「お幸せに」と微笑んだ私を、旦那様は逃がしてくれませんでした
「今夜、婚約破棄を発表する」
クラウス様の声は、いつもと同じように冷たかった。
書斎の窓から差し込む夕陽が、彼の銀髪を淡く染めている。三年間、私はこの人の横顔を見つめてきた。話しかけても素っ気なく、視線を向けてもすぐに逸らされる。愛されていないことなど、とうに分かっていた。
だから——予想していた、というのが正直なところだ。
「承知いたしました」
私は微笑んだ。精一杯、穏やかに。
クラウス様の眉が、ほんの少しだけ動いた気がした。けれどきっと気のせいだろう。この人が私のことで表情を変えるはずがない。
「……それだけか」
「はい。三年間、お世話になりました」
没落寸前のヴェルナー子爵家。その娘である私が、シュヴァルツ公爵家の嫡男と婚約できたのは、ひとえに「援助の担保」としてだった。
領地の財政難を救う代わりに、娘を差し出す。
政略結婚。愛のない契約。
分かっていたはずなのに、どこかで期待していた自分が愚かだった。初めて会った時、彼の銀色の瞳があまりに綺麗で、心臓が跳ねたのを覚えている。けれど彼は、一度も私を見てはくれなかった。
「カタリナ様とお幸せに」
私がそう言った瞬間、クラウス様の表情が凍りついた。
「……誰から聞いた」
「社交界では有名ですから」
伯爵令嬢カタリナ・メルツ。金髪碧眼の美女で、社交界の華と謳われる人。彼女がクラウス様に想いを寄せていることは、誰もが知っている。
そして——クラウス様が私に冷たいのは、カタリナ様を愛しているからだと、彼女自身が何度も言っていた。
「あの方は素敵な方です。きっとお似合いですわ」
嫌味ではない。本心だ。私のような没落貴族の娘より、華やかな伯爵令嬢の方がこの人にはふさわしい。
クラウス様は何か言いかけて、口を閉じた。
「……荷造りを許可する。今夜の晩餐会の後、馬車を出そう」
「ありがとうございます」
私は一礼して、書斎を出た。
振り返らなかった。振り返ったら、涙が零れてしまいそうだったから。
◆
自室に戻り、荷造りを始める。
三年間で増えた私物は、驚くほど少なかった。実家から持ってきた数着のドレスと、本が何冊か。それだけだ。
窓辺の小さな鉢植えに目が止まる。銀鈴草——私が一番好きな花だ。いつの間にか、この部屋に置かれていた。使用人の誰かが気を利かせてくれたのだろう。
銀色の小さな花が、風に揺れている。クラウス様の髪の色に似ているな、と思ったことは、誰にも言っていない。
この鉢植えは、置いていくしかない。実家に持ち帰っても、世話をする余裕はないだろうから。
「……リーゼロッテ様」
控えめなノックの後、扉が開いた。公爵家の老執事、ハンスだ。クラウス様が幼い頃から仕えているという忠実な人物で、私にも常に丁寧に接してくれた。
「ハンス。お世話になりました」
「……本当に、よろしいのですか」
彼の声には、珍しく感情が滲んでいた。
「ええ。私がいなくなれば、クラウス様は自由になれます」
「それは——」
「邪魔者がいなくなるのですから、喜ばしいことでしょう?」
私は微笑んだ。精一杯の笑顔だ。泣きたいのを我慢している顔には見えないと思う。たぶん。
ハンスは何か言いたげに口を開きかけたが、結局は深く頭を下げただけだった。
「……申し訳ありません」
「謝らないでください。三年間、よくしてくださいました」
本当に。ハンスがいなければ、この三年はもっと辛かった。孤独な私に、いつも穏やかに接してくれた。
「せめて、お茶を」
「いいえ、結構です。荷造りを終わらせないといけませんから」
ハンスが去った後、私は思い出した。
忘れ物がある。
数日前、クラウス様の書斎で本を借りたまま返していなかった。もう一度書斎に行くのは気まずいが、借りたものを返さないわけにはいかない。没落貴族の娘だからこそ、最後まで礼儀は守りたかった。
「クラウス様、失礼いたします」
書斎の扉をノックしたが、返事がない。そっと扉を開けると、部屋は無人だった。きっと晩餐会の準備で席を外しているのだろう。
借りていた本を棚に戻そうとして——その時、机の上に開いたままの手帳が目に入った。
見るつもりはなかった。他人の私物を覗き見るなど、品のない行為だ。
けれど、視界に飛び込んできた文字が、私の足を止めた。
『銀鈴草が好き』
……え?
反射的に、手帳を手に取っていた。
『レモンティーには砂糖を二つ入れる』
『朝は窓辺で本を読む。陽の光の中で読書する姿が美しい』
『紺色のドレスがよく似合う。次の晩餐会で着てほしい』
『髪を下ろしている方が好みだが、編み込みも悪くない』
『果物はベリー類を好む。特に苺』
『庭の東側のベンチがお気に入りの場所』
『笑うと目が細くなる。それが可愛い』
『独りで庭を歩くのが好きなようだ。寂しくないだろうか』
これは——私のことだ。
全部、私のことが書いてある。
ページをめくる手が震えた。三年分の日付と共に、私の些細な習慣や好みが、びっしりと記録されていた。
「何を……」
見ているのですか——と問おうとして、声が出なかった。
この手帳の持ち主は、一体誰?
表紙を確認する。見覚えのある紋章。シュヴァルツ公爵家の——クラウス様の私物だ。
クラウス様が、私を観察していた?
三年間、ずっと?
視線を向けてもすぐに逸らされると思っていた。でも——もしかして、私が気づく前から見ていたのではないか。
いや、そんなはずはない。
だってクラウス様は、カタリナ様を……。
「……っ」
手帳を机に戻し、書斎を飛び出した。
頭が混乱していた。何が真実なのか、分からなくなっていた。
◆
「あら、リーゼロッテ様」
廊下で、カタリナ様と鉢合わせた。
今夜の晩餐会に招待されているのだろう。豪華な金髪を高く結い上げ、宝石をちりばめたドレスを纏っている。どこからどう見ても、社交界の華だ。
私の地味な茶色の髪、平凡な顔立ちとは比べ物にならない。
「カタリナ様」
私は礼儀正しく頭を下げた。動揺を悟られてはいけない。
「ようやく身を引いてくださるのね」
彼女は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「クラウス様は、あなたのような地味な令嬢にお似合いではなかったのよ。最初から私を愛していらしたのに、面倒な婚約のせいで三年も無駄にしてしまって」
——クラウス様は私を愛している。
そう言ったのは、カタリナ様だった。
三年前、私がシュヴァルツ公爵家に嫁いできた直後から、彼女は何度も私に接触してきた。お茶会で、晩餐会で、庭園で。クラウス様がいかに私を疎んでいるか、いかに自分を想っているか、繰り返し聞かされた。
最初は信じなかった。けれど、クラウス様の態度があまりに冷たかったから。話しかけても素っ気なく、視線を向けてもすぐに逸らされるから。
いつしか、信じてしまっていた。
「……お幸せに」
私はただ、それだけを言った。
あの手帳のことを問い詰めることもできた。けれど、今更何を言っても仕方がない。婚約破棄は決まったのだ。
「あら、もっと悔しがるかと思ったのに」
カタリナ様は不満そうに眉をひそめた。
「つまらない人ね。まあいいわ。今夜の晩餐会で、クラウス様は私との婚約を発表してくださるもの。あなたなんて、すぐに忘れられるわ」
彼女は高らかに笑いながら去っていった。
私は、その背中を見送った。
忘れられる。
きっとそうだろう。私は最初から、この家には不釣り合いだった。
……でも。
あの手帳は、何だったのだろう。
クラウス様は本当に私を——いや、考えても仕方がない。期待しても、惨めになるだけだ。
◆
晩餐会が始まった。
シュヴァルツ公爵家の広間には、王都の貴族たちが集まっている。今夜は公爵家当主——クラウス様のお父上が主催する、年に一度の大宴会だ。
私は端の席についた。もうすぐこの家を去る身だ。目立つ場所に座る必要はない。
テーブルの反対側では、カタリナ様がクラウス様の隣に座ろうとしていた。クラウス様は無表情のまま、それを許している。
やはり、そういうことなのだ。
あの手帳は——ただの記録だったのかもしれない。政略結婚の相手について、情報を集めていただけなのかもしれない。
「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます」
公爵様が立ち上がり、開会の挨拶を始めた。白髪交じりの髪に、深い皺が刻まれた顔。けれど眼光は鋭く、この国の政治に多大な影響力を持つ人物だということが一目で分かる。
私は三年間、この人とまともに話したことがない。クラウス様と同じく、私に関心がないのだろうと思っていた。
「さて、本日は一つ、発表がある」
公爵様の視線が、私を捉えた。
心臓が跳ねる。
これから婚約破棄が発表されるのだ。覚悟はしていた。けれど、大勢の前で「不要」と宣言されるのは、やはり辛い。
弟と妹の顔が浮かんだ。実家に帰っても、私を待っているのは貧しい暮らしだ。けれど、家族がいる。それだけが、救いだった。
「その前に——クラウス」
公爵様が息子の名を呼んだ。
「お前の手帳を、こちらに」
……手帳?
クラウス様の顔から、血の気が引いた。
「父上、それは——」
「持っているな。出しなさい」
公爵様の声は静かだが、有無を言わせぬ威厳があった。
クラウス様は、懐から一冊の手帳を取り出した。私が書斎で見た、あの手帳だ。
「読み上げてもらおうか」
広間がざわめいた。招待客たちが何事かと顔を見合わせる。カタリナ様も、不安そうな表情を浮かべている。
「……読み上げる必要はありません」
「では私が読もう」
公爵様が手帳を受け取り、最初のページを開いた。
「『リーゼロッテは銀鈴草が好きだ。部屋に飾っておくよう、使用人に命じた』」
——私の部屋の、あの鉢植え。
使用人が気を利かせたのではなかった。クラウス様が、命じていた。
「『レモンティーには砂糖を二つ入れる。厨房に伝えておいた』」
そういえば、この屋敷のレモンティーは、いつも私好みの甘さだった。他の屋敷ではそうではなかったのに。
「『紺色のドレスがよく似合う。仕立て屋に同系色のドレスを追加で注文した』」
昨年届いた、覚えのないドレス。使用人の手違いだと思っていた。
広間が、静まり返った。
全員の視線が、私とクラウス様に注がれている。
「『彼女が笑うと、胸が苦しくなる。どうすればもっと笑ってくれるだろうか』」
公爵様が淡々と読み上げる声だけが響く。
「『今日も話しかけられた。うまく返事ができなかった。俺は馬鹿か』」
「……父上、もう十分です」
クラウス様の声が、かすれていた。
「いや、まだだ」
公爵様は手帳を閉じ、カタリナ様に視線を向けた。
「カタリナ嬢。私の息子が『あなたを愛している』と、リーゼロッテに吹き込んでいたそうだな」
カタリナ様の顔が、みるみる青ざめた。
「そ、それは——」
「三年間、繰り返し。私の耳にも届いていたよ」
公爵様の声は、氷のように冷たかった。
「息子の婚約者を追い出すために、嘘を吹き込む。伯爵家の令嬢としては、いささか品がないのではないかな」
「違います! 私は——」
「違わない」
クラウス様が、低い声で言った。
「俺がお前を愛したことなど、一度もない」
カタリナ様が息を呑んだ。
「嘘よ……だって、私に優しく——」
「社交辞令だ。それ以上の意味はない」
クラウス様の目は、かつてないほど冷ややかだった。
「お前がリーゼロッテに何を言っていたか、知っている。『クラウスは私を愛している』『あなたは邪魔者だ』『身を引いた方がいい』——全部、嘘だ」
広間がざわめく。招待客たちが、非難の目でカタリナ様を見ている。
社交界の華と呼ばれた令嬢の評判が、音を立てて崩れていく。
「そんな……こんなことって……」
カタリナ様は震える声でそう言うと、涙を流しながら広間を駆け出していった。
誰も、彼女を追いかけなかった。
◆
「リーゼロッテ」
クラウス様が、私の前に立った。
広間中の視線が集まっている。貴族たちが固唾を飲んで見守る中、彼は——
跪いた。
公爵嫡男が、没落子爵令嬢の前で。
「……え」
「行かないでくれ」
その声は、初めて聞くほど切実だった。
「俺は……言葉にするのが、下手だった」
銀色の瞳が、真っ直ぐに私を見上げている。三年間、逸らされ続けてきた視線が、今は私だけを映している。
「お前が来た時から、ずっと見ていた。お前の笑顔が、仕草が、声が——全部、好きだった」
心臓が、痛いほど脈打っている。
「けれど、どう伝えればいいか分からなかった。政略結婚だと分かっていたから。お前に迷惑をかけたくなかったから。だから距離を——」
「待ってください」
私は震える声で遮った。
「では、なぜ婚約破棄を……」
「お前が苦しそうだったからだ」
クラウス様は苦しげに眉を寄せた。
「俺といると、いつも辛そうな顔をしていた。笑顔が減っていた。それが俺のせいだと分かっていた」
「それは——」
「カタリナの嘘を信じているのも知っていた。否定すれば良かったのだろうが、俺がお前を好きだと知られたくなかった。こんな、政略で押し付けられた婚約者に、一方的に好意を持たれても迷惑だろうと——」
思っていた、と彼は言った。
「だから、解放しようとした。お前が望むなら、婚約を破棄して、自由になってもらおうと」
……馬鹿だ。
この人は、大馬鹿だ。
三年間、お互いに誤解して、お互いに想いを伝えられなくて、すれ違い続けてきた。
「私も……」
涙が溢れて、止まらなかった。
「私も、あなたが好きでした。最初から、ずっと」
クラウス様の目が、大きく見開かれた。
「けれど、愛されていないと思っていたから。迷惑をかけていると思っていたから。だから——」
「待て。好きだった?」
「はい」
「最初から?」
「はい」
「……なぜ言わなかった」
「あなたこそ!」
私は泣きながら叫んだ。
「三年もあったのに、一度も優しい言葉をかけてくださらなかったじゃないですか! いつも素っ気なくて、視線を逸らして——私のこと、見てすらいないと思っていたのに!」
「見ていた」
クラウス様が立ち上がり、私の手を取った。
「毎日、見ていた。お前のことを見ていない日など、一日もなかった」
その手は、微かに震えていた。
「だから——行かないでくれ。俺の妻でいてくれ」
広間が、しんと静まり返った。
私は、涙を拭った。
拭っても拭っても溢れてくるけれど、それでも、精一杯の声で答えた。
「……はい」
クラウス様が、私を抱きしめた。
三年間、一度も触れてくれなかった腕が、今は強く、優しく、私を包んでいる。
耳元で、小さな声が聞こえた。
「……好きだ」
三年越しの言葉だった。
「婚約破棄は撤回だ」
公爵様の声が、広間に響いた。
「息子は相変わらず不器用だが、どうか許してやってほしい。リーゼロッテ嬢」
私はクラウス様の腕の中で、小さく頷いた。
招待客たちから、拍手が起こった。
◆
翌日の朝。
私はいつものように窓辺で本を読んでいた。昨夜のことがまだ夢のようで、現実感がない。
コンコン、と控えめなノックの後、扉が開く。
「リーゼロッテ」
クラウス様が、何かを手に持って立っていた。
銀鈴草の花束だ。朝露に濡れた、摘みたての花。
「……これが好きだと、メモにあった」
昨日までの冷淡な表情は、どこにもない。少し照れたように視線を逸らしながら、不器用に花束を差し出している。
私は、笑った。
「ありがとうございます」
花束を受け取り、香りを吸い込む。甘く、優しい香り。
「……これからは、ちゃんと言葉にする」
クラウス様が、私の隣に座った。
「好きだ、リーゼロッテ。お前以外を妻にする気はなかった。これからも——ずっと」
「はい」
私は微笑んで、彼の手を握った。
「私も、あなたが好きです。クラウス様」
窓から差し込む朝陽が、銀鈴草を優しく照らしている。
彼の指が、私の頬に触れた。涙の跡を、そっと拭う。
「泣くな」
「嬉しいのです」
「……そうか」
クラウス様の唇が、私の額に触れた。
三年分の想いが、ようやく届いた。
三年分の誤解が解けた、最初の朝だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
不器用すぎて想いを伝えられない公爵嫡男と、誤解したまま身を引こうとする令嬢のお話でした。三年分の「好き」がメモ帳に詰まっているクラウス、書いていて愛おしかったです。
二人がこれからたくさん言葉を交わして、幸せになってくれたらいいなと思います。
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