壁越しの貴方の声だけが、私の孤独を溶かしてくれました~婚約破棄された令嬢は、顔も知らない隣人に恋をする~
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「君の甲高い声を聞くたびに、頭が痛くなるんだ」
侯爵家の煌びやかな大広間に、ヴィクター様の声が冷たく響いた。
私——リディア・クレストフォールは、婚約者からの突然の言葉に、一瞬だけ瞬きを忘れた。周囲には社交界の名だたる貴族たち。その全員が、私を見ている。憐憫、嘲笑、そして——ほんの少しの愉悦を滲ませた目で。
「申し訳ありません。意味が、よく……」
「だから声を出すなと言っているんだ」
ヴィクター様が眉を顰める。蜂蜜色の髪を優雅に掻き上げながら、彼は深々と溜息をついた。まるで、とても面倒な仕事を片付けるかのように。
「リディア嬢。我々の婚約は、本日を以て解消とする。異論は認めない」
(ああ、やっぱり)
不思議と、驚きはなかった。予感はあったのだ。最近のヴィクター様は、私が口を開くたびに不快そうに顔を歪めていた。「用があれば手紙で伝えろ」と言われたのは、二ヶ月前のこと。
私の声は、昔から「変わっている」と言われてきた。
鈴を転がすような、けれど独特の響きを持つ声。幼い頃は「面白い声ね」と笑われ、成長するにつれ「品がない」「耳障りだ」と陰口を叩かれるようになった。
父上からは「必要以上に喋るな」と命じられた。
母上は——私の声を聞くたび、痛ましいものを見る目をした。
だから私は、沈黙を選んだ。必要最低限の言葉だけで生きることを覚えた。それでも駄目だったらしい。
「ヴィクター様、リディアなんかより、私の方がずっとお傍に相応しいですわ」
甘ったるい声が割り込んでくる。赤毛を艶やかに揺らしながら、セレナ・ベルモンド嬢がヴィクター様の腕に絡みついた。猫のような緑の瞳が、私を見下ろしている。
「ねえ、リディア様? 貴女の声、まるで田舎の鶏みたいですもの。侯爵夫人には相応しくないわ」
くすくすと、周囲から笑い声が漏れる。
(鶏、ね。随分と詩的な表現をお持ちで)
私は黙って、二人を見つめた。ヴィクター様はセレナ嬢の腰に手を回している。ああ、そういうことか。最初から決まっていたのだ。
「……承知いたしました」
私が静かにそう告げると、ヴィクター様は一瞬だけ面食らったような顔をした。もっと取り乱すとでも思っていたのだろうか。
(残念ね。私はとっくに、貴方に期待することをやめていたの)
深々と一礼をして、私は踵を返した。背中に降り注ぐ嘲笑と囁き声。「やはりあの声では」「公爵家の恥」「可哀想に」——どれも聞き慣れた言葉だった。
大広間を出る直前、ふと振り返る。
セレナ嬢が勝ち誇った笑みを浮かべていた。ヴィクター様は、もう私のことなど眼中にないとでも言うように、彼女の髪を撫でている。
(精々お幸せに。きっとすぐに、本性がお分かりになるでしょうから)
私は何も言わず、静かに扉を閉めた。
◇◇◇
その夜、クレストフォール公爵邸に戻った私を待っていたのは、父上の冷たい視線だった。
「婚約破棄されたそうだな」
書斎に呼び出され、私は父上の前に立っていた。白髪交じりの灰色の髪、同じ色の冷たい瞳。この人が私を「娘」と呼んだことは、一度もない。
「やはりあの声では仕方あるまい」
(ええ、そうでしょうとも)
私は黙って頷いた。言い訳をしたところで無駄だと知っている。
「お前には郊外の屋敷に移ってもらう。社交界に顔を出す必要はない。——いや、出るな」
隠居、という名の追放だった。
「……かしこまりました、父上」
「それでいい」
父上は既に視線を書類に戻していた。私という存在は、もう彼の中では片付いた案件なのだろう。
(結局、私は最後まで、この家の「恥」でしかなかったのね)
書斎を出ると、廊下の隅でマリーが待っていた。栗色の髪をお団子にまとめた、そばかす顔の侍女。幼い頃から私に仕えてくれている、たった一人の味方。
「お嬢様」
彼女の温かな茶色の瞳が、私を捉える。憐れみではなく、静かな怒りを湛えた目だった。
「荷造りは私が。どうかお部屋でお休みください」
「……ありがとう、マリー」
声が少し震えた。こんな時でも、この人だけは私の傍にいてくれる。
「お嬢様の声は、私には子守唄のように心地よいのですよ」
マリーが、いつもの台詞を呟いた。何度聞いても、信じられない言葉。けれど——今夜だけは、少しだけ救われた気がした。
三日後、私は貴族街の外れにある小さな屋敷へと移り住んだ。
誰にも必要とされない、沈黙の日々が始まる——はずだった。
◇◇◇
新しい屋敷は、思っていたよりも居心地が良かった。
貴族街の外れ、古い石造りの二階建て。庭は手入れが行き届いていないが、野薔薇が好き勝手に咲き誇っているのが、かえって風情がある。何より——誰の視線も、囁き声も、ここには届かない。
「お嬢様、お茶が入りましたよ」
マリーが温かな紅茶を運んでくる。彼女は私と共にこの屋敷へ来ることを志願してくれた。「公爵家に残れば、もっと良い待遇が得られるのに」と言っても、「お嬢様のお傍に」と譲らなかった。
(本当に、もったいない人)
窓辺の椅子に腰掛け、私は紅茶を啜る。もう誰に気を遣う必要もない。婚約者のご機嫌を取る必要も、父上の冷たい視線に怯える必要も。
——これが、自由というものなのかしら。
皮肉なことに、追放されて初めて、私は安らぎを感じていた。
◇◇◇
その夜のことだった。
眠れずに窓辺で月を眺めていると、ふと——歌声が聞こえた。
低く、深く、けれど澄み渡るような美しいバリトン。
壁の向こうから響いてくる。隣の屋敷だろうか。古い壁は思ったより薄いらしく、旋律がはっきりと届いてくる。
知らない歌だった。けれど、どこか懐かしい。胸の奥がじわりと温かくなるような、不思議な曲。
私は息を殺して、聴き入った。
歌声は、夜が更けるまで続いた。そして——ぷつりと途切れるように、静寂が戻る。
「……綺麗」
思わず、呟いていた。
声を出すのは久しぶりだった。誰もいない部屋で、誰に聞かせるでもなく。ただ、そうせずにはいられなかった。
翌日も、歌声は聞こえた。
その翌日も。
私は毎晩、壁際で耳を澄ませるようになった。
◇◇◇
一週間が過ぎた頃——事件は起きた。
その夜、歌声がいつもより早く途切れた。そして、壁の向こうから——苦しげな呻き声。
「っ……」
私は思わず壁に手を当てた。どうしたのだろう。具合が悪いのだろうか。
呻き声が続く。まるで、何かに苛まれているかのような。
「あの……大丈夫ですか」
気づいた時には、声を出していた。
壁の向こうが、しん、と静まり返る。
(しまった)
慌てて口を押さえる。何をしているのだ、私は。知らない隣人に、いきなり声をかけるなんて。それも、この「耳障りな」声で——
「……誰だ」
低い声が返ってきた。歌声と同じ、深いバリトン。けれど今は、警戒心を滲ませている。
「す、すみません。隣に越してきた者です。お声が聞こえたので、つい」
沈黙。
(ああ、やっぱり。気味悪がられた)
私は壁から離れようとした。その時——
「……貴女の声」
「はい」
「不思議な声だな」
心臓が、どくんと跳ねた。
(また「変」と言われる。分かっている。分かっているけど——)
「澄んだ鈴のようだ」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
「聞いていて心地いい。もう少し、話してくれないか」
私は、言葉を失った。
二十年間、誰にも言われたことのない言葉だった。
「……本当に、そう思われるのですか」
「嘘を言う理由がない」
壁の向こうの声は、淡々としていた。けれど、その淡々とした響きが、かえって真実味を帯びていた。
「貴女の声を聞いていたら、痛みが和らいだ」
「痛み?」
「……何でもない。忘れてくれ」
彼は言葉を濁した。けれど、私は聞き逃さなかった。この人も、何かを抱えている。
「私はリディアと申します。貴方のお名前は?」
少しの沈黙の後、彼は答えた。
「……セイル。そう呼んでくれ」
「セイル様」
「様はいらない。俺は——訳あって、人前に出られない身だ。だからこんな場所に住んでいる」
(人前に出られない?)
問い詰めるのは躊躇われた。私だって、誰にも言えない傷を抱えている。
「では、私も「様」は結構です。ただのリディアで」
「……分かった。リディア」
私の名前が、あの美しい声で紡がれる。それだけで、胸の奥がふわりと温かくなった。
「良ければ——また、話しても良いでしょうか」
「……ああ。貴女の声なら、いつでも」
その夜、私は久しぶりに穏やかな眠りについた。
◇◇◇
翌朝、マリーが意味深な目で私を見た。
「お嬢様、昨夜はよくお眠りになれたようで」
「……何故分かるの」
「顔色が違いますもの。それに——壁の向こうのどなたかと、ずいぶん長くお話しされていたようですし」
(聞こえていたの!?)
私は思わず頬を赤らめた。マリーがにんまりと笑う。
「良いお声の方でしたねえ。お嬢様のお相手には——」
「マリー」
「はいはい、これ以上は申しません」
彼女は肩を竦めて、朝食の準備に戻っていった。
(まったく、この人は)
けれど、悪い気はしなかった。
——セイル。顔も知らない、壁の向こうの隣人。
彼は、私の声を「心地いい」と言った。世界で初めて。
(もう一度、聞きたい)
その夜を、私は待ち遠しく思っている自分に気づいた。
◇◇◇
壁越しの会話は、毎晩の習慣になった。
「今日は何をしていた、リディア」
「お庭の野薔薇を剪定していました。マリーが棘で指を刺して大騒ぎでしたわ」
「……ふ、それは災難だったな」
セイルの低い笑い声が壁越しに響く。この人が笑うようになったのは、つい最近のことだ。最初の頃は、どこか張り詰めた声をしていた。まるで、笑い方を忘れてしまったかのように。
私は壁に背を預け、膝を抱えて座っている。お嬢様らしからぬ姿勢だが、誰も見ていないのだから構わない。
「セイルは今日は何を?」
「……本を読んでいた。古い魔導書だ」
「魔導書? 魔法がお好きなの?」
「好き、というより——必要だった」
彼はまた言葉を濁す。セイルはいつもそうだ。自分のことをあまり語らない。
(訳あって人前に出られない、と言っていたけれど)
何があったのだろう。けれど、無理に聞き出すつもりはなかった。この距離感が、心地よかったから。
「リディア」
「はい」
「一つ、約束してほしいことがある」
セイルの声が、少し硬くなった。
「俺と——顔を合わせようとしないでくれ」
私は瞬きをした。
「……理由を、聞いても?」
「俺は……人に見せられる姿ではないんだ。だから、こうして壁越しに話すくらいが丁度いい」
彼の声には、深い翳りがあった。自嘲のような、諦念のような。
(この人も、何かを抱えているのね)
私は壁に手を当てた。指先が、冷たい石に触れる。
「分かりました。約束します」
「……良いのか? 普通は気になるだろう」
「私も、人に聞かせたくない声を持っていますから」
沈黙が流れた。
「……貴女の声は、美しい」
「そう言ってくださるのは、貴方だけです」
「世界が間違っているんだ」
彼は、さも当然のように言った。
私は壁に額を預けた。なぜだろう。涙が出そうだった。
「セイル」
「ん?」
「貴方の歌声は、私の宝物です。毎晩聴かせていただいて、ありがとうございます」
今度は、壁の向こうが静まり返った。
「……リディア」
「はい」
「貴女がここに来てから——俺は、歌う理由ができた」
私は目を閉じた。
壁一枚を隔てて、私たちは繋がっている。顔も知らない。触れ合うこともできない。けれど——これ以上に純粋な繋がりがあるだろうか。
(この人のことが、好きだ)
認めてしまえば、もう後戻りはできなかった。
◇◇◇
数日後、マリーが街で妙な噂を聞いてきた。
「お嬢様、ハーヴィス侯爵家が大変なことになっているそうですよ」
「……ヴィクター様の家?」
「ええ。新しい婚約者様が——それはもう散財なさっているとか。舞踏会のたびに新しいドレス、宝石、馬車。侯爵様がお怒りだそうです」
私は紅茶を啜りながら、淡々と聞いていた。
(ああ、やっぱり)
セレナ・ベルモンド嬢の本性など、社交界の片隅にいた私でも知っていた。計算高い野心家で、贅沢が大好き。ヴィクター様は、見た目の美しさに騙されたのだ。
「それから——お嬢様が陰でなさっていた領地経営のお仕事、後任がいなくて大混乱だとか」
私は思わず口元が緩んだ。
(私が「無能な公爵令嬢」だと思っていたのかしら、あの人たちは)
婚約者として、私はハーヴィス侯爵家の帳簿管理を手伝っていた。ヴィクター様は数字に弱く、私がいなければ収支の計算すらおぼつかない。そのことを、彼は知らなかった。興味がなかったから。
「自業自得ですね」
「まあ、お嬢様。辛辣」
「事実を述べたまでです」
マリーがくすくす笑う。私も少しだけ笑った。
(ざまあみろ、なんて——品のない言葉ね)
けれど、心の中でだけなら許されるだろう。
◇◇◇
その夜、私は壁越しにセイルへ語りかけた。
「セイル、一つ聞いても良いですか」
「何だ」
「貴方は——私の声を、本当に心地よいと思いますか。お世辞ではなく」
少しの沈黙の後、彼は答えた。
「リディア。俺は三年間、ここで一人で暮らしてきた。人と話すことも、笑うこともなかった」
私は黙って聞いた。
「貴女の声を聞いた時——初めて、安らぎを感じたんだ。痛みが和らいだ。呪いが、少し軽くなった」
「呪い?」
思わず聞き返した。セイルが、小さく息を吐く。
「……言い過ぎた。忘れてくれ」
「いいえ、忘れません」
私は壁に両手を当てた。
「セイル。貴方が何を抱えていても——私は、貴方の歌声に救われました。だから今度は、私が貴方を救いたい」
沈黙が流れる。長い、長い沈黙。
やがて、彼の声が聞こえた。
「……リディア」
「はい」
「貴女は——いつか、俺と会ってくれるか」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「顔を見せたくないのでは……?」
「貴女になら——見せてもいいと、思い始めている」
壁の向こうの声が、かすかに震えていた。
「もう少しだけ、時間をくれ。俺も——覚悟を決めたい」
「……はい。待っています」
私は壁に額を預けた。冷たい石の向こうに、彼がいる。
(私たちは、いつか会える)
その約束だけで、胸がいっぱいだった。
◇◇◇
それは、突然の出来事だった。
「お嬢様、王宮からお使いの方が……」
マリーが困惑した顔で、一通の書状を持ってきた。深紅の封蝋には、王家の紋章が押されている。
(王宮……? 私に何の用が)
追放された公爵令嬢に、王家が用などあるはずがない。何かの間違いだろうと思いながら封を切り——私は目を疑った。
『リディア・クレストフォール嬢へ
貴女の「声」について、至急お話ししたき儀がございます。
王立学術院 音響魔法学部門長 エドワード・グラシアーノ』
声について。
私の、声について。
(何故……?)
◇◇◇
翌日、私は王宮の一室で、銀縁眼鏡の紳士と向かい合っていた。
「お初にお目にかかります。エドワード・グラシアーノと申します」
四十代ほどの、知性的な顔立ちの男性。緑の瞳が、学者らしい好奇心に輝いている。
「早速ですが——リディア嬢、貴女の声を聞かせていただけますか」
「……私の声は、あまり人に好まれないのですが」
「構いません。むしろ、その「普通とは違う」声を聞きたいのです」
彼の態度には、侮蔑の色がなかった。純粋な興味だけが、そこにはあった。
私は小さく息を吸い、昔覚えた子守唄を口ずさんだ。
歌い終わると、エドワード氏が目を見開いていた。
「やはり……やはりそうだ!」
「え?」
「リディア嬢、貴女の声には「精霊の祝福」が宿っています」
私は意味が分からず、瞬きを繰り返した。
「せいれいの……祝福?」
「千年に一人と言われる、極めて希少な力です。聞く者の心身を癒し、呪いすら浄化する——古文献にしか記されていない、伝説の声」
エドワード氏が興奮気味に続ける。
「貴女の声が「変」だと言われてきたのは、人々がその価値を理解できなかっただけ。本来ならば、国を挙げて保護すべき宝なのです」
私は——何も言えなかった。
二十年間、否定され続けた声。「耳障りだ」「品がない」「恥」。そう言われ続けて、私は自分を責めてきた。なのに——
「呪いではなく……祝福」
「ええ。紛れもない祝福です」
視界が滲んだ。
(セイルが言っていた。「貴女の声を聞くと、痛みが和らぐ」と)
あれは、本当だったのだ。私の声には、癒しの力がある。彼の「呪い」を——私の声が、少しずつ癒していた。
「リディア嬢。王宮では、貴女の声を必要としている方がいらっしゃいます」
「必要と……?」
「三年前、呪いを受けて療養中の方です。貴女の声があれば、その呪いを解けるかもしれない」
私は顔を上げた。
三年前。呪い。人前に出られない——
(まさか)
心臓が、激しく鳴り始めた。
◇◇◇
王宮から戻った夜、私は壁に向かって声をかけた。
「セイル」
「……ああ」
彼の声は、いつもより固かった。何かを察しているような。
「私、今日——自分の声の秘密を知りました」
「……そうか」
「千年に一人の祝福だそうです。聞く者を癒し、呪いを浄化する力」
沈黙が流れた。
「セイル。貴方が言っていた「呪い」——私の声で和らいでいたのですね」
「……ああ」
「ずっと黙っていてくれたのね。私が傷つかないように」
「違う」
彼が、珍しく強い口調で言った。
「俺は——貴女を利用したくなかったんだ。声の力ではなく、貴女自身と話していたかった」
私は壁に手を当てた。
「セイル」
「何だ」
「私、貴方に会いたい」
壁の向こうが、静まり返る。
「もう——顔を見ても大丈夫。私は、貴方が何を抱えていても怖くない。だって私たちは、声だけで心を通わせてきたのだから」
長い沈黙の後、彼の声が聞こえた。
「……明日の夕刻。庭で会おう」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「はい——待っています」
その夜、私は眠れなかった。
明日、ついに彼と会える。顔も知らない、けれど誰よりも近い人と。
◇◇◇
約束の夕刻——私は庭に立っていた。
野薔薇の香りが風に乗って漂う。茜色に染まる空の下、私は隣家との境界である石壁を見つめていた。
足音が聞こえる。
壁の向こうから、ゆっくりと近づいてくる気配。
「リディア」
あの声だ。毎晩聞いていた、深いバリトン。けれど今は——目の前にいる。
「セイル」
私は息を呑んだ。
壁の端から現れたのは、長身の男性だった。漆黒の髪、深い紺碧の瞳。彫刻のように整った顔立ち——けれど、右頬から顎にかけて、痛々しい傷痕が走っている。
赤黒く、ところどころ隆起した傷。呪いの痕跡だと、すぐに分かった。
「……これが、俺だ」
彼は自嘲するように言った。
「醜いだろう。人前に出られないと言った意味が、分かっただろう」
私は一歩、彼に近づいた。
「リディア?」
もう一歩。彼の目の前に立つ。
「……貴女、怖くないのか」
私は首を横に振った。
「怖くありません」
「何故」
「だって——貴方は貴方だから」
彼の紺碧の瞳が、大きく見開かれた。
「私は、貴方の歌声に救われました。貴方の言葉に救われました。顔など——最初から関係なかったのです」
私は手を伸ばし、彼の傷に触れた。
彼が身を強張らせる。けれど、私は手を引かなかった。
「貴方は、私の声を「心地いい」と言ってくれた。世界で初めて。——その言葉に、どれだけ救われたか分からない」
私の声が、かすかに震えた。
「だから今度は、私が言いたい。貴方は醜くない。傷があっても、貴方は美しい」
彼の目から、一筋の涙が流れた。
「リディア……」
「セイル。——いいえ、もう本当の名前で呼んでもいいですか」
私は微笑んだ。
「アレクシス殿下」
彼が息を呑む。
「……気づいていたのか」
「王宮で聞きました。三年前に呪いを受けた王弟殿下が、人目を避けて隠居生活を送っていると」
「それでも——来てくれたのか」
「当然です」
私は彼の両手を取った。
「貴方が王弟だろうと、傷があろうと——私が愛しているのは、壁越しに語り合った「セイル」なのですから」
アレクシス殿下——いいえ、アレクシスが、私を抱きしめた。
「……リディア」
「はい」
「俺も——貴女を愛している。声ではなく、貴女自身を」
私は彼の胸に顔を埋めた。
温かかった。壁越しには感じられなかった、彼の体温。心音。
「貴女の声が、俺を救った。三年間、癒えなかった呪いが——貴女と話すようになってから、少しずつ薄れていった」
「私の声には、精霊の祝福があるそうです」
「知っている。だが——」
彼が私の顔を両手で包んだ。
「祝福がなくても、俺は貴女を愛した。声が「普通」でも、貴女を愛した。それだけは、信じてくれ」
私の目から、涙が溢れた。
「……はい」
二十年間、否定され続けた私。けれど——この人だけは、私を丸ごと受け入れてくれる。
「アレクシス」
「ん?」
「私は——貴方と、これからも一緒にいたい」
「俺もだ」
彼が微笑んだ。傷があっても、その笑顔は美しかった。
「リディア・クレストフォール。——俺の妻になってくれないか」
私は涙を拭いながら、精一杯の笑顔で答えた。
「はい。喜んで」
野薔薇の香りが、祝福のように二人を包んだ。
◇◇◇
数ヶ月後——王弟アレクシスと元公爵令嬢リディアの婚約は、王国中を驚かせた。
「呪われた王弟と、婚約破棄された令嬢」と揶揄する者もいた。けれど、やがて真実が広まると、世間の目は一変した。
リディアの声には千年に一人の「精霊の祝福」が宿っていること。
その声が王弟の呪いを癒したこと。
二人は顔を合わせる前から、心を通わせていたこと。
「声だけで結ばれた、真実の愛」——そう称えられるようになった。
一方、ハーヴィス侯爵家は没落の一途を辿っていた。
セレナの散財により財政は破綻。さらに、婚約時代にリディアへ行った嫌がらせの証拠隠滅に公金を流用していたことが発覚し、ヴィクターは爵位剥奪の危機に瀕していた。
「リディア、頼む、口添えをしてくれ——」
婚約発表の祝賀会で、かつての婚約者が擦り寄ってきた。蜂蜜色の髪は乱れ、かつての自信に満ちた顔は青ざめていた。
私は静かに彼を見つめた。
「ヴィクター様。貴方は私に、何と仰いましたか」
「それは……」
「『君の声を聞くたびに頭が痛くなる』——でしたね」
彼が顔を歪める。
「私の声は変わっていません。貴方が「耳障り」と言ったこの声で——今、王弟殿下の呪いを癒しています」
「リディア……」
「お引き取りください。私は、もう振り返りません」
私は踵を返した。背後で、彼が何か叫んでいた。けれど、もう聞こえなかった。
(さようなら、ヴィクター様)
アレクシスが、私の手を取った。
「大丈夫か」
「ええ。もう、何も感じません」
「そうか」
彼が微笑む。傷痕は薄れ、今ではうっすらと跡が残る程度になっていた。
「リディア」
「はい」
「帰ろう。——俺たちの家へ」
私は彼の腕に手を添えた。
かつて「沈黙の令嬢」と呼ばれた私は、今、声を取り戻した。
そして——壁越しに出会った、たった一人の理解者と共に、新しい人生を歩み始める。
「ねえ、アレクシス」
「何だ」
「今夜も——歌を聴かせてくれますか」
彼が笑った。
「ああ。何度でも」
——これは、声だけで繋がった二人が、本当の愛を見つける物語。
<終>




