第六章
五月になり、胸がすくような薫風が廂をくぐってファーネスの中まで漂ってくる季節になると、碧はもう既に通所が半ば退屈になり、気付けばいつ帰宅するか考えて、自習室の机でぼっとしている時間が増えてきていた。出世と縁遠い中年会社員が、煙草も吸わないくせに、誰もいない喫煙所で鬱屈な時間を潰すように。
職安の紹介状を出してもらったうえで、北村の強い勧めで、碧は先々週、ファーネス通所開始後初めて事務職の障害者採用面接に出向いた。面接は当たり障りなく、面接官は最後に、一週間以内に電話か書類で結果を碧に通知すると言って、その日の面接は終わった。
それから一日、二日、三日と経って、流石にまだ通知は来ない。四日、五日、六日と経ってもまだ通知がない。既に約束の七日は過ぎ、採用の電話がないなら、もうそろそろ不採用の通知書が自宅に届いても良い頃合いである。碧は学生時代から不採用通知には慣れているが、こうしているとやはり何度でも不思議な焦燥に襲われてくる。だがそれでも何の音沙汰もない。
遂に四月が去り、五月が訪れても、何の通知も届かない。碧は無性に腹が立つとともに、それを悟った。自分を無視した会社とその人事部の不手際や、無礼極まりない不遜な態度にではなく、そもそも自分という存在が、かほどの価値もないままに、彼らの記憶と記録から消し去られていることに、酷く自尊心を傷つけられた。ただしこの傷はまた同時に碧自身の冷笑を買った。まさか自分の裡にまだ自尊心などというものが身を潜めていたなんて! とはいえ人間は必ず自尊心から喜怒哀楽の全てを生み出すものである。
この待たされる人間のさめざめとした流血のような苦しみは、寧ろ碧を殆ど強靭にした。碧は今回の不採用を、北村や小田や山本に慰められたが、慰めなどなんと恥ずべき無価値な報酬だろう。第一慰める側も『仕事』で碧を慰めているに過ぎないが、こんな商業的な慰めにも耐えることが出来たのは、このためな気がする。
慰められる側もそのうち慰められることに慣れてしまうと、慣れに直結して現れるものは感謝や哀楽ではなく、寧ろ外因的な憎悪の方である。外因から生じる憎悪は、内因から生じる憎悪に比べれば、遥かに人間を冴えさせ、賢くし、強権的に武装させるが、碧は寧ろこのような憎悪に飲まれない抗堪性を得た気がするのである。挫折するにはまだ、慰めも感謝も哀楽も憎悪も、どれをとっても足りていない。
就労移行が早くも荒々しい船出に始まり、岩礁に乗り上げて立ち往生している碧の手元には、細緻な工芸品の飲みかけのマグカップが置かれている。マグカップの漆黒の縁は、淡い西日を受けて玉虫色に光っている。碧は注がれたブラックコーヒーの僅かな残りを全部飲んだら帰ろうと考えていた。
施設貸し出しのこの容器は、碧にはよほど縁遠く思われる、用の美を備えた見事な陶芸品である。施設代表の小田の陶芸趣味のために、地元陶芸会館の通販で見繕われ、しかも入所者の就職が決まったあかつきに入所者各々に贈呈される。
碧のマグカップは、側面に円形粗目模様が複数刻印された、黒飴地に金斑点のきらめく金茶窯変釉である。だが少なくとも、碧にはこの工芸品の優れた価値が分からないし、今みたいななんとなく呆然とした気分では分かろうとする気にもなれない。
入所一週間後に自分用のカップを手渡されたとき、碧ははじめ反応に困ったが、壮年の小田は、一つ五千円は下らないけど、早めの就職祝いなら安いもんだと言って軽々と笑い、一階和室とキッチンを結ぶ小廊下脇に設けられたドリンクコーナーに碧を連れてゆくと、彼にコーヒーメーカーを勧めて、
「どうだい? 僕のカップは買ってからもう五年にもなるけど、何となく、小さな幸福だと思わない? インスタントコーヒーでもちょっとだけおいしく感じるだろ」と気さくに尋ねると、
「はい。美味しいです」と碧は安堵し微笑した。
だがそれも随分前のことである。今碧は、これからしばらく待ち受ける不遇の連続と、嵐の航海の予想で頭が一杯である。
碧は和室のサンルームの一人席で、背もたれのない小体なラタンのスツールに腰掛け、勉強机に頬杖をして、憂鬱な美しい視線を小庭の石塀の濃い陰の中に落としている。
かといって碧は何か思い煩っているわけでもなく、何か考えているわけでもない。これではまるで、あのアパートの怠惰な悪習がまた碧の生活に再び目覚めてきて、六畳の部屋が二十四畳の和室に、化学繊維のメッシュのデスクチェアが籐椅子に変わっただけである。
こういう野放図な、閉所間際の夕焼けどきに、ある男がまさに就労相談を終えて、奥の間から出てくるのを碧は見かけた。もっとも入所してから一人の友人も出来ずに、碧はこの特徴的な男のことをずっと気にかけていたが、やはりその持ち前の人嫌いから、野卑な興味を隠していたのだ。
面長で短髪の、眼鏡をかけた出っ歯の醜男は、左耳に目立つ大型の耳掛け型補聴器をかけている。またその目は、右がきつい外斜視で、まるで変色性の爬虫類のように、あらぬ方向の世界を憎んで鋭い。
碧の卑俗な興味の矛先は、その醜男の右足より拳二つ分は明らかに短く、殆ど骨と皮だけのような細い左足に突き付けられていた。その脚のせいでこの男はいつも不安定な積み木のようにぐらつきながら歩くのである。リクルートスーツの胸ポケットにわざとらしく垂らした、赤地に白十字とハートマークの身体障害者標識が誇らしげな顔をしているこの飄々とした男の名を、松風といった。
松風は、和室の隅でじっとしている碧を見かけると、怪訝な顔をして、喉の奥で痰を切った。
松風も碧のことを認知してはいたが、彼もまた底抜けに人間嫌いなために、碧の美貌を見かけると、それを自分の野蛮な空想の世界に持ち込んで、彼のことなど全く知らないのに、勝手に妄想を膨らませては石を投げて痛めつけ、貶すような悪趣味に興じていたので、今日も碧を見かけると直ちに、
『気分が悪い。俺みたいな醜い男にとって一番恐ろしいのは、美女なんかでなくてああいう美男の方だ。憂鬱な顔の美男ほど、醜悪な男の気を苛立たせるものはない。俺のように本当に醜悪な男は、憂鬱という、持てる者にだけ許されたあの感情の源泉が理解できないからだ。俺がもし感情の独裁者だったら、俺はまずあの腹立たしい憂鬱という奴から真先に処刑し抹殺してやるだろう』などと考えた。
松風は、通りがけに偶然碧と一瞬目が合った。碧が顔を背けた。その無口な美しい横顔を睨みつけて、いきなりこう言い捨てた。
「おいお前、気付いてないとでも思ったか? いつも檻の中の動物でも観るような哀れな顔で俺を見やがって。失礼な奴だ」
碧は面食らって言葉が出なかった。ただし碧は、この松風の殆ど遠吠えのような放言に、恐怖を感じて黙らされてしまったというよりは、あけすけに己の背徳を指摘された気がして黙ってしまったのである。
碧が実際そうであったように、たとえ障害者でも松風の特異な奇形を見ては、何らかの同情を抱かないことはない。
親に虐待され育児放棄された幼児を目撃して、可哀そうだと思わない人間は殆どいないが、思うだけで実際に育ててやらない限り、憐憫は自己陶酔に過ぎないと分かると、この奇体な怪物は目撃者の自尊心を見透かしながら自若に破壊する。すなわち碧は、初めて同類を得た悦びに心を犯されていたのである。
碧が己を恥じて緘黙しているのをよそに、松風は自分が二人の間の主導権を得たことを感じて満足すると、内心大喜びで急き立てた。
「どうした、喋れないのか。舌が無いのか? 別に俺はお前を恫喝してるわけじゃないぞ。どうせ俺もお前も外じゃ目障りな障害者だ。ここでくらい仲良くしても悪いことはないだろう」
松風は、いつのまにか馴れ馴れしく碧の肩にぐるりと腕を回していた。
椅子に座った碧の肩に腕を回すには、松風は少々前傾を要した。すると下半身が覚束ない。松風は碧に殆ど体重を預けることになる。しかし木乃伊のように痩せっぽちの身体では、何ら碧を脅かしすらしない。
「お前の目つきが、あんまり醜くて無様で、前から癪に触っていたんだ。だがそれが今ではもう寧ろ気に入ってね。セミナーのあと、他の奴らが自分の過去について無駄話に興じて苦しみを分かち合っているのに、お前はあの無様な輪に混ざろうとしないところが特に良い。なに、ようするにこいつはよほどきちがいだから、俺と馬が合うに違いないと思ったのさ。まあ同じ障害者のよしみだ。よろしくな」と、松風は詐欺師のように笑った。
詐欺師が皆そうであるように、松風にはおよそ恥というものが無かった。彼のこれまでの人生、健常者による無言の迫害と差別に満ち溢れた彼の人生が、彼から自己嫌悪の一切を奪い去り、あまつさえ憎悪や罵詈雑言を露わにすることへの一つの遠慮も失わせていた。
彼の信条によれば、健常者のあらゆる行為は全て差別に言い換えることが出来た。特に感謝、謝罪、称賛などという行いは、見るも忌まわしき、障害者を冒涜するための健常者の三種の神器であり、彼にとって健常者の行為とは、その前にまず自分の四肢を捥ぐくらいしなければ、どれも誠意を欠いたものと言えたのである。
松風は徐に碧の肩に預けていた腕を離すと、近くの木椅子を持ってきて腰掛けた。その動きの一連は緩慢で拙い。長さの違う両足が、初めて竹馬に乗った児童のようにちぐはぐに動くので、それに伴うあらゆる所作が狂って見えるのである。
「俺は松風だ。お前は?」
「佐藤」
「ありきたり過ぎて偽名にもならん名前だな。見たところ精神か。まるで死人の顔だもんな。まあそれよりお前、就職は一般枠か障害者枠か、どっちで行くつもりなんだ」
松風は手をズボンにやると、なにかポケットの中をまさぐり、煙草を一本取り出した。それを見て碧は不快な顔を敢えて隠さなかった。契約時に読んだ誓約書の、施設内での飲酒喫煙禁止の但し書を思い出したのである。
それから松風は碧に指図して、縁側のサンルームの、日よけすだれの掛けられた窓を開けさすと、安物ライターのフリント・ホイールを回転させて煙草に着火した。
松風は心地良さそうに満足げな顔で一服しながら、
「俺の経験上、精神障害者の奴は、障害者雇用じゃなく一般枠で就職した方がいい。さもないと後悔するぞ」
「君が何と言おうと、僕は障害者雇用で就職するつもりだよ」
すると松風は咥えていた煙草を指に据えて、大笑いした。フローリングに消えばなの吸殻が落ちた。碧が慌てて機転を利かせて、飲みかけのコーヒーでポケットティシュを濡らし、数枚重ねにしてふき取った。
「ははは。あの小田とかいう胡散臭いオヤジに、まんまといいように吹き込まれてやがる。何と言われようとだって? 今まで他人から受けてきた仕打ちでおかしくなった奴がよくもまあ。
いざ社会に出てみろ、俺たちは一度障害者というレッテルを張られたら、健常者からは死ぬまできちがい扱いされ続けるんだ。まあ間違いなく、同類の中の一部のホンモノのきちがいのせいで、ただの弱者の俺たちまで苦しまなくてはならないのも事実だが、少なくとも健常者は人間の社会平等権を謳いながら、俺たちのことは同じ人間どころか動物とも思っていないのは明白だ。……大事なのはここだ。思っているか思っていないかだ。あいつら健常者は、思っていても言わなければ全て許されるんだ。健常者は、言わぬことで思想を全て許されているから、そのせいで俺たち弱者は何の叛逆も許されない。俺たちはきちがいだから、何か不満でも言えば逆に非難され、絶滅させられる。実際お前は今幸福かね? もしお前が不幸なら、それはこの世界の在り方が間違っているからだ。
とにかく障害者求人なんてやめておけ。健常者に都合の良いように創られた雇用制度に、なぜ従わねばならんのだ。採用通知の紙切れ一枚のためにわざわざ自分から差別されに行くようなもんだ。俺たちは差別の報酬で給料を貰ってるんじゃないんだ。特にお前みたいな奴は、少なくとも外見では差別されないんだから。上手く相手を欺くべきだね。外見で判別されないならいくらでも手段は残されている。とにかく健常者って奴らは、自分たちの健常な理解の範疇では、差別されている人間の感情など無関係に、立派に反差別主義だもんな」
碧は場を憚らぬ松風の暴虐な演説を聞いて呆気に囚われてしまったが、そのごく一部に関しては納得するに足りたので、別に反論しようとも思わなかった。確かに自分の利益のためなら、他人を利用し騙してでもいかねば、我々弱者は生きていけないような気がする。
現に碧は、最も信頼していると思いながらこんな無為な夕方を過ごして日葵の期待を欺き続けているし、あの忌々しい会社からは嘘をつかれ存在ごと無視されているではないか。
嘘は明らかにならない限り真実に他ならず、嘘が何事かを真実として成立させ、人間構造のいずれかに貢献しているのなら、それが弱者によるものだろうが強者によるものだろうが、誰に咎められるものでもない。
松風はファーネスの閉所時刻が迫るうちにも、しげしげと碧の俯いた顔を観察していた。そしてその弱気な美しい顔を見るうちに、きっとこいつは恐ろしい才能を秘めていると思いつくと、たちまちある野蛮な計略を閃いたのである。
『そういえばこいつを初めて見たときは、女と一緒だったな』
松風は乳白色のマグカップの底にぞんざいに吸殻を押し付けた。半艶消し白萩釉の優れた彫琢品は、今では灰皿代わりにされて、底面の野菊の油彩が穢されている。
これもやはり、小田が松風に与えたものである。だがもしこの事業所で行われる悪行の数々、つまり障害者を自分の金儲けに利用している事実の口封じのために、たかだか五千円程度で済まされるなどと思われているなら、俺も随分舐められたものだと松風は思った。
松風は碧より少し先にファーネスを発つことにした。玄関を出ると陽が殆ど落ちていて、街は晩春の夕闇の底である。
昨日暖かかったかと思えば今日は肌寒い、夕闇の捻くれた暗鬱さにもいくらか加勢されて、松風は自分が今しがた閃いたばかりの、碧を利用した計略は、マグカップの偽善の悪行に比べればずっとまともだと考えた。