死に戻ったヒロインは魔王様に溺愛される
「ディア様にふさわしいのはこのわたくしなの!」
嫉妬に歪む女の顔ほど醜く恐ろしいものはないのだと、アデライードは身をもって知った。
どんな時でもたおやかかつ淑やかでいろと厳しく教育されていたアデライードが身をすくめ、小さな悲鳴をもらしてしまうほど、眼前の公爵令嬢メリアンナは殺意に満ちたおぞましい目をしている。
(助けて、ディア様……!)
メリアンナの手にはぎらりと輝くナイフ。アデライードは恐怖のあまり目をつぶる。その刹那、腹部に鋭い痛みが走った。
聖女のための純白のドレスが、アデライード自身の血で赤く染まっていく。
アデライードは思わず腹部に手を当てた。生ぬるい鮮血がアデライードの手を汚す。痛みに耐えきれず、アデライードは膝から崩れ落ちた。
「どう……して……? メリー……さん……」
「あははっ! やった、やったわ! これでヒロインはあたしよ!」
薄れゆく世界。友人だと思っていた少女の哄笑が響く。
「じゃあね、元聖女様。あんたは忍び込んできた魔族に襲われて、あたしを庇って死んだってことにしとくから。あたしはあんたに遺言を託されて、次の聖女になるのよ」
アデライードはそれを否定しようと口を動かすが、言葉を紡ぐだけの力はもう残っていなかった。
*
──悪役令嬢の選択により、神による運命介入の実行を確認
──予測外の新展開「魔王ディオスレイ」ルートが解放されます
暗闇の世界の中で、無機質な声が聞こえた。
その声に呼ばれるように、アデライードは目を開ける。
「今のは……夢……?」
嫌な夢だった。友人と思っていた少女に裏切られて殺される夢。アデライードはため息をつき、違和感に気づく──ここは、孤児院のベッドの上だ。
「ど、どういうこと? わたし、なんでここに……」
アデライードは裕福な家の生まれだったが、五歳の時に両親を事故で失っている。
親戚から厄介払いされるように孤児院へと入れられ、十二歳で聖女覚醒のお告げが出て教会に引き取られた。それから四年間、アデライードはずっと教会で暮らしている。今さら孤児院に戻ることなどないはずなのに。
(わたしの体、縮んでる。一体何があったの?)
視界に映る手足の小ささに戸惑いながら、アデライードはベッドを降りて姿見の前に立った。
愛らしいピンク色の髪。ぱっちりした大きな瞳は澄み渡る昼の空のような色。成長途中の未成熟さを多く残しつつも、大人の女性へとほんの一歩だけ踏み出した肢体。鏡に映るのは、無垢な十二歳の少女だった。
寝間着として着ていたシャツの襟元をくいっとつまむ。左胸には聖女の証である、薔薇の形を縁取った紋章が刻まれていた。いつの間にかその薔薇は赤い色をしていたが、今の証はただの線画でしかない。薔薇の花は地肌の色のままだった。
ということは、今日は聖女覚醒のお告げがある日の朝だ。これから教会で儀式が行われ、アデライードが聖女であると託宣が下る。
(もしかしてあれは、夢ではなかったのかしら。わたしは……十六歳で一度死んで、その記憶を持ったまま十二歳に戻った……?)
聖女が持つ奇跡の一つに、蘇りというものがある。名前が伝わるだけでその奇跡が使われた記録は残っていないが、これが蘇りの奇跡だというなら記録にないのも当然だろう。行使した聖女の時間を巻き戻して死をなかったことにする力なのだから。
(わたしはこれから聖女に選ばれて、教会に引き取られる。そして……ディア様やメリーさんと知り合うでしょう。でも……メリーさんに殺されてしまう)
胸がつきんと痛んだ。公爵令嬢メリアンナ。宮廷の作法や常識を親身になって教えてくれる、優しい人だと思っていたのに。
けれど裏切られた。メリアンナは、アデライードが一人の時──祈りの間で日課の祈りを捧げている時を見計らい、アデライードを刺し殺した。
(どうしたらいいの? どうしたら、あの恐ろしい未来を変えられるの?)
不安に震えるアデライードを、孤児院の教師が呼びに来る。寝坊する子は朝食抜きだと叱られながら、アデライードは他の子供達と一緒に教会へと儀式の見物に連れてこられた。
聖女覚醒は、百年に一度起こなわれる神事だ。
国中の十一歳から十三歳の少女達の中から、神の啓示によって一人の聖女が選ばれる。
その始祖は、魔王を封印するために勇者と共に戦った乙女だ。無事に魔王を封印した勇者はやがてこの国の王になり、聖女はその妃として勇者を支えたと言われていた。
その伝承に則って、歴代の聖女も王室に嫁ぐことになっている。アデライードも、第一王子クローディアスの婚約者に選ばれた。
だが、それは過去の話だ。だって今、聖女覚醒の託宣を発表する教皇が名を呼んだのは、メリアンナ・ツェバリア……アデライードを殺害した少女のものなのだから。
(どういうこと? 薔薇の印は間違いなくわたしに顕れたのに。……でも、ここで名乗りを上げても騒ぎになるだけだわ)
メリアンナの殺意に満ちた顔を思い出してぞっとする。壇上で祝福される少女と、あの恐ろしい裏切り者が同一人物であることは、目を見ればわかった。
(もしかしてメリーさんも、あの時の記憶を持っているのかしら。なら、なおさらわたしが目立つのはやめたほうがいいわね)
壇上では、三人の未婚の王族が跪いて薔薇の花をメリアンナに捧げていた。
十五歳の第一王子クローディアス、十一歳の第二王子エルモンド、そして王弟である二十歳の筆頭公爵シュテファン。彼らは儀式の締めとなる、聖女に薔薇を渡す勇者役に選ばれたのだ。
誰から薔薇を受け取っても構わないが、受け取った相手は聖女の結婚相手の座に近づいたと目される。
メリアンナは迷うことなくクローディアスが捧げる赤い薔薇の花を受け取った。エルモンドの黄色の薔薇とシュテファンの紫の薔薇には目もくれていない。
選ばれたクローディアスは嬉しそうにメリアンナの手を取り、その甲に口づけを落とす。それは、かつてアデライードもしてもらった仕草だった。
胸がつきりと痛む。婚約者どころか知己ですらなくなったアデライードは、初恋の少年の視界に入ることすらできない。
「うっ……!?」
その瞬間、ひどい頭痛がアデライードを襲う。視界が明滅し、無機質な声が響き渡った。
──“模造の箱庭”No.12 形式:乙女ゲーム 名称:『神の庭で咲く薔薇の色は』
──被験者:メリアンナ・ツェバリア 旧名:津原杏奈
──“模造の箱庭”を経験させた結果、当被験者はもっとも世界名/ガーデニアと相性がいいと判断されたため、後天的な“羽搏く者”として、その魂を地球からガーデニアへと転生させます
──なお、ガーデニアの神は“模造の箱庭”No.12の運命分岐の可能性を気に入っている様子
──先天的な“羽搏く者”アデライード・ウェイスに肩入れしたガーデニアの神が、我々の予測した運命分岐の可能性に寄せた運命介入を観測中に起こす可能性に留意してください
──それでは、観測を始めます
(今のは……!?)
あの声が聞こえたのはアデライードだけのようだ。ただ、直接脳内に響いたというよりは、かつての音声を再生されたもののようにも聞こえる。
どちらにせよ、聞いてはならないものを聞いてしまったような気がして背筋が凍った。あまりの不気味さに失恋の痛みも忘れたアデライードは脂汗をぬぐう。
(あの声は、今朝起きた時に聞いた声と同じだった。あの声の主は、メリーさんを知っている? 言っていたことは半分も理解できなかったけど……)
混乱するアデライードをよそに儀式は終わり、アデライードは孤児院に戻ることになった。
王子と平民。もう二度と会話することの叶わない少年を、最後にその目に焼きつける。かつてアデライードに向けていた笑みと同じ表情をメリアンナに向けているクローディアスが、ひどく遠い存在のように感じられた。
*
『アデル、君には赤い薔薇がよく似合うよ』
赤薔薇の髪飾りをアデライードの髪に挿し、クローディアスはそう言って微笑んでくれた。クローディアスからもらった贈り物も言葉も、笑顔だって全部アデライードの宝物だ。
だけど今、その宝物が粉々に砕け散っていく。だってかつてアデライードがもらった髪飾りと同じものを、メリアンナが挿してもらっているのだから。
「メリー、君には赤い薔薇がよく似合うよ」
同じ言葉を、同じ笑みを、メリアンナが向けられている。
クローディアスは物陰に隠れるアデライードに気づかない。かつてアデライードにそう微笑みかけてくれたことを、クローディアスは覚えていない。
「嬉しいわ、ディア様!」
頬を染めるメリアンナ。かつてアデライードにだけ許されていたその愛称も、今ではメリアンナのものだった。
孤児院に残ったアデライードは、教師から宮殿の下働きの仕事を紹介された。見目のいいお前なら出仕させられる、と。
元々アデライードは近所の商店で小間使いをしていたのだが、宮殿で新しく下働きの募集があったらしい。給金は今の倍以上だ。
給金が増えるということは、孤児院に入るお金が増えるということで、それはつまりここで暮らす孤児達の生活がほんの少しでも向上するということだった。
自分一人なら飢えも我慢できるが、より年下の子供達に一枚でも多くパンを食べさせたかったし、食卓に肉を乗せてあげたい。それを思うと断りきれなかった。もう一度だけ、遠目からでもクローディアスに会えたらという願いもあった。
でも、今ではその選択を後悔している。
「次の夜会では、ぜひ君をエスコートさせてほしい」
「喜んでお受けいたします!」
だって、二度と宮廷に関わらないよう慎ましやかに暮らしていれば、こんな光景を見なくても済んだのだから。
(ディア様は……わたしだから優しかったんじゃなくて、聖女だったら誰でもよかったのかしら……)
涙がこぼれる。愛されていると思っていた。愛する人に特別扱いを受けて舞い上がっていた。でも、そうではなかったのだ。
自分を伝承の勇者と同一視させてくれる、神聖な乙女。中身がなんであるかはどうでもいい。クローディアスが愛していたのは、『聖女』という特別な存在だった。
これまで彼から向けられていたと思っていた愛情の正体が空虚な自己愛だと気づき、アデライードは人知れず涙をぬぐった。
*
それから四年が経った。クローディアスやメリアンナと会わないように宮殿でこそこそと働くアデライードの耳にも、二人の噂話は入っていた。
どこで逢瀬を重ねていたとか、何を贈られていたとか。全部、かつてのアデライードが体験したことだった。メリアンナはアデライードの立場も思い出も、すべてを乗っ取ってしまったのだ。
ある舞踏会の日、アデライードも他の下働きと同じように掃除や料理の下ごしらえに駆り出されていた。
高貴な方々が飲み食いした後のおこぼれを楽しみに同僚達が働く中、アデライードは憂鬱な気持ちで下げられたグラスを洗い続ける。今ごろメリアンナはきらびやかなドレスを着て、クローディアスと踊っているのだろう。
(メリーさんはわたしと違って、なんでも持っていたはずなのに。どうしてわたしから何もかもを奪ったの?)
メリアンナには愛してくれる両親がいる。何不自由なく生きていけるだけの金も権力も、公爵令嬢の彼女にはあった。
アデライードには何もない。大好きだった両親を亡くしながら、路頭に迷っていないだけ幸運なのだと言い聞かせ、神に祈りと感謝を捧げながら懸命に生きていた。
聖女に選ばれるという奇跡のおかげで、アデライードの人生は変わった。
三食出される温かい食事、柔らかいベッド、素敵なドレス、なにより守ってくれる大人達。平民から王妃になるための教育は厳しかったが、それでも愛しい人のことを思って耐えた。でも、そんな日々は突然終わりを迎えた。
(ううん。わたしはもう聖女じゃない。わたしはメリーさんが怖くて逃げたんだから。だから、泣き言を言う権利なんてないんだわ……)
悲しみに沈む自分を叱咤する。薔薇を縁取った紋章はこの胸にあったが、もう誰もアデライードを聖女とはみなさないだろう。神託を告げた教皇により、メリアンナが聖女と認められたのだから。
舞踏会が終わった後、大広間の片付けを命じられたアデライードは、同僚達が帰ってもまだその場に残っていた。身の丈に合わなかった幻想だったと頭では理解しつつも、いっとき過ごしたあの夢のような輝く時間が忘れられなかったからだ。
シャンデリアの火も灯らない大広間で、窓から差し込む月明かりを頼りに踊る。パートナーはおらず、音楽も鼻歌だけ。召使いが着る灰色の仕事着は、お姫様のドレスとはほど遠かった。
「一人きりの舞踏会とは雅だね」
「誰!?」
突然声をかけられ、アデライードは動きを止めた。びくびくと周囲を見渡す。いつの間にかテラスの窓が開いていて、長身の青年が立っていた。
「だが、パートナーがいないのはいささか寂しいだろう。二人きりの舞踏会のほうがより美しいと思うが、どうかな?」
頭に生えるのはぐるっと曲がった山羊の角。闇より深い漆黒の髪が風になびく。月のように輝く黄金の双眸がアデライードを捉えていた。その瞳孔は横に長く、明らかに人ではない。
「私はディオスレイ。可愛い歌声に導かれ、夜の散歩に来た者だ。まさかこんな可憐なお嬢さんが一人でワルツを踊っているなんてね」
(その名前、どこかで……)
記憶の糸をたぐり寄せてハッとする。謎の声が言っていた。魔王ディオスレイ、と。
「あ……あなた、魔王なんですか……?」
魔族を束ねる闇の王。その存在は遠い過去のものとして扱われていたが、人々を襲う魔族の脅威は現実として残っている。魔族達は、封印された魔王がいつか復活すると信じていると言われていた。
「これは驚いた。まさか現代でも私の名前を知っている者がいるとはね」
ディオスレイはくつくつと笑った。その姿に悪意や敵意を感じられず、アデライードは逃げることも忘れて困惑しながら立ち尽くした。
「いかにも私は、君達人間が魔族と呼ぶ者達の統治者だ。しかし魔族だからと恐れないでほしい。私が長い間封印されていたせいで、魔族達も気が立っているだけなんだ。私が彼らを鎮めれば、君も聞く耳を持ってくれるかい?」
アデライードはこくんと頷く。するとディオスレイは嬉しそうに微笑んだ。
「では、美しいお嬢さん。君のために約束しよう、すべての魔族は私の許可なく勝手に人を襲うことはないと」
「……許可を出したら襲うんですか?」
「身を守る必要がある時にね。家族や領地を黙って奪わせるわけにはいかない。王として、民の平穏が第一だ」
「それは……そうですけど……」
「人間の歴史でどう伝わっているかはなんとなく察するが、それがすべてではない。かつて魔族と人間は世界の頂点の座を巡る戦争をして、魔族が負けた。言葉にするとこれだけ単純なのに、ここに善悪だの正義だのが加わると途端に話がややこしくなる。これ以上はやめにしよう。君だって、つまらない話を長々と聞いていたくはないだろう?」
ディオスレイはかつかつと歩み寄り、アデライードの前に跪く。アデライードは驚いたが、不思議と危険は感じなかった。
「君の名前を呼び、その手に口づける栄光を頂戴したいのだが」
「……アデライード、です。アデライード・ウェイス……」
「アデライードか。君にふさわしい可憐な名だね」
アデライードの手を恭しく取り、ディオスレイはそっと口づけする。
「月光の下で踊る君を見て、一目で惹かれてしまった。今の私は、まるで愚かな恋のしもべだ」
「かっ、からかってるんですか!?」
「とんでもない。冗談で魔族達に先のような命令を下しはしないよ」
ディオスレイは立ち上がり、アデライードの腰に手を回して抱き寄せる。ワルツを踊るように手を取られ、アデライードは戸惑いがちにディオスレイを見上げた。
「あのいじらしい旋律をもう一度聴かせておくれ、アデライード」
(さ、逆らったら何をされるかわからないわ。ここは従っておきましょう)
敵意は感じられないとはいえ、暗いところで見知らぬ男性と二人きり。しかも相手は魔族だ。
アデライードは震えながら、舞踏会で何度も聞いた管弦の調べを口ずさむ。ディオスレイは満足そうにアデライードをリードして、二人はくるくると踊り続けた。
「実に楽しい時間だったよ。もしも君が真夜中に寂しさを抱いて涙をこぼすようなことがあれば、ぜひ私の名を呼んでくれ。何をおいても駆けつけよう。呼ばれなくても会いに行くが」
「あ……ありがとう……ございます……?」
微笑を残し、ディオスレイは煙のように消えてしまう。月の光に照らされるのは、一人佇むアデライードだけだ。
「夢だったのかしら……」
*
不思議な魔王との邂逅が夢でなかったことは、次の日の朝の枕元に一輪の黒い薔薇とメッセージカードが置いてあったことが証明になった。『愛しいアデライードへ』……そんな気障な真似をする知り合いは孤児院にいない。たった一人、ディオスレイを除いては。
「ディオスレイ様」
言われた通り、真夜中に彼の名を呼んでみる。孤児院の部屋は四人部屋だから、誰もいない庭に出て、だ。
「早速呼んでくれたんだね、嬉しいよ」
虚空から現れたディオスレイは、アデライードの手に黒薔薇が握られているのを見つけてぱっと表情を輝かせた。
「贈り物は気に入ってもらえたのかな」
「やっぱりあなただったんですね」
アデライードは眉根を寄せる。花びらが散ってしまわないように大切に茎を握り、アデライードは気まずげに視線をさまよわせた。
「あの……申し訳ないんですが、わたし、好きな人がいて……。いえ、もう叶わない恋ですし、諦めているんですけど……。そのせいでもう、新しく誰かを愛する気力もなくて……」
「なんだ、そんなことか。別に構わないよ。君にそんな悩みを抱かせる相手のことは憎らしいが。君の心の整理がつくまで、私はいつまでも待つとも」
なにせ魔族は長生きで気が長いからね、とディオスレイは笑った。安心し、アデライードも緊張を緩める。
「そ、それに、わたし……信じてもらえないかもしれないんですけど、あなたとは相容れない存在というか……。わたし、ただの人間じゃなくて、その……聖女、なんです。一応……」
「なんだって?」
目を丸くするディオスレイに、アデライードはこれまでの経緯を話す。人間のことはもう信じられなかったが、人間ではない彼になら不思議と打ち明けられた。
「なるほど。だから私の封印が解かれたわけか」
「?」
「五百年前に私を封じた結界は、百年ごとに力が弱まる。そこで、そのたびに聖女が選ばれて結界を張り直すんだ」
「聖女の最初のお仕事ですね。わたしもやりました」
魔王を封印していると言われている部屋は、教会の地下にある。
アデライードも聖女に選ばれた時、大事な儀式だと言われてその扉に触れたことがあった。薔薇の証が熱くなったが、それ以上のことは何も起きなかった。だから、ただの伝統だと思って深く考えてはいなかったのだが……。
「恐らく今代の聖女は、教会に金を握らせて神託をねじ曲げさせたんだろう。覚醒したのが本物なら、私の封印が解けることはなかった」
「じゃあ、わたしが聖女だったときは、あなたは封印されたままだったんですか?」
「そういうことになるね」
「それは……その、ごめんなさい」
「何故謝るんだい? 魔族は人間に負け、見せしめとして私が封印されただけだ。この経緯に君は関係ないし、君が聖女に選ばれたのも君ではなく神の意志だ。君が封印を強める役割を担ったからといって、私は別に君を恨んだりしないよ」
ディオスレイは優しくアデライードの頭を撫でる。
「人間への復讐心がないわけではないが、それよりも君という愛しい存在に逢えた喜びのほうが大きい。君のためなら、私のちっぽけな怒りや憎しみなどいくらでも捨てられる」
真摯な声音に嘘はないように思えた。それとも、そうだったらいいというアデライードの願いがそう感じさせたのか。アデライードはそっとディオスレイの手に触れる。温かかった。
「かつては聖女であり、今は何者でもない乙女よ。アデライード、君をアデルと呼ぶことを許しておくれ。五百年も眠っていた私に、君の魂はあまりに香しすぎた。君の前で、私は魔王でもなんでもない。君の美しさに酔い、歌声に痺れただけの、ただの愚かな男なんだ」
「で、では……わたしも、レイ様とお呼びしても?」
クローディアスと似た愛称で彼を呼びたくない。少し悩んだ末に呼びかけると、ディオスレイは甘い眼差しをアデライードに向けた。
「まずは、その、お友達からお願いします……」
「もちろんだ。君の意思が第一だからね。私からは何も無理強いしないよ」
なんだか頬が少し熱い。砕け散った初恋を糧にして、新たな恋が芽吹く予感がした。
それはクローディアスの自己愛によるものでもなければ、メリアンナに乗っ取られるようなうわべだけのものでもない。これからアデライードが紡ぐ、アデライードだけの想いだ。
「だが、一つだけ提案したい。君を日陰に追いやった者を見逃すのは、私の腹の虫が収まらなくてね」
*
王都中が騒ぎに包まれていた。突然教会が全壊したからだ。
事前に不思議な少女が警告を発し、彼女が教会内部の様々な事情を知り尽くしていたことで、教会の人間達は彼女を信じて避難していた。それによって奇跡的に犠牲者はいなかったのだが──少女は教会の崩壊を、魔王の復活が原因だと言ったらしい。
(どうして魔王が復活するわけ!? そんな展開、ゲームにはなかった!)
メリアンナは爪を噛む。前世でやり込んだ乙女ゲーム『神の庭で咲く薔薇の色は』、通称かみばらの世界に転生したと気づいてから、メリアンナはなるべくうまく立ち回ってきたつもりだった。
役割は、メインヒーローであるクローディアスルートに登場し、ヒロインであるアデライードをいじめる悪役令嬢。立ち絵に顔もついていない、ただのモブだ。
だが、そんなつまらない人生を送るつもりは毛頭ない。
だからアデライードに親切にしてやった。そのそばで甘い汁を吸うために。
しかし得られるものはほとんどなく、それどころか間近で最推しと他の女がいちゃつくところを見せられるという拷問を味わう羽目になった。
前世のメリアンナはヒロインとヒーローの恋愛を見守るのが好きなタイプのプレイヤーではなく、ヒロインに自己を投影させてヒーローとの疑似恋愛を楽しむプレイヤーだったのだ。そんな彼女にとって、ただヒロインに生まれたというだけの理由で最推しのクローディアスと結婚できるアデライードは許せなかった。
アデライードがクローディアス以外を選んでいれば、聖女の親友である未来の王妃として生きる道もあった。
かみばらの攻略対象は、クローディアス以外に四人もいる。第二王子か王弟か、あるいは聖女の立場と引き換えにして神官や騎士を選ぶことだってできたのに。よりによってアデライードはクローディアスを選んだ。悪いのはクローディアスを選んだアデライードだ。
だから殺した。すると時間が聖女覚醒の儀式の日に巻き戻り、自分が聖女に選ばれた。父である公爵が賄賂を贈ったからだというのは、そのすぐ後に知った。思った形とは少し違ったが、アデライードがいなくなればシナリオを知り尽くした自分が聖女になれるというのは間違いではなかったのだ。
聖女の証である薔薇の印がないことに不安はあったが、ゲーム上で聖女の奇跡が必要になることはほとんどない。しょせんは伝統で生まれたお飾りの地位だと、聖女自身が自嘲するぐらいだ。だからきっと大丈夫──そう思っていたのに。
「一体どういうことだ!? 聖女のメリアンナ様がいらっしゃるのに、魔王が復活するわけがないだろう!?」
混乱する民衆が王城に詰めかける。公爵家にも教会にもメリアンナがいないと気づいた彼らは、向かう先を宮殿に変えていた。
「聖女様が封印の結界を守ってくれるんじゃなかったのか!?」
「その女は本当に神託を受けた聖女様なの!?」
「魔王が復活したら、魔族どもはどうなるんだ!? 今まで以上に活気づいて暴れ出すんじゃないよな!?」
宮殿前の広場で民衆の叫び声がする。宮殿に逃げ込んでいた教会の重鎮達とメリアンナを含めたツェバリア家の面々は、青い顔で震えていた。
「これはどういうことなのか、僕からも説明してもらいたい」
「そんなこと言われたって知らないわよ……。こんな展開、ゲームになかったんだもん……」
愛しい王子から冷たい眼差しを向けられて、メリアンナは咄嗟にそう口走る。その声は小さく、外から聞こえる喧騒にかき消された。逃げ込んだメリアンナ達に説明を求める宮廷人達は怪訝そうな顔をしている。
「それに、教会に警告を発したという少女は一体何者なんだ? 彼女は今どこにいる?」
「それがさっぱりわからないのです。不気味なほどに内情に詳しく、神官達は神の御使いではないかと話していて」
しどろもどろになりながらも教皇が口を開く。だが、次の追及の声は外から聞こえる爆音に遮られた。たちどころに悲鳴が聞こえ、宮廷人達は慌てて窓に駆け寄る。
「やあ、人類諸君。五百年ぶりだね。と言っても、君達は私を直接見たことはないだろうが」
腰を抜かした民衆に向け、宙に浮いた青年が語りかけている。角の生えた異様な姿の青年は人差し指を一本立てていて、その指先からはわずかに煙が立っていた。
「今のはほんの挨拶だ。たった今、空に向けて放った爆撃の魔法を地上に撃ち込まないかは、私の気分次第だけどね」
誰もこの場から逃げるな。冷酷な声音でそう告げて、魔族の青年は言葉を続けた。
「私は魔王ディオスレイ。これまで私を封印してきた忌々しい聖女を探している。もちろん五百年前の本人や歴代の聖女達が生きているとは思っていないから、今代の聖女一人で構わないよ」
宮廷人達の視線がいっせいにメリアンナに向かう。教会の重鎮とツェバリア家の人間だけは、メリアンナが魔王の要求に応えられないことを知っていた。だってメリアンナは、薔薇の印を持つ本物の聖女ではないのだから。
「さあ、矮小なる人間どもよ! 命が惜しければ聖女を差し出せ!」
魔王が吠えた。異常な瞳孔を持つ目が残忍に光る。もし彼のもとに身を晒せば、何をされるかは火を見るよりも明らかだった。
「い……嫌よ! 嫌! 絶対に嫌!」
メリアンナは恥も外聞もなく泣き出し、髪を振り乱して叫ぶ。
「なんであたしがこんな目に遭わなくちゃいけないの!?」
その身勝手な慟哭は、広場までは届かない。
「──待ちなさい、魔王ディオスレイ」
代わりに広場に響くのは、凛とした少女の声だった。広場に駆けつけたその少女は、あまりにも堂々と魔王に歩み寄る。
「あなたが探す聖女はこのわたしです。わたしのことは好きにして構いませんが、誰一人として傷つけることは許しません」
ピンク色の髪の、可憐な少女だった。飾り気のない白のワンピースすら、彼女が身に纏うだけで清楚なドレスにさえ見える。
あれは誰だ、と怯えながら民衆は囁く。メリアンナ様ではないぞ、と。
「これこそが、わたしが聖女である証拠です」
少女は羞恥に頬を染めながらも胸元を晒した。その胸に刻まれた、薔薇の輪郭を象る証は伝承通りのものだ。その薔薇は聖女によって色を変えると言われていて、彼女の薔薇の色は黒だった。
「あ……あれは、アデライード……!? なんで!?」
「メリー、彼女を知っているのか?」
謎の少女の登場に、宮廷人達もざわめく。メリアンナの呟きを拾ったクローディアスの目が鋭く細められた。
「ああ、彼女だ! 彼女が教会の崩壊を予言し、我々に逃げるよう言ってくれた人だ!」
広場にいた一人の男性神官が叫んだ。その言葉を皮切りにして、困惑に満ちていた民衆の眼差しが一転して救いを求めて縋るようなものへと変わる。
「なるほどね。麗しき聖女よ、君の勇気に免じて君の言葉を信じ、君の度胸に免じて哀れな民を見逃してあげよう」
魔王は地に降り立ち、聖女アデライードを両腕で拘束する。アデライードは抵抗することなく従った。
「この乙女は我が贄として貰い受けよう! 真の聖女は魔王の手に堕ちた! しかし代わりに約束しようじゃないか、以降魔族は人類の良き隣人であることをね!」
高笑いを残し、魔王と聖女は跡形もなく消えていく。
生きながらえた人々は、涙を流して生の喜びを享受する。けれど落ち着いた時、彼らは印を持たない偽聖女が何者なのか疑問に思うことだろう。
「メリー……メリアンナ・ツェバリア。貴方と貴方のご両親、そして教皇猊下には、聞かねばならないことがあるようだ」
クローディアスが手を叩く。現れた騎士達は、即座に嘘つき達を捕縛した。
*
「五百年の時を経ても魔族達はちゃんと我々の領地を守ってくれていた。おかげで私の城もこの通り、綺麗なままだ」
ディオスレイにお姫様抱っこされていたアデライードが目を開けると、そこは豪奢な広間だった。魔族が住まう暗黒領域に魔王の城があると伝説で聞いたことがあるから、ここはきっとその城なのだろう。
「我々魔族の時間は長い。ほぼ不老不死と言ってもいいほどにね。ここで暮らすうちに、君の姿や体質は魔族に近づき、寿命も我々と同じぐらい伸びるだろう。……最後の確認だが、構わないんだね、アデル」
ディオスレイはアデライードを降ろし、その頬に手を添える。
「はい、レイ様。それだけ長い時間があれば、わたしも心の整理がつくでしょう」
彼の手に触れ、アデライードはうっとりとディオスレイを見つめた。アデライードの心はもうとっくに、彼のものになっている。
「約束通り、わたしはあなたの贄になりました。わたしのすべてをあなたに委ねますから、どうかわたしに愛を教えてくれませんか?」
「もちろんだとも、愛しいアデル」
二人は口づけを交わす。かつて聖女と呼ばれた少女の背中に、いつの間にか大きな黒い翼が生えていた。




