょう。
月桂樹の徽章の一件は、終わったばかりでした。王宮宝物庫から出た魔道具は、まだすべて戻っていません。その上、最近の私は妙な噂の中心におります。
女神の鏡に映された令嬢。
魔道具に近い令嬢。
王太子妃にするには危うい令嬢。
王家の外に出すには惜しい令嬢。
聞けば聞くほど、私が私ではなく、王宮宝物庫の棚に置くべき不審な品のように思えてきます。
たいへん失礼な話です。
危ういのか、惜しいのか、どちらかにしていただきたいものです。
1週間後、私は大公妃殿下の茶会へ向かいました。
会場は王宮西翼の小広間。大公家の私邸ではなく、王宮内です。それだけで、この茶会がただの親睦ではないことは分かりました。
室内には薔薇が飾られていました。
赤、白、黄色、淡い桃色。
香りは強すぎず、上品に整えられています。
リュディア大公妃殿下は、薔薇色のドレスをお召しでした。柔らかな金髪を結い上げ、微笑みには隙がありません。
その隣に、十歳ほどの少年が立っています。
大公子息ロプス様。
淡い金髪と薄い青の瞳をした、まだ幼い子です。少しエリオット殿下に似ていらっしゃいます。
「ようこそ、ネレイス様」
リュディア殿下は微笑まれました。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、いらしてくださって嬉しいわ。ロプス、ご挨拶を」
少年は一歩前へ出て、ぎこちなく礼をしました。
「ロプス・ヴェルローズです。ローヴェル公爵令嬢にお目にかかれて、光栄です」
「ネレイス・ローヴェルです。こちらこそ、お目にかかれて光栄ですわ」
ロプス様は、ほっとしたように瞬きをしました。
卓上には、薔薇の杯が置かれていました。白磁に赤い薔薇。縁には金の細工。美しい杯です。
「王家より下賜された古い茶器ですの」
私の視線に気づいたのか、リュディア殿下が微笑まれました。
「大公家を賜った折に、薔薇の印も許されましたでしょう。これは、その時に王家より移された古い調度の一つですわ」
「見事なお品ですね」
「ええ。古いものですが、私は気に入っておりますの」
大公家は王家に近い家です。王宮の倉から古い調度が移されていても、おかしくはありません。
けれど、注がれた紅茶は、なぜか満ちていないように見えました。液面は確かにそこにあるのに、底の方で何かがまだ足りないと囁いているような。
私は杯から目を離しました。
「近頃、社交界ではあなたのお名前を聞かない日はありませんわ」
リュディア殿下は、紅茶を勧めながら言いました。
「恐縮でございます」
「女神の鏡に映された令嬢。王太子殿下の婚約者。ローヴェル公爵家のご令嬢。そして、魔道具に幾度も関わりながら、なお王太子殿下の隣に立っていらっしゃる方」
「ずいぶん、品目が多いのですね」
「品目?」
「まるで目録を読み上げられているようでしたので」
ロプス様が、ほんのわずか目を丸くしました。
リュディア殿下は、少しだけ目を細めます。
「ご自分の価値をお分かりになっていないのね」
「価値、ですか」
「ええ。あなたは、ご自身でお思いになるより、ずっと多くの方に見られておりますわ」
私は、薔薇の杯を見ました。紅茶の中で、赤い花が揺れているように見えます。
「見られていることと、値踏みされていることは同じではないと思いたいところです」
「王宮では、時に同じ意味になります」
その言葉で、私ははっきり理解しました。この方は、私を人として招いたのではありません。価値あるものとして、招いたのです。
「ネレイス様。あなたは今、たいへん難しいお立場にいらっしゃるのでしょう」
「難しい、ですか」
「ええ。王太子妃にするには、あまりにも多くの噂がある。けれど、王家の外へ出すには惜しい」
リュディア殿下は、薔薇の杯を指先でなぞりました。
「でしたら、大公家という場所は、悪くないと思いませんこと?」
「私の置き場所のお話でしょうか」
「あなたの価値を守るお話ですわ」
「価値があることと、置き場所を決められることは同じではございません」
私がそう言うと、リュディア殿下は微笑みました。優しい微笑みでした。優しいのに、胸の奥が冷えます。
「女神の鏡に認められたあなたが、あの子の隣に立てば、誰もが認めるでしょう。あの子こそ、王家にふさわしい子だと」
ロプス様が顔を上げました。
「あの」
小さな声でした。リュディア殿下が、優しく見下ろします。
「どうしました、ロプス」
「ネレイス様は、とてもきれいな方です」
ロプス様は、少し頬を赤くしました。
「こんな方がお嫁さんになってくださるなら、うれしいと思います。けれど」
「ほら」
リュディア殿下が、嬉しそうに微笑まれました。ロプス様の言葉の続きを、聞く前に。
「ロプスも、そう申しております」
「母上、でも」
「恥ずかしがらなくてもよいのですよ」
ロプス様は困ったように口を閉じました。
茶会の後、噂は形を変えました。
それを私が知ったのは、王妃殿下へ報告を上げた時です。
ネレイス・ローヴェルは、王太子妃にするには危うい。
けれど、王家の外へ出すには惜しい。
そこまでは、以前と同じです。
けれど、そこに新しい糸が一本加わりました。
大公家ならば、どうか。王家の血を引くロプス様のそばへ置くならば、どうか。王太子妃ではなくとも、王家の内側に留めることはできる。それが最善ではないか。
誰が最初に言ったのかは分かりません。けれど、恐ろしいのは、誰も即座に笑い飛ばさなかったことです。
「そのような案を、王妃殿下はお許しになるのですか」
私が尋ねると、王妃殿下は厳しい顔をされました。
「許してはいません」
その言葉に、私は少しだけ息を吐きました。けれど、王妃殿下は続けます。
「ですが、口にする者がいることは事実です」
「……そうですか」
「あなたを軽んじているのではありません。むしろ、皆があなたの価値を重く見ているからこそ、扱いを誤っている」
王妃殿下のお言葉は、正しいのでしょう。けれど私は、正しさだけでは息がしにくいこともあるのだと知りました。
「あなたを、軽々しく扱わせるつもりはありません。けれど、王家としても、あなたを失うわけにはいかないのです」
ありがたいお言葉でした。ありがたいお言葉のはずでした。けれど、私はその時、考えてしまったのです。
王家が守るのは、私でしょうか。それとも、女神の鏡に映された私なのでしょうか。
退出した廊下で、エリオット様が待っていらっしゃいました。
「ネレイス」
「殿下」
「そんな案は、ありえない」
エリオット様は、迷わずおっしゃいました。その迷いのなさに、私は救われたはずでした。
けれど、すでにその案が誰かの口に上り、誰かが頷き、誰かが黙って聞いたのだと思うと、胸の奥が冷えました。
「ありえない案なら、なぜ話として残っているのでしょう」
「ネレイス」
「申し訳ございません。意地の悪いことを申し上げました」
私は自分で分かっていました。けれど、止められませんでした。
「私は、殿下を疑っているのではありません」
そう言ってから、少しだけ間を置きます。
「王家を、少し怖いと思っているのです」
エリオット様は、何も言いませんでした。言葉を探してくださっているのだと分かりました。けれど、その沈黙さえ、今の私には苦しかったのです。
「君は私の婚約者だ。大公家へ渡すなど、ありえない」
「婚約者だから、ですか」
エリオット様が息を止めました。
私も、言ってから後悔しました。けれど、発してしまった言葉は戻りません。
「……違う」
エリオット様は言いました。
「いや、違わない。君は私の婚約者だ。だが、それだけではない」
「それだけではない、とは」
沈黙が落ちました。その沈黙が、答えでした。
私は礼をしました。
「失礼いたします」
「ネレイス」
「分かっております。殿下が私を守ろうとしてくださったことは」
私は微笑もうとしました。うまくいったかは分かりません。
「ですが今は、それが少しだけ苦しいのです」
エリオット様は追ってきませんでした。追ってこないでくださったことに、私は安堵しました。それがまた、苦しくもありました。
その翌日、大公家から正式な申し入れがありました。
もちろん、私個人宛てではありません。王家と、ローヴェル公爵家へです。
内容はたいへん丁寧でした。
大公家として、ローヴェル公爵令嬢の今後を案じていること。
王太子妃とするには、現在の噂があまりにも重いこと。
けれど、女神の鏡に映された令嬢を王家の外へ出すべきではないこと。
そして。
ロプス様の将来の婚約者候補として、私を大公家へ迎えることも一案ではないか、ということ。
私はその報せを聞いた時、思わず黙りました。人は、本当に驚くと怒るより先に黙るのだと知りました。
父と母は、私より先に怒りました。それはもう、たいへん静かに怒りました。
ローヴェル公爵家からは、すぐに抗議の返答が送られました。娘の今後を案じるという名目で、娘本人の意思を一切問わず、他家へ移す案を出すとは何事か、と。
そこまでは、よかったのです。
問題は、王家でした。
王家では、個人の怒りがそのまま結論になるとは限りません。
王妃殿下が眉をひそめられても。
エリオット様が、ありえないとおっしゃっても。
重臣たちが、家格と血筋と噂と体面を並べ始めれば、私の行き先は、いつの間にか検討すべき議題になります。
大公家ならば。王家の内ならば。王太子妃として危ういならば。そうした沈黙が、まるで小さな同意のように残りました。
リュディア殿下は、きっと見ていたのでしょう。
誰かが眉をひそめながらも否定しなかったこと。誰かが「大公家ならば」と呟いたこと。誰かが「王太子妃でなくとも、王家の内に」と言ったこと。
それらは承諾ではありません。けれど、拒絶でもありませんでした。
そして数日後、私は王宮の奥にある小広間へ呼ばれました。
王妃殿下。エリオット様。大公殿下。リュディア殿下。ロプス様。そして、私。
全員が揃った時、私は理解しました。
正式な申し入れへの返答を、この場で下すためだったのでしょう。
これは茶会ではありません。けれど、裁きの場とも違います。それが何より恐ろしいことでした。
リュディア殿下の手には、茶会で見た薔薇の杯がありました。
大公家を賜った折、王家より下賜された古い茶器。リュディア殿下は、そう説明していました。
王弟殿下が大公家を賜った時、薔薇の印も許されたと聞いております。王家の倉から古い調度が移されていても、おかしくはありません。
薔薇の意匠を持つ茶器など、探せばいくらでもある。けれど、今、その杯は空のまま赤く濡れているように見えました。ただの茶器なら、あのようには見えないはずです。
「私は、王家のためを思って申し上げているのです」
リュディア殿下は言いました。
「噂に揺れる令嬢を王家の外へ出せば、また新たな火種になります。ですが、王太子妃として立たせるには、今はあまりにも周囲の目が厳しい」
大公殿下が低く言いました。
「リュディア」
「大公家ならば、王家の内です」
リュディア殿下は、夫の制止を聞き流すように続けました。
「ロプスは王家に近い血を持つ子。ネレイス様がその隣に立てば、王家は彼女の価値を失わずに済みます」
「価値、ですか」
私は口を開きました。
「ええ。王家にとっても、大公家にとっても、穏やかな形ですわ」
「穏やかな形」
私は、その言葉を繰り返しました。
「リュディア殿下。穏やかに聞こえる言葉で包めば、人を動かしてもよいということにはなりません」
リュディア殿下の微笑みが消えました。
「ずいぶんな言い方をなさるのね」
「ロプス様は、王家の体面を整えるために生まれたわけではございません」
私は、薔薇の杯へ目を向けました。
「そして私も、王家や大公家の価値を保つための飾りではございません」
「飾りなどと」
「先に私を、置き場所のある品のように扱われたのは、妃殿下です」
広間が静まりました。
私は、王妃殿下を見ました。
そして、この場に残っている沈黙を見ました。
「私が一番恐ろしかったのは、リュディア殿下のお言葉ではありません」
私は、静かに言いました。
「そのお言葉を、ありえないものとして誰もすぐに断ち切らなかったことです」
誰かが息を呑みました。
「王太子妃にするには危うい。けれど、王家の外へ出すには惜しい。大公家へ置けばよい」
一つずつ、言葉を置きます。
「私は、置かれるものではございません」
広間の空気が、冷えました。
それでも私は、続けました。
「私は置物ではありません。ましてや魔道具でもございません」
王妃殿下が、わずかに目を伏せられました。
「私をもののように扱い、このような話を続けられるのであれば、私は王家との縁を切り、ローヴェル公爵家の娘として生きます」
「ネレイス」
エリオット様が、低く私の名を呼ばれました。私は振り向きませんでした。今、振り向けば、言葉が弱くなる気がしたのです。
「ローヴェル公爵家は、私のわがままを許してくれます」
私の声は、思っていたよりも落ち着いていました。
「少なくとも、私をどこへ置くかではなく、私がどこへ行きたいかを聞いてくれる家です」
沈黙が落ちました。
それは、先ほどまでの都合のよい沈黙ではありませんでした。
私が本当に王家との縁を切るつもりでいると、その場の全員が理解したのだと思います。
王妃殿下は、ゆっくりと息を吐かれました。
「リュディア大公妃」
その声は静かでした。
けれど、王宮の空気を断つには十分でした。
「この話は、ここまでです」
リュディア殿下の顔から、血の気が引きました。
「王妃殿下」
「ネレイス嬢を大公家へ移すなど、ありえません。王家がそのような扱いを許せば、王家こそが彼女をものとして扱ったことになります」
リュディア殿下の指が、薔薇の杯を強く握りました。杯の内側で、赤い光が揺れます。
「……でも」
その声は、先ほどまでの穏やかさを失っていました。
「もう少しなのです」
誰も答えませんでした。
「もう少しで、すべてが収まるのです。ネレイス様は王家の内に留まり、王太子殿下は危うい婚約から解かれ、ロプスは王家にふさわしい子だと認められる」
リュディア殿下は、私を見ていませんでした。王妃殿下も、大公殿下も見ていません。ただ、彼女にだけ見えている未来を見ていました。
「誰も損をしないでしょう?」
エリオット様の声が低く響きました。
「ネレイスが損をしている」
リュディア殿下が目を瞬かせました。
「そして、私もだ。私の婚約者を、私と彼女の意思を問わずに動かして、誰も損をしないなどと言わないでいただきたい」
リュディア殿下は、その言葉を聞かなかったかのように、ロプス様へ視線を向けました。
「ロプス」
彼女は息子へ手を伸ばしました。
「あなたは分かってくれるでしょう」
ロプス様は、母を見上げました。幼い顔に、困惑と恐れが浮かびます。
「ネレイス様があなたの隣に立てば、皆が分かるの。あなたには価値がある。あなたには未来がある。あなたは、ただの大公家の子ではないのだと」
「母上」
「こんなに近いのです」
リュディア殿下は、薔薇の杯を抱くようにして言いました。
「あと少しなのよ」
その時、ロプス様が小さく首を振りました。
「ぼくは、ネレイス様をお嫁さんにしたいと思っていません」
「ロプス」
「ネレイス様は、エリオット殿下のお隣にいる方です。ぼくの隣ではありません」
「あなたには分からないのです」
「分かりません」
ロプス様は震える声で、それでも言いました。
「分かりません。けれど、ぼくは母上の望む未来になるためにいるのではありません」
薔薇の杯が赤く光りました。強く。強く。そして、すっと消えました。まるで最後の一滴まで飲み干したように。何かが、静かに終わった気がしました。
リュディア殿下は、震える手を伸ばしました。
「ロプス。こちらへいらっしゃい」
ロプス様は、大公殿下の後ろに立ったまま、困ったように瞬きしました。
それから、リュディア殿下を見上げます。
「……あなたは誰ですか?」
その場の空気が、凍りました。
リュディア殿下の手が、空中で止まります。
「ロプス?」
「申し訳ありません」
少年は怯えたように、大公殿下の袖をつかみました。
「ぼくは、この方を知っているはずなのですか」
「私よ。あなたの母です。あなたを産んだ、あなたの母ですわ」
ロプス様は、大公殿下を見上げました。
「父上」
その呼び方には、確かな温度がありました。
「本当ですか」
大公殿下は、何かを堪えるように目を閉じました。
「……本当だ」
「そう、なのですか」
ロプス様はもう一度、リュディア殿下を見ました。けれど、その瞳には懐かしさも、安心も、甘える色もありませんでした。ただ、知らない大人を見る子どもの困惑だけがありました。
薔薇の杯が、床の上へ乾いた音を立てて転がりました。
ロプス様は、何もかもを忘れたわけではありませんでした。父である大公殿下のことも、屋敷の部屋も、家庭教師の名も、好きな本の題名も覚えていました。ただ、母親のことだけが抜け落ちていたのです。
母上と呼ぶ時の温度だけが、きれいに失われていました。
そのすべてが、薔薇の杯の底へ注がれてしまったのでしょう。
リュディア殿下は、床に落ちた杯を見下ろしていました。
「どうして」
声はかすれていました。
「私は、この子のために」
「リュディア。君は、この子を見ていなかった」
「見ていました!」
「違う。君は、この子を通して、届かなかった場所を見ていた」
リュディア殿下は何も言えませんでした。
大公殿下は、床に転がった薔薇の杯を見下ろしました。
「私にも、見えていなかったものがある」
その声は、静かでした。
「王位に近い場所に立ち続けることが、君の渇きを深くしていると気づけなかった」
「あなた」
「この子を、誰かの望む未来にされる前に、私が退かねばならないのだろう」
大公殿下は、ロプス様の肩を抱き寄せました。
「まずは、この子を休ませる」
その場で、それ以上のことは語られませんでした。
後日、大公殿下は陛下へ、王位継承権の返上を正式に願い出られたそうです。ご自身と、ロプス様の分を。
王家に近い場所に立ち続けることが、妻の渇きを育てたのなら、それもまた自分の責任だと。
その願いがどのように扱われるかは、王家と貴族院で協議されることになりました。
けれど、大公殿下がロプス様を王位に近づける道から退かせるつもりでいることだけは、はっきりしていました。
リュディア大公妃殿下は、王宮への出入りを禁じられました。
表向きには、体調不良による領地の離宮での療養。ロプス様の教育は大公殿下の管理下へ移され、大公妃殿下との面会も制限されることになりました。
薔薇の杯は、王宮宝物庫へ戻されました。
大公家へ下賜された茶器として扱われていたそれは、底の赤い染みが現れたことで、ようやく宝物庫の記録と一致したそうです。
水でも、酒でも、血でもない。おそらく、誰かの渇きがこびりついた跡なのでしょう。
その夜、エリオット様が私を庭園へ誘いました。
いつもより人払いが厚い。
王太子殿下としての配慮なのか、エリオット様個人の気遣いなのか。
今の私は、その二つを分けて考えてしまいます。
「ネレイス」
「はい」
「君を、王家の都合で測らせてしまった」
私は首を横に振ろうとして、やめました。
「私は、殿下を信じています」
エリオット様は黙っていました。
「ですが」
言葉が、喉に引っかかります。けれど、飲み込んではいけないと思いました。
「王家を、同じようには信じられないかもしれません」
「……君が、王家との縁を切ると言った時」
エリオット様の声は、静かでした。
「私は、止めたいと思った」
私は顔を上げました。
「だが、止める資格があるのかと考えた」
「殿下」
「王家が君をものとして扱うなら、君が王家を捨てるのは当然だ」
その言葉に、私は何も返せませんでした。
「それでも、私は君に残ってほしいと思っている」
エリオット様は、まっすぐ私を見ました。
「王家のためではない。私のために」
胸の奥が、痛いように揺れました。
「私の言葉は、まだ足りないのだと思う。君を安心させるには、きっと足りない。だが、足りないままにしたくはない」
私は、視線を落としました。庭石の上に、薔薇の花びらが一枚落ちています。
「私は、王太子殿下の隣に立ちたいのか、まだよく分かりません」
「うん」
「ですが、エリオット様の言葉を信じたいと思う気持ちは、まだあります」
エリオット様が、ほんのわずか息を吐きました。安堵したように見えました。
「それを、失わせないようにする」
彼は言いました。
「私が」
私は返事をしませんでした。できませんでした。けれど、逃げもしませんでした。それが今の私にできる、精一杯でした。
大公妃殿下の件から数日後、メティア様から手紙が届きました。
封蝋は、アステリア家のもの。
便箋の端には、いつものように、必要なことだけを急いで書き留めたような跡がありました。
『ネレイス様。
大公家の件につきまして、まずはご無事で何よりでございます。
王宮宝物庫から外へ出た魔道具について、追加で分かったことがございます。
警鐘の直後、予定外に東回廊を通った者は三名。
一人目は、すでに判明している近衛騎士エオリア・ヴァルナー。
月桂樹の徽章は、すぐに彼女の手元へ渡っていたと見てよいようです。
二人目は、大公家の侍女。
彼女は東回廊で、薔薇の杯と糸杉の針を手にした可能性が高いとのことです。
薔薇の杯は、ご承知の通り、大公妃殿下へ渡りました。
糸杉の針については、侍女が大公家を辞める直前、思いを寄せていた男性へ小さな包みを渡していたという証言がございます。
包みの中身が針だったかは、まだ確認できておりません。
相手の名も不明です。
侍女はすでに国を出ており、足取りもそこで途切れております。
三人目は、王宮御用達の宝石商。
ただし、宝石商に悪意があったという話ではございません。
警鐘直後、東回廊には宝物庫へ戻す予定の古い装身具と、修繕のために運び込まれていた宝石箱が一時的に置かれていたそうです。
その混乱の最中、芥子の指輪が宝石商の扱う宝飾品の中へ紛れ込んだ可能性がございます。
その宝石商は、以後も通常通り、いくつかの高位貴族家へ装飾品を納めています。
つまり、この期間に宝石商から指輪を買ったものの中に、芥子の指輪を手にした方がいるかもしれません。
確認は進められておりますが、まだ特定には至っておりません。
どうか、夜会や茶会で古い装飾品を身につけている方にはお気をつけください。
特に、指輪には。
メティア・アステリア』
私は、手紙を読み終えてから、しばらく便箋を伏せることができませんでした。
月桂樹の徽章。薔薇の杯。糸杉の針。芥子の指輪。
宝物庫から出たものは、まだ人の欲望の中を歩いている。そう思うと、指先が冷たくなりました。
悪意があったから危ういのではありません。欲があるから、危ういのです。
その夜も、私は自室の鏡の前に立ちました。
鏡の中の私は、疲れた顔をしていました。
いずれ王太子妃となる方。
女神の鏡に映された令嬢。
王家の外へ出すには惜しい娘。
どれも私を指す言葉なのでしょう。けれど、それだけが私ではありません。
私は、ネレイス・ローヴェルです。
私は鏡から目を離しました。
逃げるためではありません。
次に鏡を見る時には、もう少しだけ見苦しくなく立っていたかったからです。




