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媚態  作者: 禅海
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第九章


 七月の中頃にもなると、無職の障害者をまず待ち受ける大きなイベントがある。梅雨の真ん中のこの時期に、毎年某県C市では、県内二か所の障害者職安と県内企業の合同主催で、障害者対象の集団就職面接会が開催されるのである。

 これに間もない時期になると、就職希望の利用者たちのファーネスへの往来は、梅雨空の悪天候であろうと騒がしくなる。二週間前には既に就職面談の予約が一杯になり、普段はもっぱら職員とリモートでやり取りし、あまり施設にやって来ない引きこもりの者たちすらひっきりなしに押し寄せ、それどころか中には不憫な息子を想った過保護な年寄りの母親が、意味も無いのに施設に菓子折りを伴って顔を見せるほどである。

 こんな右往左往して天手古舞(てんてこまい)なファーネスの有様に辟易(へきえき)しながら、面接会を明後日に控えた松風と碧は、自由活動後の一階の客間の隅の方で、この顔も名前も知らない人間のうち、誰が採用されるだろうかという下衆(げす)な賭けをして、特に松風は、全員また一年間大人しくお家に就職だと言って、あの不気味な骨のような脚を籐椅子の座面からぶら下げながら、けたけた笑った。

「しかしもうあれから一月経つが、かなり上々の滑り出しのようじゃないか。どうだ、俺の言った通りだろう。たった一月で随分な荒稼ぎじゃないか」

 松風は昨日の昼頃、美和子から自分の銀行口座に、五度目の一万円が振り込まれているのを確認していたのである。美和子からの送金は毎回決まって一万円である。これが松風の取り分で元金の一割だとすれば、碧はたった一月の間に既に少なくとも五十万円を稼いだということになる。

「それにしても、本当に一割でいいの。少し僕の取り分が多すぎる気がするけど」

「いいさ。俺が欲しいのは金じゃなくて、お前の成功、そして女たちの堕落と破滅なのだから。これでまずその第一段階が済んだわけだ。まずはお前の評判を作る。次に女を虜にする。そして場合によっては無慈悲に突き放す。こうしてお前の精神は勝利を手にする。まず常人が味わうことのできない、いわば不可能の勝利を。少なくともすでに、ここのところお前の顔つきの様変わりようを見ているだけで分かる。お前のその美貌は、着々と、完全なものへと至ろうとしているんだ。俺の言いたいことが少しは分かったか?」

「ああ。最初は正直疑心暗鬼だったけど、最近はなんとなく分かる気がする。これで僕も少しくらい、薬を減らしてもいいかもしれない」

 碧は既に三人の女とベッドを数度共にしていたが、その全てが碧に完膚なきまでに陥れられたことは無論である。この数度の密会のうち、三度は朱里である。

 彼女はあの素敵な夜以来、松風の思惑通りの被害者として、すっかり碧に熱を上げていた。しかもまだ先払いした十度分の逢瀬のうち、未履行が多くて七度は残されているのである。幸先の良いことに、他の二人とも既に次に逢う日取りが決まっている。

 この商売に於ける絶妙な駆け引きについて、碧は非常に商才があったと言ってよい。気の強い女には報酬を譲歩し、そうでない弱気っぽい女には少し強気に出て報酬をせびってみる。

 特に朱里の場合、毎回一万円ではそのうち向こうに商売の主導権を握られそうだから、たまに倍貰うのも面白いかもしれない、このやり方をもっと応用することが出来たら楽しそうだ、などと、この自分の秘密の才能を知ったばかりに、碧はもしかしたら試しに経営者でもやってみようかなどと野暮な考えを巡らせて、しかしそんな思案を“自信を持って”自嘲できるくらいなのである。

 今のところ、そのどれも順調な成り行きである。碧いわく彼の『裏切りの日々』は、実に順調に思えた。

 ああそれにしても、碧のこの『不可能と可能のアナグラム』の人生の恐ろしさたるや!


 翌々日の集団面接会の会場となったのは、市の主要行政機関の集中するC区にある、ポートアリーナという、収容人数七千五百席以上を誇る多目的アリーナである。このメインアリーナで普段面接会のほかに催される行事は、スポーツイベントやコンサートや文化イベントなど多岐に渡るが、偶然なことに碧と日葵が昨年卒業した大学の入学・卒業式典も、毎年この会場が用いられるのである。無論碧はその両方に出席しなかったので、覚えてすらいなかったが。

 会場は長方形のコートを中心として、アリーナ席がその全周を囲むように配され、ドーム状の音響計画の考慮された天井が遥か頭上である。このアリーナの中央に、数えるのも難しいが恐らく三百席ほどの座席が縦八列で整然と並べられ、その両脇から挟みこむように県内八十以上の企業の個別面接の長机が控える形である。この企業番号を示す数字が印刷された垂れ札の割り振られた長机には、二人以上の面接官が四六時中張り付き、さらにその付近には夥しい案内係員が、彷徨える求職者を呼び止めて親切に説明を行う。

 この面接会は例年日曜日に行われるから、つまりここへ徴集される関係者は業務とはいえ休日返上で障害者の相手をせねばならない。

 碧らファーネスの参加者たちがまとまって開会式十五分前に会場入りしたときには、すでに大勢の同族たちがそこに跋扈(ばっこ)していたわけであるが、ずっと意味不明な言葉を叫んでいる者、会場を縦横無尽に走り回る者、他の参加者の車椅子を蹴りつける者など、いつにまして騒がしいそれは目立ち過ぎて目をそむけがたく、なんという地獄に放り込まれたものだろうかと、参加者番号名札を首から提げた碧は図々しく考えた。どこの世界でも一部の厄介者が徒党を組んで、よってかかって支配者側に食って掛かるのは同じである。

 いよいよ開会式が始まるので着席しようというときに、碧はそこに思ってもなく日葵の颯爽とした後ろ姿を見かけたのだった。碧は不要だろうと思って日葵に今日のことを伝えていなかったが、彼女は市内の大手就労移行支援事業所に勤めているので、勿論この面接会に若手職員の一人として参加していたのである。

 日葵の職場は私服勤務を推奨しているが、今日もあくまで裏方を任されているのに、日葵はしっかり糊を利かせたスーツを着てきている。そういう真面目さがいかにも日葵らしくて、しかし職場での彼女の姿を知らない碧は、つい彼女を遠くから呼び止めたくなったが、それを(わきま)える前から彼女とは他人であることを自分に強いた。

 着席して数分と経たぬうちに会場にアナウンスが放送され、ざわついた場が急にしんとして開会式が始まる。国旗と県旗と市旗が三位一体をなした会場前方の厳かな演壇に開催責任者が登壇する。日頃の通所といいそこでの勉強といいこの式典といい、障害者の社会更生は犯罪者の社会更生と同じように、あのうざったらしいほど長い義務教育の日々を思い出させる。

「昨年度の本県民間企業障害者平均雇用率は2.25%でありました。全体では法定雇用率の2.3%を僅かに下回りましたが、求職者並びに県内各企業様のご協力とますますのお引き立てを、本年度も何卒賜りたく思います……」などと長ったらしい開会の辞に耳傾けながら、松風は碧の隣で密かに冷笑した。

 松風は碧の耳元で、

「下らんおべっかだ。ほら、あのおっさんのお辞儀する方を見てみろ。ありゃ俺たちなんか一つも見ていない。あんなのは県内の企業様に向けてのご挨拶だ。あいつらにとって俺たちは客でなくて商品だからな。いずれ自分が天下る先に、早めの収賄活動でもしてるんだろう」と彼らしい悪態をついたが、碧はあの演説者の美辞麗句には松風が持ったほどの些細な関心すら寄せていなかった。ただこの自分を(いまし)める時間に()んで、眠らないようにスーツのズボンの腿をつねって痛みを感じていただけである。


 こんな嫌なことがあったからか、翌月曜祝日の珍しい碧の外出は、余計にとてつもない喜悦で溢れていた。この日はファーネスも閉所である。日葵も会社が休みだから、二人でJRと都市モノレールを乗り継いで、市の中央公園まで散歩に出かけようと約束していたのである。日葵も日葵でこの提案がまさか碧からなされたものであったために、まるで天地がひっくり返ったような気がした。つまり彼女にとって全く良い方向に事態が好転している実感があった。

 そんな二人の熱烈な歓喜は、目を見張るような梅雨の晴天を呼んだ。雲一つない梅雨晴れの青空はもはや夥しい。

 碧は特に最近夜の世界の暗い稼業を覚えたために、なおさら日中の太陽の輝きが素晴らしく感じたし、そしてなおこの輝ける世界とあの暗き者どもたちの世界が、欲望という接点以外に一体どのような点で互いに接しているのか、全く不思議に思えてならなかった。


 モノレールの駅の階段を降りると、すぐに公園の入り口広場に出る。だが広場は今開発工事中であり、碧と日葵は工事現場を逸れて、歩道を少し行ったところにある坂道の階段から、少し低地になっている公園の遊歩道へ降りた。(くぬぎ)の高木がこの坂の辺りを広く陰らせているため、足元の土は昨夜の雨が乾かずに湿っていて黒く、脚を滑らせそうである。

 見渡す限り公園は青い陽気に支配されている。祝日ともあって人が多い。遊歩道は公園中央の広い『千草池(ちぐさいけ)』の周りを一周していて、散歩やランニングや犬の散歩をしている者がある。

 二人は近くの木製のベンチに腰掛けた。日葵は彼女の趣味のカメラを手に持って、良いアングルを探し出して撮影し、碧に見せた。思い出してみると、この日葵の撮影趣味が、高校時代に二人の接点を見出したのである。写真部の日葵が撮影した夕焼け空の陸上部の青年の光景は、その翌月高校生写真コンテストの知事賞を賜った。

 何枚か撮られたものを、どれもいい写真だと言って碧は褒めた。それだけでも充分日葵の心は嬉しかったが、今までもっぱら自宅や人気のない屋内でのデートばかりの二人の生活で、日葵はこうやって休日のお昼に外で、しかも人通りの少なくない場所で、こうやって二人で過ごすのがほんの小さな夢だったので、碧が何と言おうといちいち喜んで見せた。

 千草池は太陽の黄金の反映を、鶯色(うぐいすいろ)の水面に揺らめかせていた。時折風が水面を(すべ)って、こちらまで心地よく吹いてくる。

折しも瞬間の力積的な南風が、遊歩道を挟んだ池の上へ緑色の影を伸ばしているヒマラヤスギの下枝(しずえ)を強く揺らして、その真下を遊泳する一匹の真鴨を驚かせた。

 真鴨は緑色の長い首をくねらせて、水飛沫を上げずに巧みに潜水したかと思えばまた現れた。すぐ隣に、真鴨につられて一匹のよく肥った黒い鯉が水面に浮きあがり、立派な髭を見せつけながら口をぷかぷかと暢気(のんき)に息継ぎしている。鳥と魚さえ仲が良いような気のする、陽気な初夏の一日である。

『まるでこうしていると、僕の人生の危難に対する不安は、無用の長物のようだ。いや、そう思えるくらい僕は浄化されてしまったんだ。生きる意味を見出す必要など、もう無くなってしまったような気がするくらいに。とにかく毎日家の中に籠っているのも楽でいいけれど、たまには外に出て、雑草でも触ってみるのも楽しいことかもしれない』

 気付けばあの池の水面に美しい反映を落としていた太陽の光が、碧と日葵の膝頭を熱くさせていた。膝の上で手を繋いだまま眠りそうになっていた二人は、ようやく腰を払いながら立ち上がった。


 中央公園の一部は、元々旧鉄道第一連隊の演習用作業所だった。この辺りは戦前戦中、似たような旧軍の教習場であった土地が多い。公園内には現在も架橋演習のための橋脚やトンネルが、昔日の面影を残している。池の西に小高い丘がある。この丘ではかつてラッパ手の練習が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれたが、のちに若い殉職者の名を取って「新井山」と呼び改められるようになった。

 戦争の終盤、市街中心部からほど近いこの地区も、空襲の憂き目に遭った。空襲警報に寝入りを叩き起こされて新井山の頂上へ命からがら逃げおおせた民衆のすぐ鼻の先へ、夜空から赤い死が止めどなく降り注いだ。しかしこの新井山には、何故か一発の爆弾も落ちなかったのである。青年の若すぎる殉死が、天のラッパの加護によって、人々の命を護ったのであった。


 碧と日葵は遊歩道を半時計周りに歩いた。小さな野球場の横を通る。まだ声変わりも済んでいないソプラノが、バックネットの網にとんでもない暴投をするたびに喧騒する。やがて小高い新井山の脇に出る。既に時期を過ぎ花芽の付き出した躑躅(つつじ)が植えられた山肌から、林立する巨木が二人を見下ろしている。新井山の裏手には市の中央図書館がある。図書館の閑静と公園の活気に挟みうたれた小高い山頂の芝生はまだ土混じりだが、真夏になれば青々と繁り、心地よく刈り込まれていることだろう。

 新井山と刻まれた石碑の向かいにボート乗り場がある。三日月型の船着き場で、白髪の係員たちが先端に鉤のついた木のポールを空のボートへ次々にさし伸ばしている。池の隅に係留されている役目のないボートの傍から、乗客を乗せたボートが出発して、二本の(かい)が水を掻く音が、岸へ近づいてはまた離れて、過ぎ去ってゆく。

「碧は最近順調?」

 晴天の(なご)やかさが、つい日葵に本音を漏らさせた。実のところ、この些細な不安こそが、今日の彼女の愛する人との外出を支えていたと言っても良かったが、日葵の美しい横顔は平然と、一つの不安もないように笑っていた。

 女が誰かを愛しているとき、きっとこういう顔をするんだと思いながら、碧は「順調だよ」と澱みなく答えた。これだけ安寧というに相応しい瞬間を迎えていても、未だに自分が彼女を本当に愛しているのかも不確かなままに。

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