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異世界の迷子と一晩だけの勇者

作者: あおい

 僕は高校の帰り道、いつものように駅のホームで電車を待っていた。夕暮れ時のホームは人影もまばらで、風が肌寒かったのを覚えている。通い慣れた景色なのに、その日はどこか現実感が希薄で、まるで夢の中にいるような心地がした。


 ふと、めまいがして視界が滲んだ。手に持っていたスマートフォンが指から滑り落ちる。どうしたんだろう――頭がくらくらして、立っていられない。誰かが駆け寄ってくる気配がしたが、すぐに意識が遠のいていった。


 どれくらい経ったのだろう。ひんやりとした土の感触に目を覚ますと、そこは駅のホームではなく森の中だった。薄暗い木々の間から夕方の名残の橙色が差し込んでいる。耳に届くのは鳥のさえずりと風に揺れる葉音だけ。僕は状況が飲み込めず、呆然と立ち上がった。


「ここは……どこだ?」


 思わず独り言が漏れる。駅もビルも見当たらない。あるのは見渡す限りの木立と、ほのかに湿った土の匂いだけだった。


 混乱と不安が胸を締め付ける。夢だろうか、それとも何かの悪い冗談だろうか。頬をつねってみるが痛みははっきりと感じる。これは現実だ、と頭が警鐘を鳴らした。


 足元には、先ほど落としたスマートフォンが転がっていた。画面にはひびが入っているが、電源は入ったものの、画面には圏外の表示が虚しく点滅するだけだった。途方に暮れてスマホを握りしめ、ため息をつく。


 とにかく、人を探さなくては――。森の中で一人でいる恐怖に駆られ、僕は歩き出した。当てはないが、木々の間に獣道のような細い筋を見つけた。藁にもすがる思いでそこを辿る。


 夕闇が濃くなる森の中、心細さに足が竦みそうになる。それでも、前に進まなければという思いだけが僕を動かしていた。喉の渇きと空腹を覚え、額には冷や汗が滲んでいた。


 しばらく進むと、やがて木々の切れ目から小さな明かりが見えた。人家だろうか? 希望が胸に灯る。僕は足を速め、その明かりへと向かった。


 それは森の中にぽつんと建つ小さな家から漏れる灯りだった。窓から洩れる暖かな橙色の光に、胸の高鳴りを抑えられない。人がいるかもしれない――助けを求められるかもしれない。


 僕は玄関らしき木戸の前に立ち、恐る恐る手を伸ばした。しかし緊張で喉が渇き、声がうまく出ない。意を決して木戸を軽く叩く。


「すみません、誰かいませんか?」


 震える声で呼びかけた。


 一瞬の静寂。心臓が早鐘のように打つ。誰もいないのだろうか――それとも警戒されているのか。不安がよぎったその時、軋む音を立てて木戸が少しだけ開いた。


「……どなたですか?」


 控えめで静かな少女の声が聞こえた。木戸の隙間から、淡い光の中に少女の顔が覗く。年の頃は僕と同じくらいか、あるいは少し下かもしれない。夜色の長い髪に、大きな瞳が印象的だった。怯えたような表情を見て、僕は慌てて両手を上げた。


「僕は怪しい者じゃありません。あの、道に迷って……助けてほしいんです」


 言葉が通じるのかという不安もあったが、少女は驚いたように目を瞬かせたあと、小さく頷いた。そしておずおずと扉を開けてくれる。


「どうぞ……中に入って」


 誘われるまま、僕は家の中へ足を踏み入れた。質素だが暖かみのある室内にほっとする。暖炉が赤々と燃えており、その前には木製のテーブルと椅子が二脚並んでいた。窓際には花が飾られた小さな棚もある。


「ありがとうございます。本当に助かりました……」


 安堵からか、力が抜けてその場にへたり込んでしまう。気が緩んだせいか急に目眩がして、視界が揺れた。無理もない、今日は何度も倒れてばかりだ。情けないと思いながらも体が言うことを聞かない。


「大丈夫ですか?」


 少女が慌てて駆け寄り、僕の身体を支えてくれた。小柄な見た目よりずっとしっかりした力で、僕は驚く。そして彼女に促されるまま、暖炉近くの椅子に腰かけた。


「すみません……ありがとうございます……」


 上手く声にならない。少女は心配そうにこちらを見ていたが、やがて意を決したように頷くと小さな声で言った。


「お水を持ってきますね。少し待っていてください」


 そう言い残し、彼女は奥の方へと走っていった。暖炉の火が薪の爆ぜる音を立てている。僕は炎を見つめながら、大きく息を吐いた。奇妙な森で迷子になり、不安で押し潰されそうだった心が、炎の揺らめきと家の暖かさに少しずつ落ち着いていくのを感じる。


「もしかして、本当に異世界にでも来てしまったのか……?」


 頭の片隅でそんな考えがよぎった。漫画や小説で読んだような出来事が、自分の身に起こるなんて――あり得ない、と理性は否定するが、この現実離れした状況はそれ以外に説明がつかなかった。


「どうぞ…」


 声に気づいて顔を上げると、少女が陶器のマグカップに入った水を差し出してくれていた。僕は礼を言ってそれを受け取り、喉を潤す。一息に飲み干すと、生き返った心地がした。


「ありがとうございます、本当に…助かりました」


 改めて礼を言う僕に、少女はかすかに微笑んだ。それは夜の静けさに溶けてしまいそうな、儚い笑みだった。


「いえ…困っている人を放っておけませんから」


 か細い声だが、その言葉には優しさが宿っている。僕はその笑顔に救われる思いがして、張り詰めていた胸の痛みが少し和らぐのを感じた。


「あなた、お名前は…?」


 ふと気づいたように、少女が尋ねてくる。僕は慌てて名乗った。


「僕は篠原悠真です。悠真って呼んでください」


「悠真さんですね。私はリーシャと言います」


「リーシャさん…?」


 どこか異国めいた響きの名だと思った。彼女はこちらの世界の人間なのだろうか、と改めて実感する。自分とは異なる世界で暮らす少女――不思議な縁を感じずにはいられなかった。


「リーシャさん、本当にありがとう。突然押しかけてしまって…」


「いいんです。でも…悠真さん、どうしてこんな森の中に?」


 もっともな疑問だった。僕は答えに窮する。この世界に来た経緯を正直に話すべきだろうか。しかし自分でも信じがたい出来事を説明できる自信がなかった。駅で気を失ったら森にいました、なんて正直に言っても信じてもらえないかもしれない。


 言葉に詰まる僕を見て、リーシャさんは「無理に言わなくてもいいんです」と静かに微笑んだ。


「きっといろいろあったんですよね。今は…ゆっくり休んでください」


 その笑顔に甘えるように、僕は深く頷いた。


「…ありがとうございます。少し休ませてもらいます。本当に助かります」


 安心した途端、極度の疲労が一気に押し寄せてきた。暖かい部屋の空気と安堵感で、瞼が重くなる。こんな状況で眠ってしまっていいのかという葛藤はあったが、体が限界だった。


「寝床を用意しますね」


 とリーシャさんが立ち上がる。彼女は部屋の隅から毛布を取り出し、暖炉の近くに敷いてくれた。


「粗末な寝床ですけど…暖かいので、ここで休んでください」


「こんなによくしてもらって、すみません…」


 僕は恐縮しながらも、その毛布にくるまって横になる。硬い床の上だが、暖炉の火のおかげで暖かい。何より、安全な屋根の下で眠れる安心感があった。


「本当に…ありがとうございます…」


 睡魔に引きずられながら何度目かの礼を言うと、リーシャさんは「おやすみなさい」と小さく囁いた。


 瞼を閉じると、朦朧とする意識の中で彼女の気配を感じた。僕がちゃんと眠れるよう、そっと毛布を掛け直してくれる気配。その優しさに胸が締め付けられる。


「僕は……本当に異世界に来てしまったのかもしれない……」


 最後にそんな考えが浮かんだ。不安とささやかな期待を抱きながら、僕の意識は静かに闇に沈んでいった。


 どれくらい眠っていたのだろう。ふと目を覚ますと、部屋の中は静まり返っていた。暖炉の火はまだ赤く燻っており、柔らかな明かりが天井に影を揺らしている。体を起こすと、毛布がずれ落ちた。傍らにはリーシャさんが座っていた。


 驚いて声をかけようとしたが、彼女はスヤスヤと眠っているようだった。どうやら僕を見守ったまま、眠り込んでしまったらしい。灯火に浮かぶ横顔は穏やかで、どこか寂しげにも見えた。


 そっと起き上がり、彼女に毛布をかけ直してあげる。僕が使っていた毛布とは別に、自分の分まで差し出してくれていたのだろうか。肩にかかった栗色の髪が微かに揺れたが、彼女は目を覚まさない。きっと心細い夜を一人で過ごしてきた人なんだろう。そんな想像が胸をよぎり、いたたまれない気持ちになる。


 ふとテーブルの上に目をやると、一冊の古びた本が開かれて置かれていた。先ほどリーシャさんが読んでいたのだろうか。興味を惹かれて、そっと表紙に触れてみる。革表紙の厚い本で、見覚えのない文字がびっしりと並んでいた。ページの端々は手垢で黒ずみ、かなり読み込まれているようだ。


 どうやらこの本は、異世界に関する伝承や物語が書かれたものらしい。表紙にはこちらの文字で『古き伝承集』といった意味の題が刻まれていた。


 ぱらり、とページをめくると、光る扉とマント姿の人物の挿絵が目に飛び込んできた。小さな文字の説明文は所々読めないものの、「異界の門」「一人のみ通る」といった言葉だけは理解できた。僕はごくりと唾を飲む。この世界にも異世界の伝承があるのだろうか。


「…起きてたんですね」


 不意に声がして振り向くと、リーシャさんが静かにこちらを見つめていた。どうやら僕が起き上がったことで目を覚ましてしまったらしい。


「あ…ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」


 僕は本を閉じて謝る。彼女は首を横に振った。


「いいえ、大丈夫です。少し仮眠しただけなので…」


 そう言って微笑む彼女はどこか物憂げだ。気まずさを紛らわすように、僕は先ほど目にした本のことを切り出した。


「あの…この本、読ませてもらっていました。『異世界の門』って、書いてありましたけど…」


 それを聞いた途端、リーシャさんの表情が曇る。彼女は小さく息を呑むと、意を決したように頷いた。


「…ええ。この森に伝わる古い伝承です」


 暖炉の火がぱちぱちと音を立てる。彼女は静かに話し始めた。


「昔、この森には『異世界への門』があったと言われています。星明りの夜、その門を通って別の世界から人が迷い込んでくることがある、と」


 僕は息を詰めて聞き入った。まさに自分に起こったことと符合する。リーシャさんは続ける。


「でも、その門は気まぐれで…開くのは滅多にない。そして一度に通れるのは一人だけ…」


「一人だけ…」


 先ほど本で見た文言と同じだ。嫌な予感が胸をよぎるが、今は彼女の話に耳を傾けた。


「門をくぐれば元の世界に帰れる、と。その代わり…こちらの世界からは消えてしまう」


 リーシャさんの声は僅かに震えていた。彼女自身、その伝承を何度も繰り返し読んだのだろう。そこに込められた願いが伝わってくるようだった。


「リーシャさんは…その門のことを調べていたんですか?」


 恐る恐る尋ねると、彼女は伏し目がちに頷いた。


「ええ…私は小さい頃にこの森で拾われました。物心ついたときには、養い親の優しいおばあさんとここで暮らしていたんです。でも、そのおばあさんも数年前に亡くなってしまって…」


 辛そうに声を落とすリーシャさん。僕は黙って続きを待つ。


「おばあさんが生前、教えてくれました。幼い私が森で泣いているのを見つけてくれたと。そしてもしかすると、私は『異世界の門』から来た子供かもしれないって…」


「…!」


 思わず言葉を失う。やはり彼女は…と胸が騒いだ。


「もちろん確かめる術はありません。でも…私には生まれ故郷の記憶がないんです。幼かったせいもあるでしょうけど…時々、見知らぬ街や誰かの声が夢に出てきます。見たこともない高い塔や、聞いたこともない乗り物の音…」


 それはきっと、僕の世界の光景だ。高い塔はビル、乗り物の音は電車や車かもしれない。リーシャさんは続ける。


「だから、おばあさんが言った伝承を信じたくなりました。いつか『異世界の門』が開けば、私の本当の故郷がわかるかもしれないって…」


 彼女の声には、長年胸に秘めてきた孤独が滲んでいた。異世界から来たのかもしれない不安と、いつか帰りたいという願い…その想いが痛いほど伝わってくる。僕には彼女の気持ちが痛いほど理解できる気がした。突然見知らぬ世界に放り出される心細さ――僕もまさに味わったばかりだからだ。


「リーシャさん…」


 僕は言葉を探した。こんなにも長い間、一人で不安と戦ってきた彼女に何と言えばいいだろう。軽々しく同情や慰めを口にするのは違う気がした。


 代わりに、僕は静かに尋ねた。


「その門…今もあるんでしょうか」


 リーシャさんはゆっくりと首を横に振る。


「噂では、森の奥の古い祠に門が現れることがあると聞きます。でも、私が何度か探しても何も見つからなくて…伝承自体がただのお伽噺なのかもしれません」


 彼女は自嘲気味に笑った。


「本当にあるかどうかもわからないものを…ずっと追い求めてしまって」


「そんなことはない!」


 思わず声を張り上げた。驚いて目を見開く彼女に、僕は慌てて続けた。


「だって…本当にあるかもしれない。少なくとも、僕は…」


 そこまで言って、ハッと息を呑む。自分の境遇を話すべきか迷ったが、彼女の真剣な瞳に突き動かされるように、意を決して告げた。


「僕は…もともとこの世界の人間じゃないと思うんです。信じがたいでしょうけど…元いた場所から突然ここに来てしまったんだ」


 リーシャさんの目が見開かれる。僕はゆっくりと、自分の身に起きたことを話し始めた。夕暮れの駅で倒れたこと、目が覚めたら森にいたこと、彼女に助けられたこと。自分でも信じられない話を、彼女は一言も遮らずに聞いてくれた。


 話し終えると、リーシャさんは真剣な面持ちで頷いた。


「やっぱり…悠真さんも異世界から来た人なんですね」


「驚かないんですか?」


 尋ねると、彼女は困ったように微笑んだ。


「本当はとても驚いています。でも…信じます。信じたいんです。今、目の前に同じ境遇の人がいるのだから」


 同じ境遇――その言葉が胸に響いた。確かに僕たちは共に異世界に迷い込んだ存在だ。同じ境遇の人がいるというだけで、奇妙な安心感があった。


「リーシャさん」


 僕は意を決して言った。


「その『異世界の門』を、一緒に探してみませんか?」


 彼女は一瞬息を呑み、小さく震える声で答えた。


「…探して、くれますか?」


「はい。僕も元の世界に帰りたい。でも…リーシャさんだって、本当の故郷を探したいんでしょう?」


 リーシャさんは戸惑いがちに目を伏せる。


「私は…自分の故郷が本当にあるのか、自信がありません。けれど…怖いんです。また門が見つからなかったらって思うと…期待して裏切られるのが」


 長年、希望と諦めの狭間で揺れてきたのだろう。その気持ちは痛いほど分かる。僕は静かに彼女の手を取った。


「二人で探しましょう。もし見つからなくても…僕はもうリーシャさんを一人にしません」


「悠真さん…」


 潤んだ瞳で見つめられ、胸が熱くなる。僕は微笑んだ。


「僕たちは異世界で迷子になった似た者同士でしょう?」


 リーシャさんは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「…そうですね。私たち、異世界の迷子同士…ですね」


 お互いに迷子で、お互いに頼る相手がいなかった。でも今は、こうして寄り添うことができる。わずかに触れ合った手から、その温もりが確かに伝わってきた。


 窓の外を見ると、夜空には無数の星が瞬いていた。空気は澄み渡り、月明かりが森を幽玄に照らしている。


「夜が明けたら、森の奥の祠をもう一度探してみましょう」


 リーシャさんが決意を秘めた声で言った。


「うん。きっと見つかるさ」


 僕は力強く頷いた。心に不思議な確信が芽生えていた。二人でなら、この森に隠された門を必ず見つけ出せる。いや、見つけてみせる、と。


 その後、僕たちは夜明けまで飽きることなく語り合った。互いの世界のこと、幼い頃の思い出。リーシャさんは拙い記憶の断片を懸命に紡ぎ、自分の見たかもしれない故郷の情景を話してくれた。それは断片的ながらも僕の知る日本の風景と重なり、僕たちは何度も驚いては笑い合った。


 夢中で話しているうちに、やがて窓の外がうっすらと青みを帯び始める。東の空がほのかに明るくなり、夜明けが近いことを告げていた。


「…朝が来ますね」


 リーシャさんが名残惜しそうに呟く。


「僕たち、一睡もしてないや」


 苦笑しながら言うと、彼女も小さく笑った。


「不思議と、平気ですね。ずっと誰かとこんなふうに夜通し話したのは初めてです…」


「僕もです。でも…全然つらくない。むしろ、不思議なくらい充実した気分だよ」


 そう言って伸びをすると、体も軽かった。昨夜までの不安や疲労は、どこかへ消えている。


「行きましょうか」


 リーシャさんが立ち上がり、手を差し伸べてきた。


「門を…探しに」


 僕は頷き、その手をしっかりと握った。夜明け前の冷たい空気の中でも、その手は驚くほど暖かかった。


 二人で家を出て、朝霧に煙る森の小道へ踏み出す。まだ薄暗い森の中、鳥たちが目覚めたのか、囀りが聞こえ始めていた。


 前を行くリーシャさんの小さな背中を追いながら、僕は強く心に誓う。彼女の望む答えを、そして僕の帰る道を、必ず見つけるのだと。


 森の奥へと分け入るにつれ、霧が立ち込め始めた。夜明け前の静寂の中、僕たちは言葉少なに歩き続ける。リーシャさんが頼りにしているのは、幼い頃におばあさんから聞いたというかすかな記憶だけだ。それでも彼女は足を止めなかった。


 やがて、小高い丘の麓に古びた石造りの祠が現れた。苔むした石碑や折れた鳥居のような残骸が周囲に朽ちている。リーシャさんは「ここです…」と呟いた。


「この祠に…門が現れると?」


 彼女は頷く。


「ええ…おばあさんがそう言っていました。星が導く夜明けに、扉が開く…と」


 東の空は徐々に朱を帯び始めている。朝日はもうすぐ昇るだろう。僕たちは祠の前に立ち、固唾を飲んで周囲を見渡した。静寂に包まれ、心臓の鼓動だけが耳鳴りのように響く。


「何か…起こるのかな」


 僕が囁いた瞬間だった。


 祠の奥から微かな光が漏れ出した。薄明の闇を溶かすような、淡い金色の光。リーシャさんがはっと息を呑む。


「…門が…!」


 僕たちは祠の中へ歩み寄った。見ると、石の台座の上に空中へと続く扉の輪郭のようなものが浮かび上がっている。きらめく光の縁取りに囲まれ、中は乳白色に煙って何も見えない。だが確かに、人ひとり通れるほどの大きさの「穴」が空間にぽっかりと開いていた。


「これが…異世界への門…」


 信じられない光景だった。しかし否応なく理解させられる。ここから僕は来たのかもしれない。そしてここから帰れるのかもしれない。


 リーシャさんが静かに言った。


「伝承通りなら…この門を通れば、悠真さんは元の世界に戻れるはず…」


「…リーシャさんも、一緒に行こう」


 反射的に僕は言った。だが彼女は悲しげに首を振る。


「伝承では…門を通れるのは一人だけ。だから…」


 息を呑む彼女に代わって、僕自身が続きを震える声で告げた。


「…一度門が閉じれば、しばらく開かない…そう書いてありましたね」


 昨夜本で読んだ断片的な言葉。それが現実となった今、その意味が重くのしかかる。


 リーシャさんは絞り出すように言った。


「悠真さん。あなたが行くべきです。あなたには帰る場所があるでしょう? 家族だって…友達だっている」


 彼女は無理に微笑もうとして、唇を震わせている。僕は胸が締めつけられる思いだった。


「どうしてそんなことを言うんですか?」


 思わず声が上ずる。


「リーシャさんだって、本当は帰りたいでしょう? 本当の家族に会いたくないんですか?」


 図星だったのか、彼女の瞳から涙がこぼれた。


「会いたい…! でも…」


 堰を切ったように涙があふれ、リーシャさんは俯く。


「でももし門をくぐっても、誰も迎えてくれなかったら…私の居場所なんてどこにもなかったら…」


「そんなこと…」


 僕は言いかけて言葉を呑んだ。保証はどこにもない。彼女の不安はもっともだ。幼い頃に迷子になった彼女を今も家族が探しているかどうかなんて分からない。それに、本当に彼女の故郷が僕の世界と同じとも限らない。


 リーシャさんは震える声で続けた。


「それに…悠真さんを置いて行けない。あなたをこの世界に残していくなんて…できないわ」


 涙に濡れた瞳で見つめられ、胸が痛む。彼女は行きたい気持ちを必死に抑えて、僕を気遣ってくれているのだ。


 しばらく祠の中に、嗚咽を堪える彼女の声だけが響いた。僕は唇を噛む。選ばなければならない。どちらか一人しか帰れないのなら――。


 祠の外では朝焼けが空を染め、鳥たちのさえずりが高らかに森に満ち始めた。時間がない。


「リーシャさん」


 僕は震える手で胸ポケットに手を入れ、学生証を取り出した。写真と名前の入ったプラスチックのカード。昨夜、僕が通う学校の話をしたとき彼女に見せたものだ。


 それを彼女の手にそっと握らせる。


「これ…僕の学生証です。僕がいた証。この世界では何の役にも立たないけど…持っていてほしい」


「え…?」


 彼女が戸惑い、涙の浮かんだ目でカードを見つめる。


「僕はリーシャさんに帰ってほしいんです。門をくぐって、自分の世界へ戻ってほしい」


「ダメ…そんなの、ダメ!」


 リーシャさんがかぶりを振る。


「あなたが帰らなきゃ…ご家族は悲しむわ…!」


「家族には申し訳ない。でも僕ならこの世界でやっていけると思う。だから大丈夫」


 強がりかもしれないが、彼女の迷いを断ち切るため僕は笑顔を作った。


「それに、僕なんかが帰らなくても世界は困りません。平凡な高校生がいなくなったって、何も変わらない」


「そんなこと…ない…!」


 リーシャさんは泣きじゃくりながら首を振った。


「私は困る…! だって…あなたが…」


 言葉は途切れたが、その瞳が全てを物語っていた。僕がいなくなれば一番悲しむのは彼女だと。


 僕はそっと彼女を抱きしめた。小さな身体が震えている。


「大丈夫。僕はここに残るけど、一人じゃない。リーシャさんが長年待ち望んだ場所に帰れるなら…それが僕の何よりの喜びなんだ」


 彼女の肩が震え、掠れた声で僕の名を呼んだ。


「悠真…さん…」


 抱きしめた腕を解き、彼女の顔を覗き込む。


「だから…行って。今しかない」


 彼女は涙に濡れた顔で、小さく頷いた。覚悟を決めてくれたのだ。


 その時、祠の中の光がふっと揺らぎ、門が弱まり始めた。


「急いで!」


 僕が促すと、リーシャさんはきつく目を瞑り、震える足で門へ歩み寄った。


「悠真さん…ありがとう…!」


 彼女がそう叫んだ瞬間、眩い光がはじけ、リーシャさんの姿は光の向こうに消えた。白い輝きは見る間に収束し、扉の輪郭はふっと掻き消える。


 鳥の声だけがあたりに木霊する。射し込んだ朝日が祠の中を照らし、僕の影をくっきりと浮かび上がらせた。僕は一人、静かに立ち尽くしていた。




 静寂が戻った祠の中、僕はしばらく動けなかった。胸には喪失感と安堵感が奇妙に入り混じっている。そっと目を閉じ、リーシャさんのことを思った。きっと今ごろ、彼女は僕のいた世界で目を覚ましているだろう。


 朝の光が差し込む街角で、彼女はゆっくりと瞼を開ける。見慣れない近代的な景色に戸惑うかもしれない。手には僕の学生証が握られていて、それを見れば昨夜の出来事が夢ではなかったと分かるはずだ。故郷に帰れたと気づいて、きっと彼女は微笑むだろう。


 僕は異世界に残った。冷たい朝の風が森を吹き抜け、頬を撫でる。寂しくないと言えば嘘になるが、不思議と後悔はなかった。


 リーシャさんと過ごした一晩は、何にも代えがたい宝物だった。僕は勇者でも英雄でもない。ただ、あの一晩だけ彼女の勇者でいられたなら――それだけで十分だ。


 僕は青く澄んだ朝の空を見上げ、心の中でそっと「ありがとう」と呟いた。


 そして森へと歩き出した。新しい世界で始まる日々を、もう恐れてはいなかった。

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