赤い線
八卦院の店を出てユズリが進んだのは、十字路以外に十二階建ての塔から放射状に伸びた無数の小道のひとつだった。これが裏通りなのかと尋ねると、塔に直結している道は裏通りではないと教えてくれた。
「まぁ十字路よりは危険だとは言われてるけどね」
片手に八卦院の店から借りてきた刀を携え、ユズリはやや早口で言った。その横顔を窺ってみれば、即座に距離を取りたくなるほど不機嫌な顔をしている。さっき目当てだったらしい刀が既に人手に、それもユズリとはあまり相性のよくないらしい人物の手に渡ったと知ってからずっとこの調子だ。
「とりあえず遊里のほうへ行ってみるわ」
「遊里?」
「遊女屋とかが集まっている区域。あのバカのことだから、あの辺にいる確率が無駄に高いわ。そんなに奥まってはいないけど裏通りだから気を引き締めていかないと、引かれるからね」
答えながら苛立ってきたのか、ユズリはさらに肩を怒らせた。機嫌は悪いが性分なのか、律義に答えてくれることは助かる。
「遊女屋っていうと、この間の心中未遂の奴がいたような?」
「そう。でもあの店は十字路から少し入ったところにある店だから、遊女も客も町に深く関わるよううなのはいなかったと思う。でもこれから行くのは十字路から外れた裏通りにをねぐらにしているような奴が行くような場所。遊女も客も、狐と狸ばっかりよ」
「狐……八卦院みたいな?」
遊佐の言葉に、ユズリはくるりと振り返って不機嫌な顔を見せた。
「今のは比喩表現よ、比喩。よく言うでしょ? 狐と狸の化かし合いとか。そういう奴らのこと」
「ああ」
呑気な遊佐の答えに、ユズリは再び前を向いて歩きだした。
シノや八卦院がユズリはいまいち甘いというようなことを言っていたが、それはこの美徳ともとれる性分によるものがあるのかもしれない。少なくとも遊佐はシノを相手にしてユズリのように望んだ情報を引き出せる自信はない。シノはまさに、狐も狸という喩えを具現化したような存在だ。
ふいに思う。この町でシノによって与えられたユズリという道案内のような存在を失ったら一体どうなるのだろう。名を名乗らないという最低限の原則を知っていても、この調子ではすぐに町に巣食う闇に取って食われるかもしれない。
シノは遊佐の人探しの事情を聞いて、出来る限りはすると言ってくれたし、冥府のお偉方も協力してくれるようなことを言っていた。だがそれからは梨の礫だ。遊佐が町に来た原因はいまだ見つからない。焦る気持ちはあれど、最近はこの夜の町を歩くこと自体を楽しんでいる自分もいる。
常識が通用せず、不気味な極彩色に彩られた混沌とした町。
普通ならば好んでいるような場所でもないはずなのに、毎夜町を訪れるうち、この混沌に安寧を見出すようになってきた。そして同じように考える町の住人は意外に少なくないらしい。
不思議な町だ。
どう考えても危険でしかない場所なのに。あらゆるものが集まるからかこの町は何物も拒まない。そのためか。この町では受け入れてもらえる。此岸にあぶれた者も、彼岸に渡り切れぬ者も。あぶれ、歪んだ者達は一切を拒まぬ場所に居場所を求めて集うのか。
すれ違う人間も、人間ともつかぬ者も、彼らはなぜここにいるのだろう。遊佐やユズリのように朝が来れば元いた日常へ帰ることもなく、この町こそが日常の場となっている者は少なくないという。彼らも生死の狭間にしか居場所を見つけられなかったのだろうか。
「――遊佐?」
気付けばユズリが怪訝な表情をこちらに向けて立ち止まっていた。
「何よ、いつにも増してぼーっとして。ここ、越えるとすぐよ」
「……ああ」
ユズリの指差すほうを見ると、行き止まりと示すかのように赤い線が一本引かれていた。これはどういう意味なのかと一瞬疑問に思ったが、ユズリは気にせずまたいで行ったので遊佐もその後に続いた。そのまま少し歩いたかと思えば、急に道が開け、唐突に高い笛の音や三味線に似た音、女たちの艶やかな呼び声や男たちの喧騒が耳に入ってきた。
「これは」
「ここがこの町最大の遊里よ。さっきの赤い線は遊里直結って意味なの。健全な青少年が来るようなところじゃないからね」
溜息まじりにユズリは言い、より一層色鮮やかに賑わう夜の町を睨み据えた。
「さぁ。あのバカはどこにいやがるのかしら」
半眼で辺りを見回しながら、ユズリは一番手近にあった店へと歩き出した。その店の入り口の隣には格子がはまっており、その奥から艶やかに着飾った遊女達が客引きをしている。見世というのだと教えてくれたユズリは町に入ってから一層憮然としている。
「おや、シノの旦那のお嬢さん」
格子の向こうの遊女が煙管を片手に真っ赤な唇で笑む。
「こんな所に来るなんて珍しいね。旦那のお使いかい?」
遊佐よりもいくらか年長らしい遊女は、客引きに熱心な他の遊女たちより一歩退いた所から声をかけてくる。
「折継を探してるの。今日はここへ来ている?」
「継橋なら見かけたね。もう少し奥へ行くと飛天屋って廓があるんだが、そこにいると思うね。最近よくあそこへ出入りしているようだったから」
「そう。ありがとう」
ユズリが礼を言いポケットから握りしめた手を差し出すと、遊女はにっこりと笑って手を取った。
「毎度あり」
開かれた遊女の手には金と銅の硬貨が数枚。
「そっちの旦那も今度は寄って行っておくれよ?」
遊佐は曖昧に頭を下げてユズリと共に見世を離れた。
酔っぱらい千鳥足の男達とすれ違いながら、遊佐とユズリは延々と遊女屋に囲まれた道をまっすぐに歩き続ける。
「あれは情報料か?」
結局聞き出した情報は他人のもののように聞こえたが。
「そうよ。遊女サン達は職業柄、酔っ払いやたがの外れた男を多く相手にしたりするから色んな情報を持っている。下手な裏通りの情報屋よりも知っていることも多いの。とはいえ女も怖いからね、うまくやらなきゃ出費ばかりかさんで気付いたらすっからかんよ。時々バカな男が情報買いに来たんだか女を買いに来たんだかわからなくなって、無一文になって店から叩き出されたりするそうよ」
バカよね、と呟いてユズリは先へ進んだ。