六条 13
「忌み名?」
聞き馴染みのない言葉だ。
するとユズリが補足するように答えた。
「本名のこと。前に言ったでしょ? この町で本名を名乗るなって。名前と魂は結びつきが強いから、名前を知られるってのは危険なのよ。今では此岸ではこういう習慣もほとんどなくなってるけど昔は普通だったみたい。親とか配偶者とかしか知らない名前とか、臣下は呼んじゃいけない名前とか」
「ああ、そう言えばそんな話も聞いたことがある気がする。町で本名を名乗るなってそういうことだったのか」
「そういうこと。忌み名と普段名乗る名前が違うって人は今はほとんどいないから、名前を知られるのは危険なわけよ。忌み名は魂と肉体と密接に繋がっている。特にこの町では名前から魂も記憶も指先一本までも支配されてしまう。生死の間に存在する化け物じみた連中に名前を知られたら大変よ。相手が手放すまで死もなく支配下に置かれることになるんだから。そうなると別の世界へ引かれたり、あるいは餌になったり奴隷のように扱われたりと碌な目には遭わないわよ」
そこでユズリはハッとしたように六条を見た。
六条はやはりにこにこと微笑んでいるが。
「いや……今のは一般論で……」
しどろもどろにユズリが弁明するように口にしても六条はひたすら笑みを浮かべているだけだ。
「別によろしいですわ。遊佐さんもこの町に出入りしているならば、いずれわたくしの話は嫌と言うほど聞くようになるでしょうし。不本意ながら本当に碌でもない噂ですけれど、根も葉もないと言い切りはしませんわ」
「ええと、つまり?」
遊佐の疑問に答えるように六条は言った。
「わたくしは町に出入り、或いは住んでいる方の名前を複数握っておりますの。お名前はもちろん有効活用しておりますわよ。攻守問わず、ありとあらゆる手段にお名前を使っておりますの」
艶やかな笑みで六条はそう言った。
つまり先程六条を守るように倒れた壁のような生き物も、あの影のようなものも六条に名を握られた連中と言うことか。
横目でユズリを見るとどこか青ざめた顔で俯いているから、間違いなくそうなのだろう。
他者を隷属し、使い倒す女……これは確かに怖い。ユズリや折継でなくとも普通に怖い。
「あら。遊佐さんもユズリさんも顔色が悪いようですけれどどうかなさいまして?」
「……いや」
「……別に何でもないわ……少し冷えただけ」
「そうですの?」
六条は尚も笑顔だ。
「あの……お待たせ……しました……」
重い空気に支配されたテーブルに、あの目隠しをした女給がコーヒーカップが乗ったトレイを乗せてやってきた。
「珈琲三つ……お持ちしました……」
言いながら女給は遊佐達の前にカップをひとつひとつ置いて行く。真っ白なカップからは湯気を立てた濃い褐色の液体。見たところ普通のコーヒーだ。
そして
「それでは……ごゆっくり……」
「ええ。ありがとう、笹垣さん」
六条の言葉に女給は深くお辞儀して音もなく去っていった。
「さぁ、では頂きましょうか。此処の珈琲はとても美味しいんですのよ」
嬉しそうに言う六条に無言で頷き、遊佐とユズリも本来なら美味しいと思えそうな味のコーヒーを黙って飲んだ。