六条 9
「……ああ、記憶の淵にほんのりと浮かんできましてよ。貴方、先日婦女子を無理やり遊郭に売り飛ばしていた下手人の手下じゃありませんの。その悪趣味なお着物、覚えがありますわ」
「あぁあぁ思い出してくれて光栄だな! てめぇのせいで親分は冥府送り! 組員のほとんどもてめぇに半死半生の目に遭わされた! この恨みはちっとやそっとじゃ晴れねぇぜ!?」
何だ、ほぼ自業自得ではないか。どこにでもああいう逆恨みをしてくる輩というのはいるものだ。そんな悪党共を壊滅させたなら、六条はむしろ善人の類ではないか。
そう思い遊佐がユズリを横目で見ると、その横顔には冷や汗が浮かんでいた。
「何であの馬鹿、一度やられたにも関わらず六条の前に顔見せるのよ。馬鹿じゃないの、馬鹿って言うか大馬鹿じゃない。大迷惑よ」
そんなことをぶつぶつと呟いている。
そんな遊佐たちから少し離れたテラスでは男がさらに恨み事をまくしたて、その男と対峙する形になる六条は不愉快そうにそれを見ていた。
「とにかく! てめぇを殺ったとなりゃあてめぇにやられた他の連中に恩も売れるってなもんだ! ここらで冥府に行っとけや!!」
「……五月蠅いですわね」
ひやりとした声と共に、六条が手にしていたハンカチを手放した。風に乗るように白いハンカチはゆらゆらと揺られながら闇と灯りに彩られた地上へと落ちて行く。
「もう結構ですわ。貴方の耳障りな声などこれ以上聞きたくありませんし」
切れ長の目がすっと細められ、薄い唇が開かれた。
その瞬間、はっとしたように男が両手に握った火縄銃の引き金を引き、二つの爆発音が鳴り響いた。
「……おいっ!」
遊佐は声を発しながらも、間違いなく撃たれたと思った。二発の鉛玉は外れようもない距離から撃たれあの細身を貫いたと、そう思った。
一秒にも満たない時間の後、咆哮が上がり血飛沫が舞った。
咄嗟の出来事のせいか、遊佐の脳は目の前に広がる光景をきちんと処理できていないらしい。
血飛沫と咆哮。
それからテラスに落ちる重々しい音。
六条の前にいた、まるで四角い壁に獣の手足をつけたような生き物が咆哮を上げ、その体から血を流し、そしてテラスへと崩れ落ちた。
それはまるで六条の盾になったかのように、いつからか六条の前に存在し、そして彼女を守るように倒れた。
六条は見る限り全くの無傷でそこに悠然と佇んでいた。そして自分を守った生き物を見下ろすと感情のない声で言った。
「そろそろ限界ですわね。もうよろしいわ。貴方は冥府へお行きなさいな」
途端、獣の手足がぴくりと反応し、傷から流れ出る血も厭わず壁のような奇妙な生き物はまるで風のようにどこかへと飛び去った。
六条へ銃を向けた男は遊佐と同じように、何が起きたのか把握できず茫然とその場に立ち尽くしていた。
放心状態だった二人の意識を現実へと向けさせたのは涼やかな声だった。
「――ヒガクシノハ」
六条の口からその単語が発せられるなり、六条へ銃を向けた男の全身から血が噴き出した。
包帯を巻いた顔も手足も胴体も例外なく、着物をも切り裂き、血が噴き出す。
「なあ、あぁ、ああああっ!!」
男は銃を取り落とし、己の身に起こっていることがまるで理解できないと言わんばかりに言葉にならない声を上げ、その場に座り込んだ。
六条はさらに言葉を発した。
「具音ケイ餓ショウ」
耳に馴染まない音を発し、続ける。
「何処か遠く、わたくしの視界に入らぬ場所に」
冷え冷えとした声でそう口にするなり、全身血まみれとなった男が一瞬黒い影に包まれた。どこからか現れた影に覆われ尽くし、男の姿が見えなくなった。
そう認識する頃にはテラスに男の姿はなくなり、ただ先ほどの惨事が現実のものであったと証明するかのように血の後を残すばかりだった。