第八章
梅雨の季節になった。S本線C駅の心療内科の縁辺を、蚊柱のような鬱陶しい湿気が領している。エレベーターを出た目前の診療所入り口の傘立ての根元に小さな水溜まりが出来ている。
碧が来院してきた今ほども、激しい夕立が灰色の街の屋根々々を叩いていた。傘立てに差された傘は既に数少なである。薄暗い夕暮れの診療所を嫌って、病人たちは早々に捌けてしまった。
予約はおよそ一月ぶりの、しかし水曜日である。碧は受付を済ませ、珍しくすっからかんな待合室のソファーに深く腰を沈め、いつにまして不安に身体を委せた。
あの晩、松風が碧に持ち掛けた商談とは、以下の通りである。
松風は昔知り合った良からぬよしみで、現在とあるインターネットサイトの管理者を任されている。所謂最近流行りのマッチングサイトである。これは表向き一般向けの恋愛援助を装っているが、それは実は隠れ蓑であり、その特別会員制の裏サイトこそが本業である。
この様々な特殊性癖の集まるサイトのタグ検索には、例えば身体障害者、精神障害者、知的障害者、高齢者、同性愛者、サディスト、マゾヒスト……これらとは比較ならぬほど身の毛のよだつものも含めて、通常性癖の一般人なら思わず目を逸らしたくなる項目が夥しく並んでいるのであるが、つまり松風の言う商売とは、簡単に言えば碧がこのサイトの男娼となり、女たちから金を巻き上げるというものである。
「今どき恋愛というのは金になるし、特に単純な恋愛では満足できない人間が相手ならなおさらだ。禁酒法時代のアメリカの闇酒場では人種差別もほとんどなく密造酒を売っていたように、世間体に反した恋愛はどれも大差なく高く売れる」と言って松風は薄汚くにやけた。
商談の際に松風がえらく多用した「精神的勝利」という言葉とこの商売の二つがどのように繋がっているかという碧の素朴な疑問に対する彼の解答は、松風の言をそのまま借りるなら、「じきに分かるだろう」とのことである。
勿論サイト側は、売春斡旋の予防として、低額の会員費を除けば、サイトの利用者に対し如何なる金銭的取引も行っていないし、利用者同士の違法行為を許していない。それでも広告費だけでかなりの収入がある。
だから松風の提案する商売は、つまるところ碧がサイトの利用者を装って「キャスト」になり、短時間の「デート」で会員のお気に召せば、見返りとしてちょっとした「お小遣い」を貰えるというわけである。
が、これは無論危険な違法行為であるから、正規の運営を通さない会員登録手続きと、情報隠蔽の見返りに、この「お小遣い」の一割を松風は要求した。裏金の受け渡しには、念を期してあの中華料理屋の美和子を仲介する、ということにしたのである。
「所謂『性的搾取』を受けるのが、お前の役割だ。だが佐藤、お前ならな、この搾取を逆に手玉にとれると俺は思う。このサイトを使う女は、そこらの女とは違う。ホストに貢いで破綻する程度の小金持ちやらメンヘラやらとはわけが違う、もっとおぞましい女たちだ。そういう女たちを魅了し、奴隷にする才能をお前は秘めているのに。それに今まで気づかなかったことが不思議なくらいだ。そのうち、そのうちだ。お前はきっと俺の言葉の意味を理解することになる。俺はこの前、俺のような弱者は必ず精神的勝者にならねばならないと言ったが、お前ならきっと勝者になることが出来るだろう。少なくとも、お前がこの話に乗りさえすれば……」
碧がこれにすぐ良い返事をしたわけでないことは、言うまでもない。ただし結果的にではあるが、碧はたった一週間後にこの話を受けることを松風に伝えた。
その一週間の間に起きたこと、例えば最初の不採用に続いて二社受けた障害者採用面接が両方とも不採用に終わったこと、六年間使った洗濯機が故障し修理不可能で買い換えねばならなくなったこと、入居しているアパートの居住及び火災保険の契約延長などで、貯金が一度に計八万五千円余り消し飛んだことなどが、ちょっとした碧の神経質な精神的不安と経済的切迫を刺激して、彼に取りあえず一度だけ試してすぐ止めればいいと、実に軽い気持ちで、過ちを犯させるに至ったのである。
ただ確かに碧は心の中でその理由を『軽い気持ち』と表現したが、健常な目で見れば、既に彼の日常は非日常に取って代わられていて、非日常が日常になったとき、我々は多くの場合、周囲のあらゆる外的な出来事には気を張り続けなければならなくても、自分自身の内的な異常や異常な行為には、いちいち心を揺るがされなくなるものである。
つまり自分が生きるためなら、誰かの目を気にする余裕など既に無く、例え規範や法規や美徳に背くことであれ、何でもしなければいけない。
だから碧は今から、恥に塗れて錆びついた行為をせねばならない。我々精神障害者に常々欠けているもの、そして必要なもの、つまり少しだけ深い水溜まりを飛び越えるような、小さな勇気を振り絞る行為を。
名前を呼ばれ、診察室に入って「最近はどう過ごされていますか?」と聞かれたときのために、碧はいつもとは異なる、明確に曖昧な答えをあらかじめ持ってきていた。
「最近、彼女との、その……上手くいっていないんです」と、碧が敢えて包み隠しに、巧みな演技で少し照れ臭そうに口にすると、既に閉経して夫との営みの絶えて久しい主治医の松田は、世間一般のお節介好きな中年女たちが好き好んでするように、実に嬉々として底の知れた、あの背筋も凍るいやらしい微笑をして、「そうですか」とまるで事情を全て悟ったふうな顔をしたので、碧は「これなら僕も十分役者でやっていける」と鼻で笑った。
碧の思惑通り、主治医は普段通りの常備薬に加え、ジェネリックのED治療薬を処方した。作用時間は五時間程度、服用は性行為一時間前、空腹時は二十分程度で作用すると処方箋に説明されている。かかりつけの薬局で一度それを受け取ってしまった後では、もう後戻りはできない。
女と違って、男は勃つものが勃たねば、少なくとも「仕事」にはならない。碧がズボンのポケットに手を突っ込んでも、まだ硬くないそれは掴めそうにない。
一方碧は自分が好きでもない女に見境なく興奮するほど好色ではないという自認はあるし、女の顔を見ればきっと罪悪感が日葵の顔を思い出させて上手くいかないだろうから、碧は必要な嘘をついただけである。
こういう必要なら構わないという貧困な衝動が、まさか自分にあらわれるなどと、碧にはそれが俄かにはとても信じがたいと思うと同時に、偶然にも自分が日葵を裏切る行為に及ぶことになった事実に慄かずにはいられない。それでもせめて彼女のことを想うなら、道義から逸れた己の行為を認めないよりも潔く認める方が、まだずっと道徳的に感じるほどである。
碧はそれから、C駅の改札前を素通りして裏通りへまわり、雑居ビルやシャッター街のアーケードの一角の、個人経営の寂れた薬局に寄った。薬局の赤茶色のタイルに立てられた皴だらけののぼり旗が草臥れている。白髪の団子頭の老婆が、そろそろ店仕舞いにも関わらず、店中のレジカウンター前で木椅子に座ってうたた寝している。
その店先に小汚い避妊具の自動販売機がある。もしも先に良からぬ細工が施されていたらかなわないと思い、碧は日葵とは使わない、知名度のある量産品の中でも一番安いものを買った。
これで碧は、今から三駅先の駅前のバーへ向かわねばならない。既にその近くのホテルの予約も取られている。夜が来る前に、碧はそこで生まれて初めて顔も名前も知らぬ女に弄ばれるのである。
日没が遅くなりだした夕暮れが物々しく、水底色の空に灰色の梅雨雲が凝固し始めると、一度降り去った雨がまた近付いてくる匂いがする。この日のために新しく用意した外出用のアウターが、梅雨の夥しい湿気を感じて水脹れして、着こなし悪く感じる。
だが今性感剤と避妊具、この二つの悪魔の道具を手にしたとき、碧はあることが不思議でならなかった。つまり自分はこれから日葵と自分自身を裏切ることになるというのに、それになんの躊躇いもなく、何故だか実に悠然としているということ……。
T駅の北口から500メートルほど北上した繁華街の、米国メトロポリタンスタイルのモダンなダイニングバーには、早上がりのサラリーマン、大学帰りの若い大学生連中が詰めかけ、上気するまま珍しい酒の味を楽しんでいる軽やかな驟雨のあとの甘い夜陰が、雨上がりの湿気った店内のそこらにひしめき合っている。
暖かい薄光が覆い被さった黒っぽい石造り風のカウンター、バーテンダーの背後の鍵盤のようなボトルの跳ね返す鈍い輝き、赤茶色の煉瓦調の無口な壁。こういう雰囲気の店に、碧は以前日葵と一度だけ来て二度と行かないと決めていたはずであるのに、まさかこんなかたちでまた訪れることになるなどとは考えもしなかったし、何よりここまで辿り着くためだけに既に薬を三錠要していたのである。
例の如く碧は店に入ることさえ戸惑われたが、恐々と入店してすぐ黒服蝶ネクタイの感じの良いボーイに捕まって、既に待ち合わせの相手は到着していることを聞くと、あまり取り乱さずに案内されることになった。ボーイもまた、こんな碧を案内することに誇りさえ感じた。人前で著しく取り乱しさえしなければ、碧はただ絶世の美青年である。
ボーイはバーの立ち飲み客を避けながら、奥のVIPルームへ碧を連れて行った。ボーイが静かに部屋の重い扉を開けると、狭い部屋の薄暗がりに、テーブルキャンドルの橙色の炎が張り付いた二人用のダイニングテーブルがあり、オフィスレディ風の女が洒落たバーチェアに足組みして掛け、スマフォを弄りながら時間を潰している。
女は店のボーイが男を連れて近づいてきたのに気付くと、その淡い炎に照らし出された顔を気だるげに持ち上げた。
ボーイの去り際、それを真赤な口紅を緩ませた愛想笑いをして見送りながら、「伊藤さん?」と、周堂朱里は碧を見上げて尋ねた。
俯きがちな年下の美青年は、彼女に視線も合わせずに「ええ」と答えた。碧はバーチェアの背もたれを引きながら「山田さんですか」と尋ねた。朱里は軽々と「うん」と言った。碧も朱里も偽名を使っていたのである。
朱里は大手の広告会社に勤める二十八歳のキャリアである。前髪を左右に分けて耳にかけた黒いロングのレイヤーカットが凡庸な美人を感じさせる朱里は、いわばこのただの流行りの一種に過ぎない髪型を、世間が流行りと言い出す前からいち早く取り入れていたことに矜りを持っているような、ありふれた都会の女だった。
毎週木曜の夜ジムに通いつめて作り上げた見事なボディラインが分かりやすい、グレーのテーラードジャケットとタイトスカートを着、その虚栄の自信の刺青が彫られた顔は、やたらと目筋鼻筋ばかり目立つあの韓国メイクが、彼女の意図に反してずっと澆薄な印象である。
「お綺麗ですね」と碧は思ってもない世辞を言った。
「何言ってんの君こそ綺麗な顔よ。羨ましいわ」
朱里は一通りの世辞を言われ慣れ過ぎていて、逆に良い世辞の言い方が分からず、第一に思ったことをそのまま口にした。碧の顔は鑑賞に美かった。
朱里は簡単な世辞を聞いて心地よく自分に酔ってしまうくらい、ことさら恋というものと無縁な人生を送ってきた。何故なら彼女がそれを必要とする前に、下賤な男たちが彼女に近寄ってきて、その類似品に事欠かなかったためである。
朱里の方も誇り高い女だったので、媚びへつらってくるそれらを寛大に許した。また、彼女は無神経な女でもあったので、本当の恋愛、始まりから終わりまで感情をくたくたにするあの不毛にも関わらず誰もが好き好んで話の種にする作業を、一度もまともに経験したことがないために、世辞の言い方を知らないどころか、恋の駆け引きだとか、愛の芽生えだとか、そういったものは全て映画やドラマの中だけの作り物だと思っていたのである。だから朱里は流行りの韓流ドラマで一晩中泣ける女だった。
朱里はこういう現実的な女だったから、終点まで行きついた恋の結末を知るよりも先に、手早く男を買うことを覚えた。
その専制的な性格もまた力添えして、朱里は疑似恋愛を購入することに依存し、しかもこの依存に都合のよいくらい、彼女の性癖は既にかなり以上歪んでいた。朱里は未だにその夢想の中で、中学生の頃彼女が自殺に追い込んだ哀れな男子生徒の冷たい肉体に跨って屍姦していたのである。
やがてテーブルにカクテルが運ばれてきた。碧は何を話すべきか分からないので、じっとキャンドルの揺れない炎を見つめている。暗がりに照らし出された美しい顔もまたうつろである。
「この界隈もそれなりに長いけれど、精神の人は顔を見るだけで分かるわ」
「そうでしょう。僕らはみんな同じ顔ですからね。どれも腐った茄子みたいな顔です。それでなんで山田さんは、僕らみたいなのが良いんです?」
「そんなこと聞かれるの久しぶり。君まだ若いよね? ああそれじゃもしかして今日が初めて? へえ、そうなのね」
朱里は橙赤色のニューヨークカクテルを口に含んでほくそ笑んだ。碧の無表情な役者のような美顔を見つめて、その鑑賞に足る己の奇特さを褒め称えながら、朱里は既に「当たり」を引いたと思ったのである。
「じゃあ私が君の最初の客ってことか。私が君を選んだ理由なんて、君が精神障害者っていうだけ。あなたみたいな、自分に極端に自信の無さそうな男が好みなの。そういう子を見てると虐めたくなる。私小さい頃から男の子を虐めるのが大好きだったの。ああ今でも忘れられない。中学の時に友達とみんなで一緒にね、クラスで一番気弱な男の子を虐めたら、その子自殺しちゃって! そのときね。自分が多分普通じゃないって思ったのは」
朱里は禁猟区で大型の草食動物を仕留めた密猟者の懐古のように、そのときの涙ぐましい努力を思い出して瞼を熱くさせた。
一気に飲み下されたカクテルが、朱里の目尻に集まりほのかに赤らめ、既に恍惚の色を付与していたのを見た碧は、もう既に静かな夜の波打ち際の胸の高鳴りにも似た、ある迷いのない衝動に駆られていたのである。
『この人なら、僕はなんの躊躇いもなく欺ける。なるほど、松風の言っていた精神的勝利というのは、きっとこういうほんのちょっとした悪意のことだったんだな』と考えると、碧は密かに懐に忍ばせていたあの薬を、朱里にばれないようにそっと口に含んだ。
それからの碧は、まるで人が変わったように、もっとも自信のない素振りは姿態そのままにちょくちょく目立ちさえしたが、日葵と話すときと近いそれなりの流暢さで、自分の身の上やら経験やら嘘も事実も実に自嘲的に滑稽に話して、ほろ酔いの朱里の笑いを誘った。
特に彼の、昨冬に交付された障害者手帳に対する見解は痛快だった。あの偉そうな安物の金字は、自分がこれまで読んできた大小説の文豪の名前や、歴史的な大哲学書のタイトルの金字に比べたら、なんの役にも立たないゴミのようなもので、よく巷で酒の肴にされているほど、あの手帳はいざという時ほど自分を救ってくれるような効能などただ一つとして見せず、寧ろひたすら自分がきちがいであることを都度々々教えてくれるお守りだと碧は酷評した。
碧はそれから朱里の前に手帳を指でつまんでぶらぶらキャンドルの炎の上に揺らめかせてみせ、現金やカードの入っていない無一文の財布より無意味なだけでなく、ズボンのポケットに入れたりでもしてそれを忘れて洗濯してしまわないか無駄な心配が要ると言って、失笑に付したのである。
それから碧は、自分でも不思議なくらい機嫌よく明るい、笑い飛ばすような軽々しい口調の愚痴を止まらず連ねた。
「こんなものを申請するのに半年も病院に通って役所に通って無駄に時間と金ばかりかかって、その見返りなんて博物館とか映画館が半額になるやら、糞みたいな低賃金の『優遇措置』が取られた障害者雇用が見つかるやら、殆ど雀の涙みたいなもんです。有ろうが無かろうが大差ない。考えだしたら余計精神を病みそうです。政治家やら人権活動家はこんなもので僕らを安心させられると考えているんですから、揃いも揃ってこの世の馬鹿を下から順に並べたような人たちですよ。自分たちは小難しいおべんちゃらばかりで、しまいにこんな下らないお手帳を印刷して僕らを社会の見せしめにするのが立派だと思い込んで、うん百万うん千万円と貰うわけです。しかもそれは勿論山田さんみたいな一般人や、ましてや僕らみたいな障害者からふんだくった税金やら献金なうえに、さらに色んな所からその金目当てに、獣の死骸に集まるハゲタカみたいに他の馬鹿やら悪党まで寄ってきて、あいつらの犯罪に加担しているんだから、笑えたもんですよ」
「ははは。ほんとね。あいつらの方こそきちがいね。そりゃあ美人局やら未成年売春もなくならないわ」
朱里はカクテル片手にテーブルを叩きながら、碧の辛辣な社会風刺に全く同意し楽しそうに笑った。こういう朱里のような性格の悪い女は最近そこら中にいるが、朱里には唯一秀でて優れているところがある。それは自分から男の聞き手に回り、愚痴を聞いてやれる寛大さである。
専制主義の朱里は、障害持ちの男たちにいつもしてやるように、碧の愚痴にも気分を害さず付き合ってやった。彼女はときおりその触れやすい逆鱗とは真逆の寛恕の精神を見せる暴君である。ただ今夜聞く愚痴は、いつも相手にする男らの媚びた駄文と比べれば珍しくよく出来た話である。朱里は碧の下らない皮肉を楽しめるくらいには、一応実力で大手の広告会社に入社した学歴やウィットもある。
こうして絶対者の前で道化を演じ、今ほど投げやりで無責任で、まるで他人のようでいられる瞬間を知らない美青年の顔には、類を見ない淫靡で美しい悪魔の表情が宿った。天に見放されていようと悪魔に立ち向かわねばならないというならば、まず自分自身が悪魔にならねばならない。
二人は楽しく酔いながら、卒なくホテルに着いた。夜の八時である。朱里が既にチェックインを済ませていたので、フロントに預けていた鍵を受け取ってエレベーターに乗り、二人は十二階へ上がった。
部屋の扉を開けるとまず朱里が窓際に駆け寄って張り付いた。客室から眺める都会の夜景は燦然と輝いていて限りがなく、ふと油断すればそこへ気楽に真逆さまに飛び込みたくならないかと考えると、碧には壁に切り抜かれた巨大な窓ガラスの側へ近付くのが躊躇われる。
また雨がガラス張りの高階の側面を叩き出した。小さな雨粒が夜景の放つ光をプリズムを通したように七色に輝かし、その鮮やかさに碧は目が眩む気がする。
こんなさも初々しい怯弱な碧の背中を見あぐねて、朱里は前触れもなくそれをダブルベッドへ力強く押し倒した。碧の抵抗はなかった。まるで石で出来た下僕のようだ。
朱里は風呂も浴びずに、碧の上に跨って勇んで脱衣し始めた。明るい緋色の下着が露わになった。薄暗闇に浮かび上がる朱里の血のように赤い唇と組み合わさると、それらはなおのこと鮮やかでこそあるが、碧はこういう派手な色を全く好まない。
半裸になった朱里は、衣服を脱いだ代わりに過大な自尊心という透明なドレスに身を包んでいるように見える。つくづく我々は、こういうまやかしの殷賑さに溺れることを好み、また脅かされている。我々はもはや裸になっても裸ではいられないほど、自分自身を着飾り過ぎることに躊躇しない。
「ああ、もうこんなになってる」と、薬の覿面な効果にうっとりして囁きながら、朱里は殆ど碧のズボンのファスナーを下ろした。その吐息は酒の甘い匂いで湿っていて、昆虫を待つラフレシアの放つきつい誘引のようである。
碧は仰向けのまま朱里を見上げていると、その我欲で歪んだ顔はまるで捕食者から逃げおおせた巧妙な雌鹿のように見えた。
だから碧は、朱里の気の赴くままに服を脱がされてゆくあいだずっと、「僕は今から、獣を抱くのだ。決して僕は人間を抱くのではない」と冷静に己に言い聞かせた。
朱里にはその全てのあいだに、まるで美酒に酔いざめて、熱い砂浜に出て素足で立ち尽くしているかのように思われた。朱里は砂浜のそこかしこに埋まった宝物を次々掘り当てては喜ぶ、久しく忘れていた清純な少女の心を思い出した。
美しい貝殻を背負ったヤドカリやつるつるとした甲羅の蟹や透明な海虫たちが、朱里の足元に遊んでは去ってゆく。朱里は膝をついて、こなたの輝かしい砂粒を、手のひらに素足に腹に自在に泳がせ、己の肉体のそこら中に無邪気に纏わせた。
その砂浜は見渡せばそこにダマスカスの仮面が顔を覗かせており、またそこに琥珀色の一対の赤黒い宝玉が敏感に風を感じている。そしてあそこには天に向かってそびえ立つ、硬く凛々しい荘厳たる純金の延べ棒が……。
朱里は自分が征服したこの宝の山にこの上ない満足感を得ていた。この快感は朱里のきつく引き締められた大人の女の仮面をいともたやすく引き剝がし、またとない絶頂へと何度も導いた。
朱里は一つとして、碧の肉体に不満を感じなかった。実際碧は殆ど女を知らなかったが、その唯一知っている女とて知っている男が碧だけだったので、彼の雄々しい黄金の延べ棒は、自分が一般的なものよりもずっと巨大であることを、少なくとも矜りには思っていなかったのである。碧の持参した仄かなゴム臭のする安物の避妊具の箱には、殆どの男が縁もない癖に憧れるXLの大文字が書かれていた。
疲れ果てた朱里は、碧の横に添い寝していながら、自分の緩んだ顔を見られると思うと恥ずかしくていたたまれない気がしたが、これは今まで彼女が、劣弱たる男娼に対して一度たりと感じたことのない屈辱であり、それに抗うために寧ろ碧の横顔を見つめ続ける必要があった。
こうして必要に駆られること自体、都会の女の成功としてはまず有り得ない心のよろめきが、清浄な力で朱里の不浄な疑心や傲岸を洗い流されるようにも思われたのである。
そうして見られる枕に半ば沈んだ碧の顔は、悲しい力で緊縛されている。呼吸のたびに小さく上下する薄い金色の胸毛がもの寂しい。こうやって碧が今、自分がまさに汚い男娼に堕ちて、自涜のあとのあの果てしない改悛の苦しみから無言でいる理由を、朱里はさても計りかねた。
福島の安積の片田舎の建築業者の長女に生まれ、それなりに美人であるがために、他人の感情を慮るように育てられず、あまつさえあらゆる悪戯や悪行を見過ごされ、そこそこ頭が良く、大学に進学するまま都会の見本的OLとしてそれなりの生活を送れている無神経な朱里には、この美青年がなぜこんなに私よりも十分美しい顔と肉体をしているのにも関わらず、著しく精神を病んでいるのか、一つも理解できなかったのである。
もっとも、無論この理由の本質を自分の神経質さに見出すのが碧の常であったが、もし朱里のこんな無神経が生まれつきならば、やはり碧の神経質もまた生まれつきと言うほかなかった。碧の無言はこの朱里の無神経さを責めていたのである。
「伊藤君はもしかしてゲイかホモなの?」
「いいえ」
「ああごめん、この界隈で自分を売ってる男ってその手が多いから」
「謝るのはよしてください。山田さんはまるで彼らがおかしい人間だと思っているみたいですね。でも彼らはきっと寧ろ、僕なんかよりずっと誇らしい人種だと思います。僕は自分が何者なのかすら、未だに分かっていないんですから」
この碧の言葉は、説教じみているようで、朱里にはしかしもっと悲劇的に思われた。そしてかつて同情というものを知らない彼女は、そう思うことで混乱した。『私が、まさかこの私が、こんな一人の障害持ちの男なんかに、悲劇的だなんて感想を抱かされるなんて!』。
碧は思いがけず一瞬朱里の赤らんだ顔を見かけた。すると改悛に徹していた碧の肉体は、突如労働の輝きを取り戻し、その瑞々しい疲労感があくる日もやってくる希望に満ち溢れてきた。
他でもない自分が彼女をこうさせたのだと考えると、彼の奥底から不思議な、それを根拠のない自信とでも言い換えるべき、或る確かな力が湧き上がってくるのを感じたのである。これを碧は、裏切りの力だと考えた。これは自分を裏切り、そして日葵を裏切ったために得られた充足された労働の力だと思った。
「でも山田さんは、そんな僕でも選んでくれたんです」
碧はベッドに半身を起こして、朱里の耳に指で触れた。くすぐったくて朱里は身をよじった。それを見て、碧は両眉を額に寄せて、その美貌に似合わない実に無邪気な可笑しい顔をした。この幼げな自信の翼を得た媚態が、今にも羽ばたいて朱里の胸を掠めた。
碧は手早く風呂を済ませて服を着直すと、先に上がっていた朱里から、小さい茶封筒を渡された。きょうびこの界隈では、現金主義が未だ揺るぎない支配権を保っている。碧が謝ってから中身を確認すると、十万円入っている。こんな額の現金を、碧は今まで手渡されたことがない。
「それでいい?」と朱里が尋ねた。朱里がその専制的絶対王制の面目として密かに支払う報酬の相場は、ただし当然ながら殆どの場合支払われすらしないそれは、取引相手の信用度によって著しく乱高下するが、この金額は言わずもがな相場の最高値を更新し、しかも相手側からの一つの要求もなしにその許可を得ていたので、朱里の自尊心はそれを碧に手渡すだけでも微かに身震えていた。
だが碧は、「じゃあ、これでお願いします」と言って、十万円の紙幣のうちから一枚だけを抜き取って財布に挟むと、残りをそのまま朱里の手の内に握らせたので、朱里はまた矜りを傷つけられた気がして、腹を立ててたまらず、
「私のこと馬鹿にしてるの? 素直に取っときなさいよ」
と苛立って口にすると碧は、
「いいえ、貰いません。残りはまた次に会った時にでも貰えばいいでしょう?」と微塵の困惑もなく答えたので、朱里はまた劇的に恥ずかしくなって、窓側のソファーに力なくもたれて暫くぼんやりと碧の背中を見つめているうちに、そこにあったはずの碧の姿は気付けばもう、部屋のどこにも認められなかった。
ものの十分もナイトランプの穏やかな橙色に照らし出されていた朱里は、突き返された茶封筒をまだ握りしめていた。胸が激しく波打っている。そこにただ一人残されたのは、ひたすらに幸福な女だったが、それを知る者はまだいない。かつて恋というものを知らない朱里は、この幸福が恋の始まる感情にとてもよく似ていることも、まだ知らない。
外はまだ雨が降っているだろうか? 降りやまない雨はないというのなら、驟雨のように突然やってきた朱里のこの感情も、いつかおさまらねばならないが、少なくとも朱里はたとえ雨がおさまりなく永遠に降り続いたとしても、自分は裸で外を走り回って、この自分にしか分からない幸福な感情を、不幸な誰かのために自慢げに振り撒いてもよい気がする。